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楠木正成に悔いがあるとしたならば・・・

2017-05-20 03:46:50 | 歴史について

後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成、日本史を代表する忠臣と謳われているが、それはそののち水戸光圀公らによって再評価されてのことだった。それまでは「逆族」の扱いだった。

それが江戸中期、水戸光圀公などの再評価により、南朝正統論が力を持つようになった。明治以降になると、さらに南朝正統論が勃興し、楠木正成らの復権が実現した。最終的には明治天皇御自ら南朝の正統性についてのご言及があって決着がついた。以来楠木正成は敗戦を迎える時まで、学校の教科書でも日本を代表する忠臣の一人として国民に教育されてきた。

 

楠木正成で有名なのは湊川の戦で、楠木正成とその一族郎党は、この戦いで壮絶な最後を遂げた。その戦いのありさまは、「太平記」によると戦を戦った相手の足利尊氏も、敵ながらあっぱれと称賛するような見事な戦いぶりだったという。後醍醐天皇に建武の新政に不満を抱いた武士や民の声を代弁して京へ上ってくる足利軍に対して、「このたびは尊氏を受け入れてほしい」と嘆願した楠木正成だった。諫言である。しかし、その訴えは聞き入れられなかった。最早戦に望むしかない。しかし、勝てる見込みは歴戦のつわものの正成にしてみても、強大化した足利尊氏軍に、この時ばかりは勝てる見込みはほとんどない状態だった。それは、建武の新政が、あまりにも公卿たちの私利に傾き、後醍醐天皇復帰のために戦った侍たちや、一般民衆への思いやりや心配りのない政治姿勢に、その限界があったからである。

民心の信頼を失った後醍醐天皇側には勝利の見込みはほとんどあり得ない状況だった。最後、楠木正成は死を覚悟して出兵していったのである。

 

楠木正成に無念さがあるとすればどのようなことだったのだろうか?

楠木正成にしてみれば、とことん無念さを孕みながらの出兵であったことは間違いがない。本来戦は勝たなくて位は意味をなさないのである。いくら、後醍醐天皇が天皇家の正統的後継者だとしても、その為政が民心から離れてしまっては、天も見放さざるをえない。

楠木正成にしてみれば、湊川の戦で足利軍の上洛を阻止できればいいが、それが難しい場合は、足利軍は京にまで攻め上り、結局後醍醐天皇の親政は挫折せざるを得なかったのである。

楠木正成と言うと、一般にはこの湊川の戦が知られているが、実は楠木正成は極めて優秀な行政能力と、軍事的知識に豊かだった。彼が繰り出す軍略は常に的を得た戦いで、それまで常勝してきたのである。彼の見事な軍略は常に勝利をもたらしてきた。

また民心掌握においてもかれは優秀であった。行政能力抜群の統治能力を持った武将だったのである。

しかしながら、その正成が身命を賭して訴えた訴えは聞き届けられなかった。楠木正成は如何ほど悔しかったことだろうか!

 

楠木が敗戦して後の官軍は、敗走に敗走を重ねて、結局後醍醐天皇と一族は京を離れざるを得なくなった。吉野に逃げて行かざるを得なかったのである。しかし、一旦は吉野に逃れた後醍醐天皇だったが、いわゆる南朝と言われた後醍醐天皇とその後代は結局のところ、その権威を失い。最後は北朝の政権に屈服して行かざるを得なくなるのである。

 

「太平記」は、全40巻(巻22が欠落している。これを前後の巻より類推して補完したものもある。)で、軍記ものとしては最長の内容を備えている。時代は、後醍醐天皇の誕生から即位、建武の新政の失敗と南北朝時代。後醍醐天皇の崩御とその後の室町幕府の動向などが、書かれている。

戦国武将にとっては、「太平記」は兵法書としての側面からこれが読まれ、戦国武将の兵法の教科書としてよく読まれた。また江戸時代の初期には、太平記に様々な注釈を加えて、治世の教科書としても学ばれれうようになって行った。

 

「太平記」の作者は特定されていない。おそらくは複数の人物によるだろうと言うことは確かなようだが、実際に誰が書いたのかとなると諸説あって定かではない。小島法師がその作者とされ、それがこの太平記にしか登場しない児島高徳ではないかとする説や、記述内容を見ると山伏の素養が無ければ書けない内容があることから児島山伏によるものとされる説もある。

概ね南朝方を正統と見る見方で記述されているが、後醍醐天皇の評価に関しては、その治世の在り方が失敗だったという風にも取れる記述もある。

 

結局太平記の作者は、南朝の正統性を訴えながらも、結局後醍醐天皇による親政が失敗せざるを得なかった側面を描くことを通して、後代に反省の材料として示すために書かれたのではとの推察も成り立つ。

 

楠木正成に関してかなりの量を割いて記述がなされているが、楠木の優れた軍略や治世の在り方は、そこに学ぶべき点が数多くある。しかし湊川の戦で死して果てたことは無念さとともに、そのような死に追いやった後醍醐天皇や後醍醐天皇を取り巻いた公家たちの判断や行動にある種の問題を提起しているとも言えるのではと思う。

現代の時局や統一家の動向にあてはめてみれば様々な点で、太平記が物語る内容から学び、今後の政治や我々自身の身の振り方などについての参考になる点が数多く存在している。

<この項続く>

 

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