古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第十八章 潮御崎神社・古記録その百七

2013年09月30日 05時53分06秒 | 古文書の初歩

潮御崎神社古記録まとめ(七)三ヶ浦申入に付き大庄屋宛神主口上

十三の二、右に書いた通りでご゛ざいます。ところが、この度三ヶ浦共同所有の宮だと言い出し、今までに例の無い新しい事を申し掛けて、古い昔から代々続いている神職の家を取り上げ様との企み『たくらみ』で、貴方様まで了解を求めて参りました。重々不届き千万『ふとどきせんばん』な話しで、何とも言いようが御座いません。どの様な異なった見解で三ヶ浦持ち合いの宮だと言うのか、合点が行きません。

 23年前、(注1)当神社建て替えの屋根葺きの際も、浦々の寄付以上には、三ヶ浦から少しも余分の寄付金は請けていません。其の時以後11年前(注2)にも、拝殿建立『こんりゅう』の際、串本のボラ網連中より現金を少し寄付してくれたので、受け取りました。その他には出雲・大嶋からは一銭も受け取ってはいません。

 其の明くる年に、浦 儀太郎様から鳥居を寄贈成し下されました。又8年□(注3)、鎮守社を建立しましたが、三ヶ浦からは一銭も寄付は請けていません。上野浦(注4)が、御崎神社の件について、和歌山へ辰の年から未年まで、御訴訟(陳情)の為出張して戴いた時、色々な雑用『ぞよう』(注5)を村中の氏子へ割り当て致しました。以上。      日付 元禄7年戌閏五月    差出人 御崎神社 神主                 宛先 江田組大庄屋 浦 儀八郎殿。

注1・・・寛文11年(1671)  注2・・・天和3年(1683)  注3・・・8年の次が欠けていますが、流れから「8年前」と推定されます。  注4・・・上野浦『うわのうら』と呼びます。御崎神社の所在する村の名前。現在の和歌山県東牟婁郡串本町潮岬地区。 注5・・・『ざつよう』ではなく、『ぞよう』と読みます。費用。経費。

以上が、三ヶ浦側の要求が如何に理不尽なものであるか、地区の大庄屋宛て報告した口上書です。このあと三ヶ浦側からの申し入れ対神社側の返答のやりとりが続きます。


第十八章 潮御崎神社・古記録その百六

2013年09月29日 08時03分41秒 | 古文書の初歩

潮御崎神社古記録まとめ(六)三ヶ浦申入に付き大庄屋宛神主口上

十二、寛永14年頃、潮が下り潮になった時、印南・田辺・芳養浦等から漁船がたくさん当地へ出漁して来て稼いだ時、カツオの餌となるイワシの群れるゑど場(注1)の件について、言い争い、喧嘩となりました。其の節、下田原から見老津までの庄屋衆が当御崎神社に集まり、相談して訴状を作成し、和歌山へ直接訴え出て当方の願いの通りに裁定されました。其の時以来、見老津から下田原までの浦々を一つの組合と決めて、潮御崎神社に於いて潮祭りをして参りました。(注2)

十三の一、以上、三ヶ浦から申して来たのは、「我々が御崎神社の事はすべてお世話致しますので、正月のお的の祝いを主催させてください。」との願い出でした。私の先祖の返事で、「お的は氏子の祝いの儀式であるから、その様な先例に無い事は罷り成らん。」と言いましたら、尚しつこく色々と申して来るので、「そんなに言うなら、正月18日は「納めの的」と言って、神主一人でお的の祝いをして、的を納めるので、其の時参拝する様に。」と伝えましたら、18日に来てお的を拝み『おがみ』始めました。お神酒『おみき』、盃『さかずき』を持参して、私(神主)宅の面(表)座敷でお祝いをしたいと言いましたが、とてもその様な事は出来ないと伝えました。それでも尚お祝いをしたいと言うので、それなら台所の勝手口でお酒を始め戻す(?)様にと申し渡しましたら、以後毎年その通りに行って来ました。

(注1)餌所『えさどころ』を略して、「えどこ」。更に餌所の有る場所を「ゑど場」と言う。

(注2)十八ヶ浦潮岬会合の始まり。

 

 


第十八章 潮御崎神社・古記録その百五

2013年09月28日 07時09分47秒 | 古文書の初歩

潮御崎神社古記録まとめ(五)、三ヶ浦申入に付き大庄屋宛神主口上

十一、昔から三月三日は毎年潮祭りと決まっており、近所の浦々より思い思いに寄り合い、お湯上げの神事をしていましたが、その後私(神主)の先祖が言われたのは、潮祭りをしても、浦々の者が海へはまった事を隠して、お祓いのお湯上げをしない為に、潮の流れも狂い漁獲も無いとの事なので、其の寄り合いの場で相談し、ともかく担当の役の者を付けて、今後は監督させる様にと言いましたら、出雲・大嶋・串本の三浦より申し出でには、我々は近くの浦なので、その役をさせて下されば、十分監督してどこの者がはまっても捕まえて来て、お湯立てさせます。総じて潮祭り等もお世話しますので、其の代わりにこの三ヶ浦の者が海へはまっても、お祓いのお湯立ては免除して欲しいと申しますので、私の先祖は、前々からの行事を免除する事は出来ないが、万事世話をすると言う事であれば、「うけながし」(注2)と言う祓いだけにして正式なお湯上げは免除してもよいとの事なので、右三ヶ浦の者で今後御崎の面(注3)で海へはまったならば、その旨断りを言って来る様にと申し渡しましたので、現在でも其の作法は残っております。(注1)

(注1) 近世の文章は、「候間」とか「候得者」とか「候得共」等々の接続詞を多用して、一つの文章が長いものになる傾向があります。この文も実に長くて判りにくいところがありますが、慣れるしかありません。

(注2) 「うけながし」とは「お湯上げ」(お湯立て)の祓いの神事を簡略化したものか、全く省略したものか分かりませんが、文章からすると簡略化した神事と推定されます。串本町史によりますと、「見逃し」と解釈していますので、省略したものかも分かりません。

(注3) 本年7月22日付け第十ページ3行目の「御崎西」と解読した「西」は「面」が正しいのではないかと気がつき、崩し字字典で確認したところ、「面」も同じ様な崩しになりますので、この「まとめ」では「御崎面(表)」と修正させて戴きました。

 


第十八章 潮御崎神社・古記録その百四

2013年09月27日 05時05分18秒 | 古文書の初歩

潮御崎神社古記録まとめ(四)、三ヶ浦申入に付き大庄屋宛神主口上

七、(以下お宮の行事の内容) 当神社昔からの行事で、正月四日「氏神の的『まと』」と言う村じゅう寄り合いのお的の儀式があります。その順序は、私(神主)が最初に的を射始め、地下『じげ』(村内)から選ばれた二人が身を清め、的を射て正月の祝いをして参りました。その日一日は、神主宅の座敷で私が上座を務め、神社の供え物や御神酒『おみき』を戴いて、お祝いを致します。四日に掛けた的をそのまま残して置き、十八日に「納めの的」と言う儀式を私一人で行いお的の行事を終了として来ました。

八、11月1日は、村内では霜月虎『しもつきとら』と言って、私、神主の家に村じゅう残らず寄り集まり、上座を務め、其の年生まれの子供たちまでお供え物やお神酒をいただきました。

九、「お湯立て」(注)は、古来からの儀式で、料金は銀十二匁と決めて「お湯上げ神事」を執り行って来ました。(注、「お湯立て」・・・神前で湧かした湯に笹の葉を浸して、お詣りする人に振りかけてお祓いをする清めの神事。)

十、昔から、御崎前の海上で漁師が海へはまった場合は、潮の流れが上り潮(東から西へ)に変わるので、漁獲も無くなるとの言い伝えがございます。この為、御崎明神で神主によるお湯立て神事を行えば、潮の流れも下り潮(西から東へ)に変わり、漁獲も上がると言う事は、皆さんよくご存知のことでございます。(注)西から東へ流れる潮とは、いわゆる黒潮本流であり、カツオ・マグロ等の回遊魚はこの黒潮に乗ってやって来るので、漁獲が上がる事になります。 (続く)

 


第十八章 潮御崎神社・古記録その百三

2013年09月26日 05時38分52秒 | 古文書の初歩

潮御崎神社古記録まとめ(三)、三ヶ浦申入に付き大庄屋宛口上

五、寛文4年(1664年)神社が破損したので、大庄屋殿のお取り次ぎで、郡奉行や御代官に御願い申し上げたら、和歌山へ直接陳情しなさいとの事で、たびたび和歌山へお伺いしたところ、訴えが認められ、前々からの規則通り藩内の漁業海運関係者は、加太浦から伊勢松崎まで残らず寄付してくれました。然し、まだ現金不足だったので、翌年再度郡奉行、御代官様へ陳情しましたら、少しくらいなら地元の氏子に協力させよとのお申し付けで、大庄屋殿のお指図で、神社の山野や村内に生えている竹、全部伐らせて四百束余り、その他苫、五百畳村内より供出し、各地で売却し不足分の足し金にして、屋根葺きなど修復出来ました次第です。

六、本年(元禄7年・1694年)閏5月13日、大嶋浦庄屋・作左衛門・出雲浦庄屋・平兵衛・串本浦庄屋・善之丞以上三人の方より、このたび寺社お改め(定期検査)に付き、提出書類に「御崎神社はこの三ヶ浦所有の宮であります。」と書いて報告する様にと、新しい事を急に言ってきましたが、前々から当上野浦の提出書類に書いて出した通り、御崎神社は私共の所有の宮ですと返事しましたら、その後も色々な事を申して参りましたが、全体に納得出来る内容ではありません。三ヶ浦側は、私どもが前記の要請を受け入れませんでしたら、共同して大庄屋様まで釈明申し上げたそうで、次に私をお呼び出しなされ、お尋ねされたので、あらましを申し上げましたら、口上(説明書)を書いて出す様にとのご指示でしたので、当神社の今までの行事を書き上げて、ここに提出する次第で御座います。 (続く)