天照の独り言

天照の個人的動向やちょっとしたことを書き込むために作成。

不浄とは何か。浄めとは何か

2016-10-15 04:13:37 | Weblog
さてこれからは以前少しだけやったスタイルの形に沿いながら話を展開させていきます。

といっても新しくこのブログを見た方にはわからないと思いますので、簡易的に説明を。


このブログでは色々阿含宗及び初代教祖桐山氏について批判してきましたが、単なる批判だけではいつも同じことの繰り返しになるので
少し前からは信者さん向けというかある程度阿含宗のことを知っている方向けに問いかけるようなスタイルにしました。

ということです。

ですからもしも新しい読者さんで「言っている内容が専門用語のようでわかりにくい」という面も出て来るとは思いますが、ここはどちらかというと阿含宗にある程度接している。
もしくは現信者さん、元信者さんなどが見られているのが多いので、そのように主旨を変えた次第です。

また今までは「新しく見ている方向け」に優しめに語っても来ました。
ですからもしもわからない用語のようなものがあれば、ネットで調べるか過去ログを読んで参照するなどしていただくこととなります。
またはASCのメルアドに問い合わせてくれればお答えもします。

そういうことで開始してゆきます。


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さて、教祖が亡くなってから第一回目になりますが、この事項から参りたいと思います。





「不浄とは何か。浄めとは何か」





宗教的に疎い方や仏教に疎い方は「何だこれ」となる言葉(概念)ですが、このことについて触れて行きます。






仏教では煩悩にまみれ精進せず世俗の垢にまみれた人を「不浄なる存在」と見ます。



そういうと「仏教ってそういう物なの?」と思われるかもしれませんが、これはあくまで概念です。
本気で本当に不浄だ、と言ったり差別しているわけでは有りません。

しかしながら実際仏教を講じてみると、この概念に結構やられているというのを、自分は先日思い出しました。
つまり今ではそうでもないですが、阿含宗に在籍しているときはこの概念に支配されていた、というほど毒されていたわけです。


またこういうのもあります。
仏様や菩薩などの存在は清く、人間、特に何の修行もしていない巷の人間は清々くない。
つまり煩悩にまみれるばかりの不浄なる存在である、とみるわけです。

そういった不浄を無くし浄めるためには、身も心も浄めることが必要となってきます。
その一環として仏教の修行を行う。行動や考えを仏教の教えに基づいて改め直す、ということです。
その結果心身を浄め、菩薩~仏陀となってゆくわけです。

しかしその概念はいったん偽仏教と言えども、仏教を学んだ輩ならある程度わかりますが、仏教を知らない、または一般の方からすれば「あまり理解できない世界」となります。



またこういうのもあります。

娑婆(仏教で言う巷・世間の世界の事)で法に触れる、または道徳・常識上よろしくない行為をした人などは「不浄」とみることがあります。
つまり「自分は汚れた存在で皆とは一緒に成れない」というやつです。例を挙げるなら犯罪者や犯罪に加担した方、風俗関係に働く者や性の乱れを起こした人などです。

この様な人たちは例え仏教でなくてもよそ様の宗教でも「汚れた存在」として自分を見る場合があります。
そしてその汚れや罪から解放されたくて宗教に身を置くという方もいます。


まあ、このような場合だと場合が場合ですから「罪や穢れを感じることはあるかもね」と思う方もいるでしょう。
ところが仏教のように特段何もしてない普通の人や、例に挙げたような「罪を感じるような悪いこともしてない人」には「穢れだの不浄だのというのがわからない」と言う方もいることでしょう。




実は私は「それで正解」と思っています。




つまり宗教という物は変にかぶれて、やれ「罪だの穢れだの」とやらかすのです。
それこそそんなのは本当にその人が反省し改心して行いを改めていればいいだけの話で、仮に神だの仏だのが「お前は汚れて(穢れて)いる。不浄である」なんていう自体がおかしいのです。



なんでこういうことを天照は持ち出してきたのか?というと、宗教の持つ特異性がこの事項に絡んできていて、尚且つその概念が「信者を縛り付ける」からなのです。




阿含宗の例で言うと判りやすいので取り上げてみましょう。



先に述べたように如何に信者と言えども「菩薩、神仏」という存在でない限りは「不浄なる存在」と見ます。
特に阿含宗は煩悩にまみれたのが不浄、と見ません。他にも不浄の概念を与えるのです。

それを全部まとめるとこうなります。

1)煩悩にまみれ世俗の行為を出ない(仏教的不浄)
2)過去世で行った諸々の悪業(カルマ的に不浄)
3)先祖が成仏してないために霊障を受けているが故に不浄(霊的不浄)

こういう風に見るのです。

だから先に言ったような「仏教的不浄」の概念だけでなく、それに上乗せして「お前はかなりの不浄な存在なんだ」と言い、認識させます。
なので「タチが悪い」ということですし、その概念を植えることで信者に信仰を強く行うための拍車を掛けます。



こうなると、もう「単なる仏教の範疇」を超えているというのがわかりますね。
しかし信者というのは哀しいもので、これを「まともに受け取ってしまう」から厄介なのです。



もちろん、信者の中にはこういう概念を嫌い「逆に阿含宗の信仰をやる気が失せた」と信仰をしない、辞めるなんて人もいます。
その方が正しいしよろしいのですが、普通は信仰を中座する・放棄するというのは「ろくでもない人物」と見られがちです。

ですから自分もそういうのを過去見ましたが、親に勧められて信仰を嫌々ながらやらされている子(人)を見ました。
道場に来ても悪態をついたり、愛想も無かったりなど単なる「嫌がり」を超えて「愚連隊じゃないか?」という人もいましたが、まあ総じていえば「拒否っている人」を見たことはあります。

自分たちもそういう人を見て「あの人は信仰という物を分かってないからしょうがないよね」と大人の対応をしたものですが、阿含宗が偽仏教で詐欺宗教だと判れば「愚連隊」の方が正しいわけですから汗顔となるわけです。



どうでしょうか? 私が言わんとしていることがだいぶ見えてきたのではないかと思います。
つまり、こういった「逸れた概念」を植え付けて、信者を教団や教祖の思うように従わせる、という恐ろしい教えを実行しているのです。



また、こういうのも有ります。


先に述べた1)~3)に対してのことですが、こういうのがあります。


1)に対しては仏教(阿含宗)の教えを学び、その教えに沿うという行為をします。
教学の勉強や、実際的に自分考えや行動を是正してゆく、というものです。

ただし、阿含宗ではこのことについてはあまりできていません。
なぜならプライベートな世界は如何に宗教といえども24時間365日踏み込んで制御できるものではありません。
また実際的な事項は本人が判断し行う物です。ですから完全に制御や是正が成せるのは至難の業です。
ましてや阿含宗は偽仏教ですから、尚更その点に於いてはできてないのが現状です。

2)これは道場に来て例祭や何かのイベントなどに参加する。また梵行というもの行い善行を行うという物です。
不浄は不徳とも言えるものです。徳が足りないから不徳な行為をしてしまう。
また過去の罪障も消すには徳が無ければ相殺もできない。ゆえに「徳を積め」と宗教的行事(行為)を行わせるのですが、これは詭弁であり方便です。
つまり信者を教団の手足にするための方策であり教えなのです。

3)先祖が成仏してないために生きている人に悪影響を与える、というのが阿含宗の中に有る概念です。
つまり霊障を皆誰しもが受けている、というとんでもない概念です。

しかもたくさんの先祖が霊障を起こしているのですから、その影響は甚大であるというのですが、これは真っ赤な嘘です。
しかしながらこの概念により信者がせっせと「解脱供養」というものを行うので教団は潤うわけです。
つまりは強迫概念を与えてその結果、教団が儲かるという仕組みが教学の中に有り、それを真に受けて損をするのが信者のみ、というのがあるわけです。


答えも混ぜながらですから、ちっとわかりづらいかもしれませんが、つまりは「騙し」だということです。
そしてこの中の2)と3)には「護摩によって浄める」というのがあります。



阿含宗では密教の様式を用いていますから、密教寺院のように護摩を焚きます。
その護摩には諸々の不浄を焼き清める、という効果があると習います。

ですからその護摩を焚く例祭に参加するか、イベントでの護摩法要、もしくは毎年二月に京都で行う「大護摩」に参加すると言うことを習います。
どうしても生活の都合上例祭に参加できない人は、道場にてVTRでの護摩を拝す、ということもしてくれます。

そういうわけで阿含宗では清めの行為として

1)考えや行動を阿含宗で習う物に変える。
2)梵行に参加し修行を行う。勤行も欠かさない。
3)霊的不浄を無くすために解脱供養を行うのと護摩法要に参加する。

この様な感じが阿含宗の修行であり、習う事項です。





ただ、これで「本当に清まったのか」または「浄めるってどういうことなのか」と考えてみることです。





不浄不浄というがそんなに不浄なのか。
これと言った犯罪もしてないし、また常識外れなこともしてないし、人間としてまっとうな生き方をしている。
そういう方は結構いらっしゃると思います。そういう方まで「不浄だという方がおかしくないか?」
その様に考えてみることが当たり前であり、必要なのです。


ただ、注意せねばならないのがこの疑問を阿含宗の中でぶつけても「意味がない」ということです。
なぜなら阿含宗の中はグローバルな考えの人は残念ながらいません。
皆教祖の教えに感化され、その方向性に沿っていますから、まともな答えは返ってきません。
ですから、仮にそのような疑問を持っていても阿含宗の中では教祖の考えに沿った答えしか返ってきませんから、結果騙されます。
つまり「元の木阿弥」になるか「不満をくすぶらせるまま」か恐ろしいのは「自分の考えは間違いだった」と合点させられてしまいます。

当然一番最悪なのは「自分の考えは間違いだった」となることです。
この状態に成るのが実は意外と多いのです。そして阿含宗の逸れた教えに沿ってしまい、ますます盲信(猛進)してしまいます。



阿含宗は、もっともらしいことや変な理屈で抑え込まれるのです。
また一番最悪なのは外部との比較がほとんどないことです。



なんで阿含宗に居て欺瞞に気づかないのかというのは、外部との情報や比較、検証がないからです。
現実的に言うと閉鎖された世界。北朝鮮に居る市民のようなものです。信者さんはそのような状態になっているのです。
そして阿含宗関連の書物や教祖の本や教団関係の本ばかり読むので、余計視野が狭くなり嘘の教えにはまるのです。

だからその状態から抜ける、もしくは目を覚ますには「外部との情報の検証」がかなり役に立ちます。
私が24年間もはまっていたその原因は今述べた通りで、目を覚ませたのは「外部との情報との検証」が功を奏しました。

「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がありますが、あれは阿含宗に当てはまる語でもあります。
阿含宗の中に居て阿含宗の事しか知らずにいて他は学ばない。これでは真実も分かるはずがありません。

尚且つ怖いのが過去の自分もそうでしたが、阿含宗は本当の仏教教団であり本当の仏教を教えていると信じ切っていた。
ところがよく調べたら嘘を教えていたのがわかった。つまり嘘を「本当だよ」と教えられてそのまま24年も来たのが自分であった。
しかも嘘を教えられているのを知りませんから、それを外部の人に(知人など)心の底から教え話していた。
それが間違いであって嘘であったと後で気が付いて顔面蒼白となったのは当然のことです。

だから未だに現信者さんなどはそうですが、阿含宗で勉強し教わった大半は「嘘ばかり」なのです。



なので護摩にあたっても清まらないし、行事に参加しても「清まらない」
先祖成仏っていうのも嘘だから解脱供養をしても意味がない。ゆえに霊的浄化なんてのも嘘です。

阿含宗で教わる「仏舎利尊解脱宝生行」もよその教団のパクリで可変物ですから清まるなんてのもないし、因縁を切るなんてのもゼロです。
だからほとんどが嘘ですから何の意味のないことをやって教団に貢いで終わり、が信者さんの果てなんです。



私は過去在籍していた頃、サービス業に従事していたので中々思うように時間が取れませんでした。
特に土日・祝祭日なんてのは稼ぎ時ですから、当然休みなんてありません。

そうなると阿含宗でのイベントの開催は土日ですから参加したくてもできませんでした。

とても悔しくて転職したいと思っているほどでしたね。




そのうちかなり年月が経ってから土日が休みな職に就いてようやく例祭に気兼ねなく出れるようになりましたが、今度は一向に清まった気がしないのです。

「自分の感覚だからそのように感じるのだろう」そう思っていましたが、護摩の炎にあたっても帰りに事故に遭うということもあり疑念が湧いたこともありました。

そしてそのうち「阿含の護摩には力など無いのではないか」思うように成りしばらく経ったある日、阿含宗の嘘を知ることとなります。
そうやって色々検証した結果、現在に至るわけですが、まさかほとんどが嘘、デタラメ、インチキ、パクリであったエセ教団だったとはかなりショックでしたね。




だから過去の自分を情けなくも思います。
清まりたい、浄めて高めて自分も出世し立派に成りたいし、社会に貢献したいと思った。
親に孝行もしたかったし、家族にも良い思いをさせてあげたかった。

ところが現実はそうはならず、平成15年には無職の身となった。
それから底辺を這いつくばって生きてきました。

その最中の苦しみも哀しみも阿含宗は何もしてくれませんでした。
自分は阿含宗と自分の心の勢いだけで生きていましたから、その頼みの綱である「阿含宗」が「偽仏教・詐欺宗教」だと知ってかなり萎えましたね。

それから立ち直って今があります。




結局は宗教じゃなく自分と家族や人が頼りです。特に基本は自分です。

今まで信じて仰いできたものが現実は幻だったわけです。
その幻と気づいたら、仰ぐ必要はない。
後は自分だけが頼りです。



また本当の仏教の内容を知った際にお釈迦様の言葉が身に染みました。

お釈迦様は何と言ったか?


「自分と私が残した教えと法が頼りだ。自分で自分の足元を照らして怠ることなく修行しなさい」


この中の仏教的要素を抜けば「自分だけが頼りだ」と言っているわけです。
お釈迦さまは最初から言っていたのでした。正しきことを。


それさえも気づかずに居ない存在を仰ぎ、拝んでいた自分。
何と哀しく愚かなことではありませんか。




だから自分が不浄だの何だの、そんなの関係ない。
神も仏も関係ないんです。自分ありき、なんです。



自分は下手に阿含宗という詐欺宗教に騙されて大きく長いよそ道をしました。
ですから皆さんはそのような回り道などをせずに、人生を楽しく生きてほしい。そのよう思います。

また、未だに目を覚まさないでいる阿含宗信者の皆さん。
早く気が付いて自分の大切な人生を取り戻してほしい。そのように思います。



今日はここまでとします。また次回。

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