Mr.Dashのぶろぐ館

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2017年6月29日(木) 当尾の石仏群をめぐる 岩船寺~浄瑠璃寺周辺を歩く

2017年06月30日 | 山登りの記録
■メイン写真
浄瑠璃寺の本堂。九体の阿弥陀如来が安置されている。拝観は有料。

■今回のコース
岩船寺駐車場→岩船寺→三体地蔵磨崖仏→弥勒仏線彫磨崖仏→わらい仏、眠り仏
→一願不動→唐臼の壺→阿弥陀・地蔵磨崖仏→一鍬地蔵→内ノ倉不動明王→
あたご灯籠→薮の中三尊磨崖仏→浄瑠璃寺→浄瑠璃寺三体磨崖仏→
長尾阿弥陀磨崖仏→浄瑠璃寺奥の院玻璃不動→西小墓地石仏群・五輪塔→
たかの坊地蔵→加茂青少年山の家→大門仏谷の如来形大磨崖仏→大門石仏群→
首切地蔵→西畑→六体地蔵→岩船寺駐車場


京都府の南端、加茂町当尾(とおの)に石仏群があることは、ずっと前から
知ってはいたが、いわゆる「登山」にはならないので、今まで足を延ばすことは
なかった。
まとまった登山がやりにくいので、梅雨の今、思い立って歩いてみたら、
確かに登山ではないが、歩く距離もそこそこあり、予想以上にすばらしい
造形の石仏たちに出会うことができた。

自分の覚書を兼ねてまとめるので、今回は、説明的でおもしろくない文章に
なってしまうがご勘弁。



岩船寺前の有料駐車場にクルマを停め、まずは岩船寺へ。
奈良では、アジサイの寺といえば矢田寺だが、南山城では、ここがアジサイ寺だ。

岩船寺は、天平元年(729)、聖武天皇の勅願で、行基が建立。
その後、弘法大師と智泉大徳(弘法大師の姉の子)が堂塔伽藍を建立。
最盛期には39坊を誇る大規模な寺になるが、承久の変(1221)でその多くが焼失した。



駐車場の横手から山道に入ると、三体地蔵磨崖仏がある。
鎌倉末期の作。三体とも左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。
「過去」、「現在」、「未来」の意味が割り当てられている。
六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態という。



舗装道に出る。ミロクの辻と呼ばれる場所だ。
ここには、弥勒仏線彫磨崖仏がある。線刻である。
笠置寺本尊の弥勒磨崖仏(現在は焼失し、光背が残るのみ)を模写したもの。
石工・伊末行(いのすえゆき)の作。

伊末行は、伊行末(いのゆきすえ)の子孫(ソックリな名前でややこしいな)。
伊行末は、鎌倉時代の石工で、南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、
鎌倉時代初頭に来日し、南都焼討後の東大寺復興にあたった人物だ。



季節がら、路傍にはホタルブクロが多い。



コウゾの実も熟していた。甘いが、ざらざらネバネバの触感がイマイチなので
これはもう食わないことにしている。



当野を代表する石仏・わらい仏。岩ごと、斜めに傾いてしまっている。
蓮台を持つ観音菩薩、合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏だ。
永仁7年(1299)の銘がある。これも伊末行の作。
すべてを赦すような笑みを浮かべておられ、心がホッコリする。



わらい仏の左下に、ほぼ土中に埋もれている、眠り仏。
南北朝時代、わらい仏と同じ伊派の石工・行経の作かともいわれる。
掘り出さずにそのままにしているところが謎。



ちょっと脇道に入ると、一願不動がある。弘安10年(1287)の作。

元の道に戻って、さらに先に進めば、唐臼(からす)の壺の交差点に着く。
変形5差路になっており、ここを起点に、周辺の石仏をたずねてみた。



まず20mほど西にある、阿弥陀・地蔵磨崖仏へ。
1つの岩の別々の面に、石仏が彫られている。お地蔵様は回り込まないと拝めない。



そこから南へ100m弱、少々ヤブを分け、右を見上げると、一鍬地蔵がある。



唐臼の壺から東へ、細いトラバース道を240mほどいけば、内ノ倉不動明王だ。
線刻だが、岩に苔が生えて、もうよく分からない状態になっている。



唐臼の壺から西へ坂を下る。横の畑に、飾りかぼちゃが栽培されていた。



集落に出ると、火伏の神・あたご灯籠が立つ。
江戸時代のもので、いっぷう変わったデザインの灯籠。
当尾では、正月にここからおけら火を採り、雑煮を炊く風習があったという。



バス道に出てすぐ、左手の竹薮の中に、薮の中三尊磨崖仏がある。
もとは、浄土院という塔頭の本尊であったと推定されている。
中央に地蔵と十一面観音、左に阿弥陀仏が横を向いて彫られている
レアな配列。橘派の橘安縄の、1262年の作。



このへんでお昼時になり、雨もポツポツ降ってきた。
ちょうど「カフェ瑠璃」が見えたので入ってみた。
クリスピーのピザと、丁寧に抽出したアイスコーヒーに、かなり満足した。
ここはまた寄ってもいいな。



浄瑠璃寺に着く。
クチナシの花が、まだ咲き残っていた。

浄瑠璃寺は、永承2年(1047)、義明上人により本堂が建立。
義明上人は、当麻の出身ということくらいしかわかっていない人物だそうだ。



小規模だが、なんとも美しい配置となっている。
真ん中にある池は、興福寺の僧・恵信が掘ったもので、梵字の「阿字」を
かたどっている。
境内は、東側に薬師仏、西側に阿弥陀仏をレイアウトし、極楽世界を表現している。
三重塔のある東岸を「此岸」(しがん、現世)とし、池の向こうの西岸を
阿弥陀如来のいる「彼岸」としているようだ。

平安時代には、このような極楽浄土観を現した寺が 30 以上あったそうだが、
当時のまま現存するのはここだけだという。ふーん。



続いて、長尾阿弥陀磨崖仏へ。徳治2年(1307)の作。
連弁の台座に座り、両手を腹部の前で∞形にした阿弥陀仏。



バス道を離れ、浄瑠璃寺の奥の院への山道に入ってみる。



赤田川の流れは、酷い悪臭がただよっていた。
水質汚染は、上流にある「郷ポーク」の生産者・村田養豚所が原因の可能性があると
いうことで、いろいろもめているようだ。
どうも、水質汚染以外にも、その他ゴタゴタがいっぱいあるようで、なんとか
ならないものかと思う。



対岸にある、浄瑠璃寺奥の院。ここの小滝の水はきれいだ。
かつては、線彫りされた磨崖仏があったというが、数十年前の大水で大岩が割れ、
滑り落ちてしまった。線刻の不動明王の痕跡が残るそうだが、、、
現在立っているのは、丸彫りの不動明王像、矜羯羅・制多迦の二童子の
「不動三尊」だ。



もとのバス道に戻り、道なりに北西に進むと、西小(にしお)墓地に混在して、
石仏群と五輪塔がみられる。
二つの五輪塔は重要文化財とのことだが、それにしては何の説明板もなく、
「重要文化財」の標柱の文字も色あせていた。
大切なものなんだったら、大切にあつかう姿勢をみせてほしい。



たかの坊地蔵。
鎌倉中期の作。錫杖を持たない、古い形式の地蔵。
他の石仏群は室町時代のものという。

丁石の交差点で右折し、加茂青少年山の家の前を通り過ぎてしばらく進むと、
谷をへだてた対岸に、突然、巨大な仏像が見え、思わず驚きの声をあげた。
大門仏谷の如来形大磨崖仏である。



直下まで行ってみた。
これは当尾の石仏群で最大の磨崖仏だ。
「如来形」というのは、阿弥陀如来、弥勒如来、釈迦如来などの諸説があるとのこと。
製作時期も、奈良時代から鎌倉中期までの諸説があり、確定していない。
6mの巨岩に刻まれた仏さまは、高さ2.88m。これだけで十分なインパクトだ。



ゆるやかな坂道を上っていくと、大門石仏群に着く。
左側には摂社春日神社があった。



次の三差路を直進し、釈迦寺跡にある首切地蔵へ。
弘長2年(1262)の作。
藪の中三尊とともに、在銘の石仏ではこのエリアで最古。首切地蔵の名は、
首のくびれが深く切れて見えるためとも、処刑場にあったためともいわれる。

ここからバス道をてくてく歩いて、西畑へ。
ムシムシする湿度に、身体が順応できず、けっこうしんどい。



六体地蔵。南北朝時代の作。
いわゆる六地蔵信仰で、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)にて
死者が迷わないよう、それぞれの道で地蔵菩薩が救いの手をさしのべて
くれるというもの。なので、この六体地蔵も、墓地の入口にある。
ひとつの石龕に六体が彫られているのは珍しい。

なかば熱中症のようになりながら、岩船寺の駐車場に戻る。ああ暑かった。
汗でシャツはもちろん、デイパックの背中が絞れるくらいだった。
ここに来るのは、写真的にはアジサイの時期で正解だが、途中にヤブもあるし
日陰のない舗装道歩きも多いので、歩くには冬がいいかな。

さて最後に、「当尾」の地名について。
古来、南都仏教の影響を色濃く受け、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が、
穏遁の地として草庵を結び、念仏に専心した場所だっとという。
やがて草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、いつしか
「当尾(とおの)」と呼ばれるようになったそうだ。
磨崖仏は、道しるべとしての役割もあったという。

いろんな蘊蓄は、木津川市観光ガイドのサイトや、各パンフレットなどを
参考にさせて頂いた。


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