天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

質問に答える

2017-03-14 06:23:17 | Weblog
先日の「阿含宗の嘘を見抜け⑤」で書いた内容の中について知り合いから質問をされました。
今回はその事項について書きたいと思います。

質問内容は結構長くてくどいので(笑)概要として私が質問を短く・わかりやすく纏めました。

どういう質問かと言いますと私が⑤にて「お釈迦様は苦からの脱却を模索した結果、悟りを得た」と書きました。
そのことを筆頭に、質問者は仏教に疎いので色々言ってきたわけですね。

項目を列記すると

「お釈迦様は苦から脱却したくて、とあったが、それはある種”逃げ”ではないのか」
「仏教ってどうも厭世的だよね」

そして後で詳しく述べますが、最たるものは「厭世的」に関わる事項に於いて意見をされました。



相手(質問者)の言っていることはわかりますが、どうも偏り過ぎというか本質がわかってないから言っているように見受けました。
そしてその事項を顧みた際に


「ブログを見ている人で質問者と同じように考えている(捉えている)人も居るのではないか」


その様に思ってこの記事を書こうと思ったわけです。
(本当は次回は下書きとして用意してあった⑥に進む予定でした)



では、その話を進めて行きます。




私が⑤にて「仏教はお釈迦様が苦から脱却したくて道を求めた結果、悟りを得た」という内容を書き、そのような表現をしましたが、
これは私の把握からの表現と仏教を深く知らない人にも分かる様にと発した語であり文章でした。



本来ならばもっと深く説明をして知らせるべきなのでしょうが、このブログではおおよそ同じ内容に触れる場合が多く、過去から読んでいる方には
「それ、分かっている」というのも有りますから、新しい事項や内容などは詳しく出しますが、過去のリプレイの場合は軽い説明にしているのがあります。

こと「何でお釈迦様は仏教を立てることになったか」または「どうして仏教の開祖となったか」についての経緯や内容などは本来ならば
「今はネット環境が相当整っているので、ご自身で調べてください」としてもいいのです。その方が本当は話が短くて済むしこちらも楽です。

ただ、稀に間違った説明をしている人も居ますし、検索して調べよう、とさえしない人も居ます。
そういう事により間違った認識を持ったままブログに内容を読まれても理解が進まないのと誤解を持たれてしまう。
そういうのを防ぐためにも簡易的な説明を挟んでお話をしているのがあります。

ですが、やはりそういった私の行為も全ての人に理解を100%得ていただける、とは限らないのがあるわけです。
そしてその懸念は知り合いにより明らかになった。つまり自分の懸念の現れ、となってでてきたわけです。





実は私もお釈迦様は仏教の意味や中身も分からない子供の頃から「なんか尊敬したい人物」としての意識を持っていました。

おそらくこれは想像ですが、自分の過去世のほとんど思い出せないような記憶というか意識がその様にさせているのではないか、と推測します。
だって何も知らない小学生の頃から無条件にそのように思ったわけですし、中学・高校時代に修学旅行がありますが、その際大抵「寺院めぐり」がほとんどです。

げんなりしている同級生らの中で「おおー」と喜んでいるのは自分ぐらいでしたね。
もちろん表向きに喜びを見せてはいませんでしたが、心ではかなり喜んでいた状態でした。
まあ、そういう一種の「変わり者」のようなものがあったわけです。



しかし、そういう一方仏教の歴史などを学べば「ちんぷんかんぷん」なわけです。非常に難しい説明と深い説明がないために学校の授業で仏教を習っても何も得るものがありませんでした。
むしろ授業での仏教の学びは「嫌いであった」し「あまり記憶にない」そのような有様でした。



また高校生の終わりころに仏教を個人的に学ぼうとしたことがありましたが(したらばや私に関する事項を参照)その際に当時高校の図書館などで見た本には、
現在のように「分かりやすく正しく仏教を教えてくれるもの」ではなく、ただそこで覚えたことは「仏教には重要な問題がある」というのと「厭世的」というのを感じました。


仏教には重要な問題がある、というのはお釈迦様が亡くなった後、嘘の教えが流行しそちらの方が主流になってしまった、ということです。
そして「厭世的」というのは「ちゃんと本当の仏教の理解をしない」と生じる感覚・印象なのです。

ですからその質問者の言われたことはある種「過去の自分」でもあり、「分からないで物を言っている」とわかりました。
なので説明をかなりしましたね。




確かに物の見方によっては知り合いの人が言うように、お釈迦様は「逃げ」もしくは「厭世的」に映ります。
ですが、もしも逃げなら「仏教」というものなど展開するはずがなかった言えませんか?

むしろ逆であってお釈迦様は苦から逃げずに苦と向き合った。または苦をどのようにしたら克服というかクリアできるか、と研究しチャレンジしたのです。
その結果真理を悟り、仏陀となった。



ただ、ここまでは大抵の人は理解を示せる部分なのですが、これ以外の部分を理解されない(にくい)部分があります。
それが「出家」及び「修行内容」のことです。

まあ、中には仏教自体の中身全般を理解しない、できない、という方もいます。
そういう方はしょうがない、というしかないのですが、そこまで行かない人でもやはり「出家」と「修行内容」ここが理解されにくいのが仏教にはあります。



なんでかくも仏教は出家というスタイル。つまり半ば厭世的というような姿勢、閉鎖的な環境に身を置き、宗教にある特有な修行たるものを行うか。
そこが自分も阿含宗に居ながらも疑問視していたというか、好きに成れない点でもありました。



でも、それが理解できたのは「本当の仏教」を知った後でした。
つまり本当の仏教の内容を知らなければ、出家する意味も修行する意味も「分からない」のです。




ここで気づいてほしいことがあります。それは私が「阿含宗に居て何で仏教にある出家や修行を疑問に思ったか、嫌っていたか」ということです。



それは理由が2つあります。

1つは「在家のままで成仏したい。またはできる、というのでその方が出家より魅力的だったから」
もう1つは「阿含宗にて嘘の仏教を教えられているからお釈迦様のされた事項が理解出来なかった」

この2つに依るものだったのです。





最初の方の理由は「本当の仏教」にもある事項です。仏教には「出家して成仏する方法」と「在家のまま成仏する方法」の2つがあります。

ただ、本格的にガチで成仏しよう、と思ったら出家するのが一番です。ですが出家というのは余程の覚悟と全てを捨てる意思も無ければできません。

特に自分が当時学んだ事項からは「出家しないと成仏できない。在家のままでは無理」というのが主流でしたからそれが頭に有った。



若い頃から結婚をして子供も設けて家族があるのにそれを捨てて(放棄して)出家???
また出家したら厳しい生活が待っています。



そういうのよりも阿含宗が教える方法により、在家でも成仏できるんだ、の方がとてもイージーでありメリットを感じた。
なので、阿含宗により信仰を選んだというのがあります。



まず、これが1つ。




次にそのような経緯で阿含宗に入信していますから、阿含宗の中に有る事項だけ学びます。
すると、まさか阿含宗は宗教詐欺だとは思いませんから、教わる事項は全て本当だと思っているわけです。

その教わった中に核となるものがあります。それが「因縁解脱」です。

何度もこのブログで言っていますから、お分かりと思いますが仏教に無い嘘の教えです。
ですが、それが嘘だと思わない人には嘘だと分からない。

そしてその逸れた頭や目で見たら、お釈迦様の本当の教えが「異」に映るのです。



だって、そうでしょう?

本当の仏教は「煩悩を無くして仏陀に成る」です。

ところが阿含宗は因縁解脱するために成仏法を講じて成仏力を得て、尚且つ霊障を取り除き徳を積まなければいけない。
そうしないと成仏できない、と思っています。




だから私が最初批判側から「本当の仏教は煩悩解脱だ」と言われた時、鼻で笑ったものでした。



ああ、あのTVなどでよく見るにわか坊主というか生臭坊主がいう「煩悩を消せ!」として滝行をしたり座禅を組んだりしてやっている「お遊び行為」か?
そんな生半可な行為で成仏??? 馬鹿言っているんじゃないよ。そのように思った。



ところがちゃんと学んでいくうちに阿含宗の嘘が明らかになり、今まで「嘘こいて」となめてかかった批判側の説明と内容が「正しかった」と知り、青くなりました。





だから嘘を本当と信じて、本当のものを「嘘」だとやらかしたら信じることもできないし、本当の方の事項を理解できないのです。
煩悩を無くすための意味も分からない。何で無くすかが分からない。また無くすための行為(修行)が変な行為に映るのです。




なんでお釈迦様が煩悩が元凶かとしたのかというと、煩悩がほとんど全ての大半の事項に絡むものだからです。
例えば良く言う「魔が差す」とか「過ちを犯す」のはこの煩悩によるものです。
逆を言えば煩悩が無ければ魔も差さない、ミスも犯さない(犯しにくくなる、または減る)ものです。

また輪廻する原動にも繋がっています。煩悩が執着を生みその執着が次の生への原動になっているのです。
だからこそ煩悩を限りなく「ゼロ」にする必要があるわけです。

そしてそのために出来れば俗世間、つまり娑婆での生活はなるべく避けた方が良い。
なぜなら食べ物や趣味・娯楽、人間間の諸問題、また異性絡みの問題も起きやすい。
金や物、権力、地位、名誉等々そういったものも欲しくなったりする場合もある。

総じていえば誘惑に負けやすく成りやすいということです。そして煩悩の増える条件としても非常に要素が多いわけです。



だからそういった在家環境より、煩悩を消せる環境である出家が望ましいとあるわけです。
すると当然「俗世間から離れた状態」というのはどうしても厭世的になりやすいわけです。


厳密には厭世ではないのですが、非常に世間から隔絶された環境の方が煩悩が発生する確率は下がる。
また日々在家の様に働く事をしませんから、煩悩を消すことに専念できる。ゆえに「出家」は修行する面で有利だったりします。

ですが、世を捨てて全てを捨てて出家するわけですから、大変でもありますね。






ただ、ここで考えてください。仏教の目的は「煩悩解脱」です。これをまず成さないと話に成らない。
だからこの作業に非常に難儀するし、苦労するわけです。


ですが、出家しないとこの「煩悩解脱」ができないわけでは有りません。
実際、阿含経には在家者が何人も解脱された、という示し(記載・記述)があります。

つまり仏教は一見閉鎖的かつ俗世から隔絶されてないと駄目、なように見えますが、そうではない。
肝心なのは「煩悩を如何に解脱するか」ですから、在家でもそれができれば「問題なし」なんですね。
そしてお釈迦様が生きていた頃に、そういう在家者がいたとある。


出家もかなり厳しい環境です。在家者などの支援者から布施が無いと餓死する恐れがあります。
出家者は物を生産したり売ったりなどしません。だから布施が無いとアウトなんです。

一方在家は生産行為をしますが、色々と生活などの面で煩悩を無くすという暇が無い。
むしろ煩悩の影響かをモロに受けやすいのが在家です。

そういう環境の中でも稀ですが「煩悩を減らすことができる人」が居るわけです。
なので在家で仏陀に成る人も居たりするわけです。

だから仏教が「成仏したければ出家しないと駄目」というのは嘘です。
本当は「出家・在家に関わらず仏教による修行~煩悩解脱ができれば出家・在家は関係ない」というのが本当の仏教なんですね。

まずここを押える必要があります。






そして煩悩を無くしてゆくと智慧も獲得できるようになってきます。
煩悩を無くすという行為自体大変なものです。そしてそれだけの制御をできる、ということは物事についての正しい判断もできているわけです。

物事の正しい判断が付く、ということは、すでに智慧が身についてきていることになります。
そうすると真理の悟りもできるようになってきます。

そのまま修行を続けているとやがて仏陀に成ります。
そして死ぬまで仏陀状態を続けていると、仏教的に完成に近くなります。いわゆる涅槃へ入る状態になってくる、ということです。

人によって悪業を持っている場合がありますから、死ぬまでの間悪業の清算をさせられます。
その清算をしつつ仏陀のまま寿命を終えた果てには涅槃へ入れる形となりますね。これが仏教の最終的な状態です。

ただ、ここまで行く人は相当な人です。多くの人は必ず何かしらのものを持ちますから、何度か転生をしてから生まれ変わってその来世などで修行を完成したら涅槃へ入れるというパターンが多いようです。

まあ、でもこれらの事から分かる様に「仏教は本当に煩悩解脱が重要なんだ」というのが分かると思います。




そして今までのを知ると決して仏教は閉鎖的でもないし、厭世的でもないのが分かると思います。




さて、最後の質問者の最たる発言のことがあるのですが、それが非常に問題と自分は感じたわけです。

ですが、今回は長くなりましたので、それについては次回に説明することにいたしましょう。