古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

レイディ・ワシントン号付記(上)

2011年12月12日 09時29分06秒 | 古文書の初歩

古文書学習・レイディ・ワシントン号の講座が終了しました。付記として、「レイディ・ワシントン号物語」(上・下)を投稿します。

                           レイディ・ワシントン号物語

                                        投稿者  暖流白雲

  今から二百二十年前の、寛政三年(西暦一七九一年)三月二十七日朝、和歌山県串本町の大島・樫野沖合から、異国の船が二隻、樫野崎をかすめる様に入って来て、古座と大島のあいだの内海へ進入して碇泊しました。異国の船が日本の近海へ出没し始めたのは、明和年間から寛政年間にかけてと言われていますが、この地方でも遙か沖合を通過するだけで、近くの港へ入って来て錨を下ろしたのは初めての事だったようです。
 二隻の異国船は、当時の事ですから、勿論帆船です。古座組(現串本町古座)駐在の紀州藩の役人の指示により、見届けの為小船を漕ぎ出させましたが、最初の日は風波強く、海が荒れていて近づくのが難しかったので、諦めて帰りました。


 翌二十八日、海上が少し凪いで来たので、又見届けの小船を出しましたが、二隻の船は、古座の黒島(九龍島)の沖付近へ停泊し、風待ちをしている様に見えたと報告しています。ここで黒島の沖と言うのは、実際は大島の金山の下付近と思われます。 (古座川河口付近から見れば黒島の沖くらいに見えます。)
 翌二十九日は、金山下から南の方角へ走り出す模様に見えましたが、南風が吹き出したので舞い戻って来て、通夜島付近を帆走したり、訳の解らない動きをしています。
 翌三十日の夕方には、大砲を十五、六発鳴らしたそうですが、 「この音は薬ばかりの模様に聞こえた(空砲を撃ったという事)、又船中は静かであった、この他には異変は無かった。」と、古座駐在の藩の役人は報告しています。
 四月三日には、西風が少し吹き出したので、東の方向へ走り出て行きました。ところが、翌四月四日には風向きが変わったのか、又々戻ってきて、大島の金山の下付近へ停泊し、四月六日に至りやっと西風を受けて、東の方角へ走り去った、その方面の浦々は十分警戒するようにと藩の役人は通達しています。通達は尾鷲の方まで届いたので、尾鷲組大庄屋文書として残っているわけです。(紀州藩の領地は現三重県の尾鷲まで有りました。)

 この和歌山藩の古座駐在目付の文書は、「空砲を鳴らした」とか「船内は静かだ」とか、「異変なる儀はこれ無く」とか、なるべく事態を大きくしないような配慮が透けて見えます。     (以上は尾鷲組大庄屋文書による)
 ところが、他の文書に依りますと、この十日程のあいだに、この外国船は艀(はしけ)船を出して、大島へ上陸し、薪を伐ったり、ホースで水を汲み入れたり、言葉が通じないため、勝手気ままに振る舞ったようです。
 また、別の文書に依りますと、藩から出した見届けの小船に、一通の文書を投げ入れました。乗組員の中に、中国人が居たようで、文章は漢文で、「本船は紅毛船で、中国へ商いの帰途、荒天に遭い漂流して、ここに来た。好風が吹けばすぐに立ち去るつもりである。船長の名前は、堅徳力記(後にケンドリックと判明)」

 異国船侵入の知らせが和歌山に届いたのは四月四日で、すぐ藩士・地士十五人を串本浦へ派遣、串本着は四月八日で、既に走り去った後でした。別の史料によると、総勢およそ百人と言う説もあります。鎖国の時代の事で、御三家の一つ紀州藩にとって、外国の船が領海内に堂々と錨を下ろし、上陸し、薪や水を積み込んだとは、まさに屈辱的な大事件であったに違いありません。

 前述の尾鷲組大庄屋文書によりますと、「空砲十五、六発鳴らし」とありますが、別の史料によりますと「其の夜より毎夜に大砲を発す。其の響き十里の山海に及ぶと言えり。多く発したる時は、昼夜に三十七、八も響きたりと言えり。」と書いています。  (以上は串本町史による)    以下明日に続く。


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