かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠92(スペイン)

2017年03月30日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠11(2008年9月実施)
   【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P58~
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子 まとめ:鹿取未放


92 ラ・マンチヤはゆけどもゆけども向日葵の黄の荒寥に陽の照るところ

        (レポート)
 ラ・マンチャはメセタと呼ばれるスペイン中央高地にあり、アラビア語で「乾いた土地」という意味。そこは「ゆけどもゆけども」「向日葵の黄」がひろがっている。黄はあらゆる色の中でももっとも光に近く存在しているとは画家の言葉だ。一方陰陽五行論においては黄を最高の色として讃えている。そういう黄の思想に、また実際の黄の広がりに、精神を深くして向き合ったであろう作者がとらえた「黄の荒寥」とは見事な措辞だ。黄の明るさの背後にひそむものを作者は露わにしてみせた。「ラ・マンチャはゆけどもゆけども」とは、かのドン・キホーテの遍歴を彷彿とさせ、またそれは私達の人生にもかさなるのだが、彼の分別と狂気、夢と絶望等は「黄の荒寥」という抽象概念に帰納されてゆく。一度「黄の荒寥」へ帰納させながら作者は結句において「陽の照るところ」とどんでんがえしとも思える言葉を置いている。何がどうであろうと神のてのひらのようだと言ってはいないか。(慧子)


     (当日発言)
★(慧子さんの評「神のてのひらのようだ」に関して)みなさんが納得できるかどうか、私は違う
 と思う。(崎尾)
★違和感がある。(T・K) 
★向日葵が枯れかかっていて真っ黄色ではないから「荒寥」(N・I)
★「向日葵の黄の荒寥」の語の働きがすごい。(藤本)
★この歌の意図がどこにあるのか分からない。(T・H)


     (まとめ)
 評者の「神のてのひらのようだ」に関して議論が沸騰した。深読みではないかという意見が多かった。また、「黄の荒寥」の解釈を巡って、あるいは「陽の照る」との関係についてさまざまな意見が出た。教会の尖塔や遣欧使節、西洋の絵画等を扱った「西班牙の青」の一連と違って、ここでは神にまで思いをはせていないように思う。広大な荒れ地に植えられた向日葵が枯れかけて黄色く張ったみずみずしさを失っているのを「黄の荒寥」ととらえているのではなかろうか。
 同行した「かりん」の作者達が同じ場所をどう詠んでいるか調べてみた。
  農の子のわれはさびしむ広けれど荒き粒子のラ・マンチャの土地
松本ノリ子
  しおれ咲くひまわり畑ラ・マンチャの乾期まだまだ続く六月
  広大な向日葵畑にひまわりは皆痩せて立つ雨を待ちつつ
                   田中 穂波
 これらの歌を読むと、向日葵は荒れた土地にしおれ痩せて咲いていたことが分かる。陽光は恵みではなく雨を待ち望む植物にむごく容赦なく照りつけていたわけだ。その情景をなすすべもなく見ながら通り過ぎる旅行者たち。そしてまもなく忘れてしまうのだ。(鹿取)

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