天照の独り言

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阿含宗の嘘を見抜け③

2017-02-09 01:30:36 | Weblog
さて、二回程このシリーズから離れてましたが、戻って語ることにしましょう。

とはいっても、ただ昔からの教祖の批判だけだと何の面白みも無いですし、新鮮でもない。
やはり語るとなれば、初代教祖亡き後の「今」を見てゆくこともしなければ「見抜き」もないでしょう。

なので、初代教祖の事は欠かせないですが、今現在阿含宗での動き屋内容というのを示しながら嘘を見抜くための話をしてゆきましょう。



まず、今は時期柄毎年2月11日に京都で行われる「でっかい焚火大会」もとい「阿含の星まつり」が開催されます。
これについて纏わる事項から見てゆきましょうか。



初代教祖は2016年の8月に逝去しました。それからの阿含宗は初代教祖という大きな存在を無くしましたから、以降「どうやって教団を運営・継続するか」に躍起でした。
そしてそれは今も続いています。



彼らの取った方法としては初代教祖のやってきたことの伏線をなぞることもしますが、それだけに終ってないものをしました。
どういうことかというと「初代教祖を出汁にしてやり放題」の有様をしているのですね。それが特に顕著なのと異常さを醸しているのです。



人間、何事もそうですが「気が付かない」または「注意力や観察・洞察力」が欠けていると騙されたり、嘘や異常さに気が付かないことがあります。
特に阿含宗の信仰をしていても「これは変ではないか」というのが時折あったりもしますが、その度合いが以前にも増して「異常」なのです。

なぜかというとそれは「初代教祖を利用して発している言葉や内容」があるからです。



それらは数種ありますが、最たるものから述べると、まず教祖を後継者らたちは「第二の応供の如来」としてしまったことです。



そういうと先に言ったように「気が付かない人たち」は「何言っているの?初代教祖は仏様なのだから、そのように言われたり扱われても変ではないじゃない」という人もいるでしょう。
ですが、これがある条件を満たしていればその様でも構わないのですが、それが無いために私や批判者さんたちは「異を唱える」のです。



つまり、こういうことです。



初代教祖が生きている間に今後継者たちが言っていることを述べていたのなら不穏に感じながらも自分たちはそこを突っつきません。
要は初代教祖が言いもしない、伝えもしない事項を勝手にやっているから「いかがな物か?」というわけです。



初代教祖が生前言っていたことは「自分は死んで涅槃へ入る」「死後、信者たちや教団を見守る(守る・守護する)」という事項でした。

ですから、如何に傲慢でワンマンだった初代教祖ですが、自らを「如来だ」とか言ってはいないのです。
初代教祖は嘘つきと虚言癖があり、妄想(思い込み)が激しい人でしたが、さすがの教祖も自分を「第二の如来だ」とかその他自分の死後の位などを述べてはいなかったのでした。

それが死んで少し経ってから後継者たちが「第二の応供の如来だ」とかやりだしたのです。




また酷いのはそういう「名称」やら「位」の事だけではなく、教団の肝心な部分である「死者の完全成仏」の事項の「解脱供養」に必要な霊視と戒名をつける人である「霊能五人衆」を急に出してきたことです。

この事項に関してのことは以前述べましたが、このこともかなり由々しき問題なのですが、後継者たちはこの重要で禁忌な事項を簡単に披露してしまった。
そういうのがあります。

またそれだけに留まらず、この霊能五人衆らが行っているとなっていますが、初代教祖からの霊示を受けることが可能となっていますから「教祖霊諭」を連発している有様なのです。
つまりあの世から初代教祖が「このように言っていますよ」とお告げをする、というわけです。

このことによって後継者たちが勝手に物事をしているのではなくて、初代教祖様がおっしゃっているのだから信者はその指導に従いなさい、ということをするための「伏線」なのです。
なのでそれを今後通してゆくために重要で禁忌である事項に「敢えて触れてしまい出した」というのが顛末なのです。




そして当然、この事項は教祖が示したことではなく後継者たちが出したものです。




確かにこの辺りの事は初代教祖もニュアンス的には軽く臭わした面もあります。
しかし、その事項を行う人が誰であるかとか、どのようでとの詳しい事は示さなかった。そしてそのまま亡くなったわけです。



そうなると後継者たちは必死になって考えたわけです。その考えた末の行動が「今の阿含宗に見られるキテレツな事項」になっているのです。
そこを私や批判者さんたちは「変だよ」と言うのです。





その各おかしな事項については一気に述べると物凄く長くなるので分けて語ってゆきますが、まず最初である今回は「第二の応供の如来」と言っている事項にします。




まず、阿含宗ではこの「応供の如来」というの(語)を良く使います。
何も知らない人には何とも感じない語ですが、実はこれには様々な物があります。



阿含宗側、信者側から見てゆきましょうか。


この応供の如来というのは、数ある諸尊の中で最高度の如来とされています。
諸尊というのは仏教の観念上の中には様々な尊が居ます。

有名なのはお不動さんといわれる「不動明王」観音様と親しまれている「観音菩薩」阿弥陀様で有名な「阿弥陀如来」なんかが有名ですね。
後は馬頭観音やら愛染明王、千手観音、弥勒菩薩、文殊菩薩、お地蔵さんで有名な地蔵菩薩なんかも有名ですね。

そういう沢山いる尊の中で「如来」と付くのが高度な位の尊なわけです。明王や菩薩は如来の下位なのです。

で、そういう「如来」の中にも数体如来が居ますが、その中で最も位が高く高位なのが「応供の如来」というわけで、阿含宗は特にその位置づけで敬います。


特に「応供」という名称は貴重でして意味は「供養に応える」という意味です。

普通は如来というのは高位置にいますから信者、一般人の御許に現れたり応じたりしないのが常です。
しかし、この応供の如来というのは信者の供養に応える、という意味合いを持っていますから、信者が供養すればその供養に応える。
つまり功徳が得られるありがたい仏様だということです。




そういう風に聞くと


「何だ。結構良い仏様であって素晴らしいじゃないか」


その様に感じるでしょう。




しかし、この主張(内容と説明)は全くのデタラメです。
尚且つこの嘘をついたのは「初代教祖」です。仏教を知らない素人が「想像で物を言っているレベル」に近いほどの嘘です。


こういうのに多くの人が騙されているんですね。(過去の自分もそうでした)




本当のことを述べますね。




まず「応供の如来」というのは有るにはあるが、阿含宗の言うような内容ではありません。
それはどういうことかというと、応供というのは「名称」だからです。



これを見ていただきたい。


如来の十号、といい、それを検索してもらうと説明がネット簡単に出てきますが、良い世の中に成りましたね。
この十号というのをちゃんと押さえれば、嘘がわかるのです。


十号というのは言わば「10種の名称」だということです。
つまり仏陀を別な名称で呼ぶなら10個あるぞ、ということです。

だから仏陀を如来というし、応供ともいうわけです。
なので「応供の如来」と言ったら「如来の如来」もしくは「仏陀の仏陀」というので意味がヘンテコリンになってしまいます。

巷で言うような「男の中の男」というような解釈はしないでください。それとも違いますから。




つまり仏教的に知識が明るければ、阿含宗で言うような「名称を重ねて言うような愚行」はしないのが普通です。
要は間違っているのが「阿含宗」であり、本当の仏教を知らないで物を言っている、ということです。




私はこの事項を知って情けなくなり青くなりました。
だって、今まで教祖がそんな馬鹿な凡ミスを自分たちに教えているなどとは夢にも思いませんでしたから。


つまり初代教祖は「名称だけ」を見て嘘をついた。勝手な解釈をした、ということですね。


だから「応供の如来」は存在しないのです。





またこの応供の如来について初代教祖は有るエピソードを出してもいるんですね。
密教の中にこの応供の如来のことを書いているものがあると。
そしてその仏様に遭ったり姿を見ることは稀であると。

その貴重な仏様が我が阿含宗の護摩の中に現業したんだ。凄いんだぞ、とやらかしたわけです。


ところがその密教の中に、と教祖は言うがその肝心の書物が無いんですね。
また言い伝え、とも言いますが、どこの誰がどのように言ったかも証拠がない。

つまり初代教祖の全くの「言いがかり」というか主張だけで根拠も引用元も無いんですね。




これには私も舌を巻きました。
だってこうなると「想像で物を言っている」というしかないじゃないですか。




何が仏教のプロだ、と思いましたね。全くのど素人以下じゃないか。
尚且つ想像で物を言ったりするな、と。




だからこのように「応供の如来」なんてのは嘘でありねつ造なんです。元から居ないんです。







さあ、その上で阿含宗を見てごらんなさい。どのように貴方の目に映るか。

阿含宗には「応供の如来がいるんですよ。貴方の願いを叶える存在が居ますよ」といって信じられますか?





無理ですよね。





尚且つ亡くなった初代教祖が「第二の応供の如来」???
どこまで嘘とおバカを言えば気が済むのでしょうか。




そして更なることがあります。それは今年の2月11日の京都のまつりにて「第二の如来の復活」という名目で開催を謳っています。



応供の如来だけでもインチキなのに「復活」って何?と思いませんか?




私にすれば「復活」というのは余計な語です。
キリスト様が復活、というのは良く聞くし実際ありえないんだけど、キリスト教の信者が望む事項としてはわかります。

だけど阿含宗は仏教であり、復活もクソも無い。ただ単に教祖は死後涅槃へ入られて第二の応供の如来になられあそばれた。
それだけで十分なはずです。



復活、という語だけ「余計」なのです。
こういう凡ミスをしている自体、阿含宗は愚かなのです。





だからそこをどのようにとっても「応供の如来」はありえないし、実際に無い。

それこそ下手な策略や名称はいいから単純に

「阿含宗の教祖様はあの世から教団と信者を守護してくれますよ。供養に応えますよ」とやった方が良かったのです。







私がいつも言う「本当の仏教を知った方が良いですよ」というのは本当に役に立つんです。
阿含宗はもちろん嘘をついている教団などの騙しを回避できる可能性が高まるからです。
または判別に役に立ちます。




今日は長くなりましたのでここで終りますが、どうでしょうか?
これでもまだ阿含宗を信じますか?




阿含宗を信仰している人は良く考えてみることです。
貴方たちは騙されています。
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