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伊藤博文による明治憲法制定過程について

2017年05月17日 | 魂の人間学
 伊藤博文直話(新人物往来社)の3章に明治憲法制定のいきさつ(過程)の話が出てくる。伊藤は明治憲法制定の立役者であったから、制定過程の詳細を聴くには、この人を置いて他はない、ともいうべき人だ。
 伊藤博文はたいした人だ。幕末長州の松下村塾に学び、松陰の死後は桂小五郎(のちの木戸孝允)や高杉晋作について、幕末の倒幕勢力の核心にいたと言っても過言ではない。
運もいい。同世代で生き残っていれば、伊藤をしのぐか並び立つような人物が幾人もいたのだ。久坂玄瑞、入江九一、寺島(作間)忠三郎、來原良蔵、松島剛蔵、挙げればもっともっといるのだ。しかし、伊藤は生き残った。
高杉の功山寺挙兵に伊藤は命を捨てる覚悟で最初から参加したのだ。最初はたった80余名程度のなかで。赤根武人のあとをついだ奇兵隊の山縣(有朋)は、少し遅れて後から参加したのだった。伊藤は若い頃から、頼山陽の日本政記を熟読していたそうだ。
 話を憲法に戻すと、明治憲法は、明治15年に伊藤博文が立憲政体の研究を明治天皇から命ぜられて海外に飛び、憲法が発布されたのが、明治22年である。
海外での研究期間は明治16年に帰国しているから1年数カ月だ。幕末に海外渡航経験のあった伊藤は明治維新の初期から、国是綱目(当時、伊藤が兵庫県令(知事)であったことから、兵庫論とも言われた)を建白した。その後先輩格の木戸孝允らを中心に版籍奉還が実施され、その後に「廃藩置県」が実施されている。伊藤は思想的には、先を見通していた。
ただし、板垣退助などの自由民権運動とは距離を置き、木戸とともに漸進主義の立場をとった。木戸孝允であっても立憲君主制が望ましいことは見通していたが、具体的な条文を起草する段階までは行っていなかったし、国民もまだ、その段階に達していないという判断だった。
この当時の漸進主義というのが、キーワードになると思う。ゴールはある程度同じであっても、その時期については、焦らない姿勢だったのだ。そして明治10年から11年にかけて西郷、木戸、大久保が亡くなり、明治14年の政変で大隈が下野すると、伊藤は国家の中心人物となっていくのだ。
 明治憲法は、海外への調査研究の素養をもとに明治19年ころから伊藤博文が、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎らと明治憲法の条文にいたるまで、ひとつひとつの条文を激論を繰り返しながら吟味して作成していったのだった。
日本政記を精読してきた日本文化への造詣と、封建社会の身分制から新たな御一新を刃の下を潜り抜けながら体現し、生き延びた経験を経て、海外にも留学し、政府の重要ポストを経て初代総理大臣を経験してきた伊藤の業績の真骨頂でもあっただろう。
 明治憲法原案は、その後承認を得て、明治22年2月11日に発布されたのだ。
 新憲法制定は、このような歴史に学んで焦ってはいけないのではないだろうか。確かにこれまで、さまざまな試案が出ているが1回制定してしまったら、日本ではなかなか改定することは難しい。じっくり吟味することが必要だと思う。
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