歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

<T2 Trainspotting>4月8日公開!

2017-02-21 20:20:57 | 映画
T2 Trainspotting Official Trailer – At Cinemas January 27






『T2 Trainspotting』
監督:ダニー・ボイル
脚本:ジョン・ホッジ
原作:アーヴィン・ウェルシュ
音楽:リック・スミス
主演:ユアン・マクレガー
国:イギリス
公開年:2017



言わずと知れたダニー・ボイルの名作『トレインスポッティング(1996)』ですが、ついに続編が4月に公開されます。
初めその話を聞いたときは、続編なんていらないでしょうという気分でした。
なんたってあの映画はあれで完成しているわけで、変に付け足して汚してほしくないのです。

しかし、製作陣、俳優陣がそのまま引き継がれ、あの物語の20年後をそのまま見せてくれるというのだから、つまらない訳がない。
前作と比べずにただ彼らのその後を楽しみたいというファン冥利に尽きますね。

なんやかんや言いつつも、このトレーラーを見たら理屈抜きにわくわくしてしまいます。
レントン(ユアン・マクレガー)がバーの扉を開けると、そこにはビリアードをしているシック・ボーイ(ジョニー・リー・ミラー)が!
『トレインスポッティング』のラストを思うとこの最初のシーン(多分)は感慨深いものがあります。

続編についていろいろ書いてあるホームページがあったので載せておきます。
「映画『T2 トレインスポッティング』について現在までに明らかになっていること」
(観るまであまり知りたくないので全部は読んでいませんが)

続編を見る前に前作を少しおさらいしようと思います。
以下ネタバレあります。



トレインスポッティングについて
大きく「スタイリッシュな映画」と評される分野において、誰もが賞賛するのが『トレインスポッティング』ではないでしょうか。
脚本、音楽、演出、映像、テンポ、どれをとってもかっこいい。
物語の舞台はスコットランド、ある若者たちの退廃的な日常を描いています。
イギリス人監督が描くドラッグ、セックス、暴力の世界は、ハリウッドで量産されるそれとは一味も二味も違います。(もちろんアメリカ映画にはアメリカ映画の良さがあるけど)

不衛生で不健康で不健全な現実では目も当てられないような若者の日常が登場人物の主観で描かれているおかげで、時にドラマチックに、時にアイロニックに、時に叙情的に観ることができます。



キャラクター


個性豊かな仲間(?)たちも魅力的です。
写真右から重度のドラッグ中毒者で主役のレントン、
間抜けでダサいがどこか憎めないドラッグ中毒者スパッド(ユエン・ブレムナー)、
007オタクでぽん引きのドラッグ中毒者シック・ボーイ、
クラブで出会った黒髪美女のダイアン(ケリー・マクドナルド)
喧嘩中毒でことあるごとに暴力を振るうベグビー(ロバート・カーライル)、
写真にはいないけどイギー・ポップが好きでセックスしか能のないトミー(ケヴィン・マクキッド)。

薬から逃れどうにかしてまともな生活を送ろうとすると突如現れるこのやばい仲間たち。



音楽


物語の冒頭部、この写真を見るだけでイギー・ポップの「Lust For Life」が聞こえてきそうです。

トレインスポッティングで特質すべきはなんといっても音楽です。
物語は90年代後半に突入しようかという頃、主人公たちは急速に流れて行く時代の変化にさらされます。

高校生であるダイアンとレントンとのジェネレーションギャップを浮き彫りにする会話があります。
「老けちゃうわよ。
 世の中も音楽もドラッグも変化しているのにジギー・ポップに憧れて家にこもるなんて。」
「イギーだ。」
「どうせ死んだ人よ。」
「生きてる。去年もツアーをやってた。」

そんな置いてけぼりの主人公たちを励ますかのように、イギー・ポップ、ルー・リードの名曲が流れる一方で、ブラーやニューオーダーやアンダーワールドのような当時最先端のエレクトリック音楽も多く起用されています。
そこにすら物語性を感じるのは観る者のエゴかもしれませんが。

トレインスポッティングのサントラはおすすめです。
この映画を見なければ出会わなかった曲も多かったでしょう。
それくらい見た当時の私には影響力のある映画でした。

続編ではどんな音楽が使われるのか、非常に楽しみです。
ちなみにトレーラーに使われている2曲目はWolf Aliceの『Silk』です。


アメリカでは既に公開されており、ちらほら評判が耳に入ってきていますがどうやら面白いらしいとのこと。
トレーターを観る限り、前作を観てない人、忘れた人はまず『トレインスポッティング』を観てから、映画館に行った方が良さそうです。
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風が連れてきた大きな生き物

2017-02-17 14:47:48 | 日記
春一番が吹いた。

立て付けの悪い家の窓が、がたがたと音を立てている。

外からはびゅうびゅうと風の音も聞こえてくる。

強風は、得体の知れない何かをこの地へ連れてきた。

大きな龍か、大きな獣か、それはきっと季節を運ぶ役目をする。



見たことがないものを信じるかという質問がある。



例えば、中学1年生の頃友達に幽霊の話をしたことがあった。

彼女は「幽霊は人間が考えだしたものだからいない」と断言した。

当時はなんて頭がいい子なんだろうと感心したものだ。



高校生の頃数学の先生に幽霊の有無を問うたことがあった。

先生は「科学で証明出来ないものは信じない」と断言した。

そのときは、なんて現実的な考え方だろうと思った。



頭の良さそうな人たちの言葉はそれだけで説得力がある。

そして現実的なものの見方が格好いいと思った私は、

「見たことがないものは信じない」と豪語するようになった。



しかし私は「信じる」という言葉の意味を見誤っていたようだ。

「信じる」という言葉にはそもそも断言が通用しない。

「信じる」という方面を見渡すと視界の中には同時に「信じない」も存在し、

「信じない」という方面も同様に「信じる」がすぐ近くにある。

どちらが大きいのかという程度の尺でしか計れない。

あるいは自分の願望が反映されているのかもしれない。



例えば一組の夫婦があったとして、

夫に対して「あなたを信じる」と言う妻がいたとする。

これは信じていないからこそ念を押す場合に持ちいられる常套手段だ。

あるいは信じたいという願望か。



つい百数十年前までは当たり前のように見えない存在と共に生きていたというのに、

すこし科学技術が発達したからといって人間様々になるのもなんだかな。



妖怪博士の荒俣宏さんは人魚の有無について、

「人間が信じた時点で人魚は存在する」と言っていた。

偉そうだが、それを聞いてなんとなくこの人は信用出来る人だと思った。



ポピュラーだからか幽霊の話が多くなってしまったけど、

妖怪とか、精霊とか、おとぎ話に出てくる不思議な生き物とか、

漫画『蟲師』に出てくる蟲とか、小説『鹿男あおによし』に出てくる大ナマズとか、

迷信めいた曖昧な存在がどこかしらに潜んでいるというのは悪くない。

どこかに人間の手が及ばない尊い領域があることを信じたい。





余談だけど、同居人Kは幽霊が大嫌いだ。

トラウマでもあるのか、必要以上に怖がる節がある。

Kが寝ている時に起こさないよう暗い部屋でごそごそ動いたりすると、

寝ぼけたKがそれに気づき「うわぁーーー!」と叫びだす。

これがしつこくて敵わない。

「私ですよ。たんぽぽですよ。」と言っても声は届かず、

しばらくわーわーと勝手に恐れおののいてるもんだから次第に腹が立ってくる始末。

友達に話すと大げさなという感じだったが彼女が泊まりにきたときも発動し、

実際の姿を目の当たりにしてその子もかなり驚いていた。

いったい何がそんなに怖いんだか。

それ以後は笑いのネタになっている。
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至福のとき

2017-02-14 20:44:47 | 日記
福に至ると書いて「至福」という言葉は、「この上ない幸せ」のこという。

「幸せ」という言葉を好きになれなかった思春期からすれば、

今の私は「幸せ」を濫用しているかもしれない。

かつて糧だったはずのこだわりは枷となり、苦しいのは嫌だからとどんどん捨てる。

その結果、「幸せ」のハードルが少しずつ下がっているのかもしれない。



なにをもって幸せだと感じるかは人によって全然違うだろう。

私の場合、睡眠環境が恵まれている時に極上の満腹感を味わうことができる。

小さい頃からよく寝る子どもだったので、親からは「眠り姫」などと呼ばれた。

眠たいときに干したばかりのふかふかの布団に潜り込み、

朝は二度寝なんかして起きたいと思ったときに起きることを許される、これぞ至福のとき。

世のお父さんたちの日曜日のような。

至福でありながら凡庸。

凡庸であるが故に至福。



反対に睡眠不足は大敵。

睡眠不足で迎えた日の午後なんかはもう最悪だ。

限界までくると体が勝手に寝る態勢に入り、じわじわあたたかくなってくる。

それに抗うのは至難の業だ。

眠る方に向かう矢印を正面から押し戻す、

この時に生じる摩擦を感覚で例えると体の中を這いずり回るムカデに似ている。

似ていると言ってもそんな経験したことないけど。



ここまで読んでだから何だ?と思うかもしれない。

わざわざ文章に書くことなのか?と疑問に思うかもしれない。

いや、私がそう思っているわけだが、まぁいい。

睡眠不足は良くないけれど、寝過ぎも良くないらしい。

気をつけよう。


今年も梅の花が咲きました。
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<Ghost in the Shell>ついに4月7日公開

2017-02-06 20:27:26 | 映画
Ghost in the Shell Official Trailer 1 (2017) - Scarlett Johansson Movie


『Ghost in the Shell』
監督: ルパート・サンダース
脚本:ジョナサン・ハーマン、ジェイミー・モス
原作:士郎正宗
音楽:クリント・マンセル
主演:スカーレット・ヨハンソン
国:アメリカ
公開年:2017
公式ホームページ:http://ghostshell.jp/



1番好きなアニメが1995年の押井守監督作品『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』。
関係ないけど、あと大友克洋監督の『アキラ』。



攻殻機動隊というコンテンツはとても面白い。
士郎正宗が生み出した攻殻機動隊という器の中で、様々な映像作家が独自の世界を表現しています。
最初にそれを始めたのが『パトレバー』の押井守監督です。
そしてできたのが『GHOST IN THE SHELL』。
原作の1巻をアニメ化した訳ですが、キャラクターの性格等原作とは大分違い押井ワールドが炸裂しています。

私の中で『GHOST IN THE SHELL』は他の攻殻機動隊アニメの中でも別格です。
終始漂う張りつめた空気と、答えのない己への自問自答。
『機動警察パトレイバー2』にもありますが、押井作品の語りかけるような長ゼリフのやり取りがたまらなく好きです。





そして新たに提示されたのがまさかのハリウッドでの実写化。
攻殻機動隊という器の中で今度はハリウッドが本気で暴れると言う訳ですね。



発表された当時、日本のファンからは批判的な意見が大半でした。
そりゃ好きなものが実写化されるなんて嫌がる人の方が多いのはしょうがないことです。
大抵は主演の草薙素子をはじめキャストが日本人でないことに対してでした。
さらに唯一の日本人ビートたけしが超重要人物である荒巻を演じるという謎のキャスティング。

でも素子にスカーレット・ヨハンソンを持ってきた時点で本気だなと。
むしろ日本人の女優で素子をできる人がいる?ビジュアル的には菊池凛子とか?



なんにしろこのトレーラーを見たら黙るしかありません。
原作の世界観を非常に大事にしているのが伝わります。
それでいて、クオリティーには文句のつけようがなく、多分今まで作られたどの話とも違う。
ちらほら見たことのある場面も流れるし、ストーリーの大枠には『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』がからんできそうですが、新しい感性が注入されて今まで見たことのない攻殻機動隊が見れるだろうことは確実です。
↓見たことある場面例

↓私が大好きな『GHOST IN THE SHELL』の冒頭の場面がそのまま再現されていて感激




素子が飛び降りるホテルに「高級ホテル」っていう看板がついていたのは笑えたけど、
「あ〜日本語だ」っていう変な感慨があります。
荒巻にたけしはまだ想像出来ないけれど、日本人がそこにいてやっぱり嬉しい。
私の中で1番の懸念だったのが「たけしの英語は聞きたくない」ということでしたが、
どうやら日本語で喋るそうで本当よかったです。



たけしは本作について振り返り、「いま考えると、昔はアニメというものをバカにしていました。AIの存在感が突出していく割に刀で切ったりとか不思議なことも多かったんですが、この作品はようやく今の時代らしく、違和感なくはまっていると思います。そういった作品に、自分が出られて嬉しいです。容赦なくピストルを打つけど、でも身内には親族のように接する、冷静な判断と冷徹な心を両方持っている男の役でした。英語は嫌だと言ったら日本語で良いとなり、セリフ覚えが悪いとか字が読めないとかいろいろと難癖をつけていて(笑)、しまいには、スカーレット・ヨハンソンが俺のカンペを持っていた(笑)。あれを写真に撮りたかった!」と驚きのエピソードを披露!
公式ホームページより

11月にYouTubeで解禁された映像では押井さんもコメントしているので是非。
[Ghost in the Shell | Featurette: "Mamoru Oshii" | Paramount Pictures International]


とにかく楽しみだ。

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ロジャーとラファとルーティーン

2017-01-31 21:00:00 | 日記
スポーツ観戦において、個人競技で最も熱心に観るのがテニスだ。

何時間もの間たった二人の選手が注目され続ける競技というのはあまりない。

技術力ももちろんだが、終盤になるにつれて精神力の戦いになっていくような泥臭さ、

これで決まりだと思ったところからはじまる大逆転、

見終わるころには長い時間を共有した選手たちへの感情移入がより一層強くなっている。



今年の全豪オープン決勝は見物だった。

いずれも現役にしてレジェンドになりつつあるフェデラーとナダル。

面白くない訳がない。

こんな後世に語り継がれそうなマッチを前にしても、的外れな会話が飛び交う当ハウス。



「フェデラーの顔色が悪すぎる。真っ白だよ。」

「フェデラーは髭が濃いから、剃ると青白くなるんだよ。よく見たらおでこは血色いいでしょ。」

「お〜そういわれればそんな気がしてきた。」

「ナダルは応援したくなる人で、フェデラーは負けてほしくない人。」

「フェデラーのユニフォームカッコいいね。センスが抜群。」

「フェデラーがセンス良く見えるのは、スタイルがいいからだ。」

「ナダルの顔ウサギに似てる。」

「フェデラーの目がくぼみ過ぎて、影で目が見えない。」

「ナダルの奥さんすごく奇麗。」

「フェデラーの奥さんの隣に座っているスキンヘッドの人、頭の形が奇麗。」



とにかく言いたい放題。

そんな中、その日抜群のくだらなさを発揮したのがKの言葉。

「ナダルは食い込まないパンツをはいた方がいいね。」



ラグビーの五郎丸選手のキック前のポージングが話題になり、

ルーティーンという言葉が注目されているが、

ナダルも厳格にルーティーンを守る選手として有名だ。



ナダルのルーティーンはサーブ前に行われる。

私の確認した所によると、

左手でラケットを持ちボールを弾ませている数秒間、

まず右手でパンツの食い込みをなおすところからはじまる(そう見えるが厳密には分からない)。

Kはこれのことを言っている。

それから左肩ちょん右肩ちょんとユニフォームをひっぱり、

鼻を上からなでて左耳にそってなぞり、鼻をなでて右も同じようにやってサーブに入る。

サーブの時顔の左側を歪ませるのも一連の流れに組み込まれているのだろう。

初めて見たときは、ナダルは敬虔なクリスチャンで、

毎回「アーメン」をジェスチャーで唱えているのだと思っていた。

いずれにしろ、厳密に何度も同じ動きを繰り返す姿は神経質に見える。

それが表彰式の笑顔を見て、イメージとは本当にいい加減なものだなと思った。

試合が終わると人のいいラファになるのだから。



今回優勝したのはフェデラー。

5セットからの流れの持っていき方は見事だった。

これまた彫りの深い彫刻のような顔が笑った瞬間、こっちの心までほぐれていく。

歴代1位の優勝経験を誇るフェデラーだけど、

優勝が決まったとき泣いていたのを見て、珍しくKがうるうるしていた。

怪我で半年も離脱して、今大会前まで世界ランク17位まで落ちていたわけだから、

今回の優勝は特別なものだったんだろうね。



3時間半を共有した二人に親しみを込めて、今日はロジャーとラファと呼ばせていただきます。

長かったけど、ドラマチックでとても面白い試合でした。

スポーツ選手にはいつも元気をもらいます。

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右向け左

2017-01-23 13:23:08 | 日記
スッスッスッ、シャッシャッシャッ、スースッスッス。

電車の中に充満する不穏な空気。

皆首を垂れスマートフォンに従事している。

仕事をしているのかもしれないし、

ゲームをしているのかもしれないし、

SNSをしているのかもしれない。

なんであれ皆が一様に下を向いている姿は異様だ。



皆空いた時間を嫌がる。

何もすることがないと人はそわそわして落ち着かなくなる。

そんな時スマートフォンは救世主だ。

あんな小さな姿をしているのに、

あれ1つあればいろんなことができる。



誰が見ている訳でもないのに、

自分までもがその風景に同化するのは許せない。

誰かがこの風景に歯止めをかけなければ、

というまこと勝手な使命感に燃えているわけだ。

そういうこともあって移動時間が長いと分かっているときは、

必ず軽目の本を持っていくようにしている。



私は空間の在り方というのを気にしてしまう癖がある。

特に皆が同じことをしている空間が嫌いだ。

電車内もそうだし、知人とお茶を飲んでいるときなど、

片方がスマートフォンを触りだしたら意地でも自分は触らない。

端から見たら、本当にどうでも良さそうなことだ。

全体的なバランスを私一人の行動でどうにかできる訳でもなしに。



2016年爆発的に流行し社会現象となったポケモンGOは、

ゲーム自体は斬新で魅力的だろうし楽しむ分にはなんら問題ない。

しかし夜な夜な公園に集まる大勢の人々の姿を目の当たりにするとゾッとする。



限定された空間内で、ある一定の時間を過ごさなければならない移動時間、

暇を嫌う人たちにとってこれほど苦痛な時間があろうか。

今のところはスマートフォンを触っている人が多いが、

近い将来、紙媒体への関心が高まり皆本や新聞へ回帰したらどうだろう。

電車の中で皆熱心に本を読んでいたらそれはそれで異様だな。

その時私はどうすればいいんだろう。



メールも電話もゲームも本もパソコンもスマートフォン一つに集約されたわけで、

皆下を向いて同じ姿勢を保っていても違うことをしていたりする。

何をするかよりも、何かをするための媒体が少なくなりすぎたのだ。

ただただ風景が寂しい。

しかし、それも今にはじまったことではないのだろう。

その時代、時代に流行はあるし違う形でそういう現象があったに違いない。



私は今よりも昔に憧れを抱くけれど、

昔を懐かしんであの頃はいい時代だったと言うのは幻想だと思っている。

その連鎖は永遠に続くものだからね。

今は未来人にとっての古き良き時代になるのだ。

時間が過ぎるだけで時代に価値がついていく。

それもノスタルジアに取り憑かれた妄想が育むあたたかくも薄っぺらい価値。



右向け左、回れ左!

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思考の大河

2017-01-21 15:33:10 | 日記
「思ったこと全部口に出さなくていいから。」とよく言われる。

「言いたいことの10分の1も言っていない」と答える。

忍ぶ美学というものが欠けているのか、単に自己主張が強いのか。

反対に「君の意見を聞かせてよ」なんて言われたら、

案外言いたいことがなかったりなんかして。

みんな何を思って言葉を口にするのだろうか。



頭の中を巡る数多の思考、

そのほとんどは表に出ることなく消えていく。

まるで大河の濁流のようだ。

どこから生まれてどこに消えていくのか。

あるいは存在したと感じる微かな気配自体錯覚だったのか。



言葉とか思考とか音とか想念とか、なんだかこんがらがりそうなので、

最初にそれらをどうやって使うか決めておこう。

その際に本来の意味と食い違う部分があっても決めた使い方を優先する。

ここで軸になるのは頭の中にあるものなのか、

話すなり書くなりして表に出したものなのかということ。

思考や想念は頭の中にあるもの。とても抽象的で存在自体が曖昧。

言葉や文章が表に出したもの。他者(自分自身も含む)への発信でありより物理的。



人は何を思って頭の中にある思考を言葉にするのかふと不思議になることがある。

どんなことなら言葉にし、どんなことなら口にしないのか。

多くの場合無意識的にこの選択が行われていて、そこに人間らしさを感じる。

その点私は言葉を口にする際意識的に選択しているという強い自覚があるが、

実際にはちゃんとできないことに気づき自分に対する妄想が打ち砕かれた時、

とても晴れ晴れした気持ちになる。私も捨てたもんじゃないななんてね。



もしかしたら、思考を取捨選択する濾過器のような物が頭の中にあり、

それによって濾過された思考が言葉になるのかもしれない。

濾過器といってもかなりいい加減な装置である可能性は高い。





人に伝えると言うのは本当に難しいことだとつくづく思う。

そもそも頭の中に流れる思考がまとまっていない。

例えば感情を表す言葉はたくさんあるが、

それ以外にもっと複雑な感情がお腹の当たりでごろごろしていたりする。

それでも共有出来るものが感情をあらわす代表的な言葉しかないから、それを使う。

あまり正確に伝えたら、それはそれで苦しくなりそうだけど。

正確に伝えようと考えた人たちが、いろいろな表現方法をもって小説とか書くのかな。

内に秘めるのがいいことか悪いことかは置いておいて、

周りを見ていると男性は内に秘める力を持っており、女性はその力が弱いような気がする。



いつ何時も人の頭を支配する思考、

膨大な想念は誰に気づかれるまでもなく生まれては消え生まれては消えていく。

その全てを拾い上げることなど到底できない。

去っていく思考にもう少し待ってくれと手を伸ばしたところで振り向いてもくれない。



さてはて、うまく発信された思考は置いておいて、

発信されなかった思考たちはいったい何者なのか。

思考の大河は自分だけのものなのか、それともこの宇宙と何処かで繋がっているのか。

思考の流れがあまりにも膨大で、自分だけのものとは思い難い。

例えば人々の思考を司る亜空間が実際にあり、

そこには思考の大河が脈々と流れているというのはどうだろう。

私は自分の脳を通して思考の大河の一部分に触れているにすぎず、

そこから救い上げたいくつかを自分のものにしていくのだ。

そう思えば自分自身の考えにそこまで囚われることもなくなるかもしれない。

そして誰に気づかれることもなく消え去っていく思考の孤独な旅も、

そんなに寂しいものではなくなるだろう。


思考の大河のイメージ図。天の川みたいな感じ。



坂口安吾の『文字と速力と文学』という短い随筆がある。

この文章が本当に好きでもう何回も読んでいる。

その一部をここに紹介したい。

何が面白いかって坂口安吾の選んだ言葉と、想念への執着、書く速力に着目している点、

そしてランニング姿の彼が情けない顔で机に向かっている姿が想像出来るから。

思考は瑞々しいままでで取り出さなければすぐに生気を失う、

まるで生ものを扱うように言葉を大切にしているのが伝わってくる。




『文字と速力と文学』(坂口安吾)より

私の想念は電光の如く流れ走つてゐるのに、私の書く文字はたど/\しく遅い。
私が一字づゝ文字に突当つてゐるうちに、想念は停滞し、戸惑ひし、とみに生気を失つて、ある時は消え去うせたりする。
また、文字のために限定されて、その逞しい流動力を喪失したり、全然別な方向へ動いたりする。
かうして、私は想念の中で多彩な言葉や文章をもつてゐたにも拘らず、紙上ではその十分の一の幅しかない言葉や文章や、
もどかしいほど意味のかけ離れた文章を持つことになる。



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『STAR WARS ローグ・ワン』は観た方がいい

2017-01-10 13:07:29 | 映画
昨年2015年の暮れに待望の『STAR WARSエピソード7』が公開された。

アナキン・スカイウォーカーが暗黒面に堕ちていく姿を描いた『エピソード3』から10年、

ルーカスフィルムがウォルトディズニーに買収されたり、

いろいろありながらもファンはその日を待ちに待っていた。

正直言うと私は期待すらしていなかったのだが、エピソード7の話を聞いたときは飛び上がった。

なんでこんなに好きなのか正直分からない。

両親が好きで子どもの頃から見ていたからかもしれない。



蓋を開ければ、主役のレイを演じた女の子がとても魅力的で、

ハン・ソロとチューバッカ、レイア姫が出てくるだけでも十分だった。

ディズニーの商業主義的な側面ももちろんあったかもしれないけど、

とても大事に作られたであろうことが伝わってきた。

世間の評価は結構厳しい部分もあったみたいだけどね。



それからたったの1年で『ローグ・ワン』が公開された。

やはりメインストリームでないからか、メディアも『エピソード7』ほど盛り上がっていないように思えた。

『ローグ・ワン』という言葉に対しても馴染みがなくピンとこない。

ファン心というのも複雑で、たった1年で新作が発表されるとなるとディズニーに対しての懐疑心が大きくなる。

金のために『STAR WARS』をかき乱すな〜、大量生産するな〜てな具合に。

そういう訳で映画館に観に行くなんて発想は皆無だった。



しかし、同居人Kが執拗に誘ってくる。

Kは『STAR WARS』旧シリーズの根強いファンで知識も断然私より豊富だ。

あまりにもしつこいので、結局観に行くことになった。

観るとなればそりゃあIMAXの3Dで。



正直なところ『エピソード3』と『エピソード4』の間の話ってことしか知らなかった。

それが途中ではっとする。

主人公たちのミッションを知った時、全てに納得する。

ああ、そうだったのか。

『エピソード4』のオープニングのあの一文にこんな壮大な物語が詰まっていたと思うと感慨深い。

そしてこの物語の一番の特徴はジェダイが出てこないことだ。

STAR WARSとういう舞台の上で、こんなにも多くの人がメインストーリーから外れて戦っていたことを知る。

誰かの物語ではなく、人々の物語。



映画2時間もあれば大抵少しくらい平和な時間が設けられているものだが、

この映画が凄いのは冒頭にはじまった緊張感が最後まで切れることなく続くこと。

我に帰る時間が全くない。

3Dで視界もかっちりガードされ、音響もIMAXの特別な環境というのもあるかもしれないけど、

物語自体がいつになくハードだという点は大きい。

何よりも、この映画を見ると『エピソード4』の理解が深まりより楽しめると思う。

家に帰ってからすぐに『エピソード4』を観たのは言うまでもない。



本当に期待を裏切られた。

面白いので是非観てみてください。

『STAR WARS ローグ・ワン』予告





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あけましておめでとうございます

2017-01-04 15:11:36 | 日記
ここ一週間、晴れやかな空が続いている。

冬と言うにはあまりにあたたかく、昼は外でひなたぼっこだってできそうだ。

つい数日前までは2016年だったというのに、年の境をまたぐだけで遠い過去のような気がしてしまう。



2016年の暮れ、たまに手伝いに行く麻布十番の料理屋さんでひたすらおせち作りの手伝いをしていた。

店長と店員一人の小さな店だが、店長こだわりの料理はいつもお客さんに好評だ。

おせちは常連さん22件92人分。

さっさと終わるものだと思っていたら、なんとも時間のかかる作業で驚いた。

でも少しづつおせちが形になっていく経過は見ていて面白い。

余った分は皆で山分けし、元日に高級料理店のおせちを食べるという贅沢な正月を過ごすことができた。











昨日は神奈川県の寒川町にある寒川神社に初詣に行ってきた。

わざわざ遠くまで初詣に行くというのは個人的にはしっくりこないのだが、行く人がいいならそれでいい。

同居人Kが寒川神社が好きで、去年から初詣は寒川神社になった。

神社の門には人がごった返し、正月独特の活気がいい感じだ。










おみくじ100円に人々はどんな願いを乗せるのか、とにかく来たからにはおみくじ引かねばと手を伸ばす。

おみくじにあまり期待していないからか、ここ数年は引くたびに大吉だった。

しかし、いつも大吉だから今年も大吉でしょと少しばかりの欲を持つと、小吉とかいうぱっとしないものを引いてしまう。

子どもの頃は大吉じゃなければいっそのこと凶がいいなんて本気で思っていたけれど、今となっては凶じゃなくてよかったという弱腰。

交際の欄がなんだか的を得ていて笑えた。






さてはて、2017年どんな年になるでしょうか。

一年の始まりでございます。



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売れ残りのサンタクロースとブーケ

2016-12-25 23:58:48 | 日記
メリークリスマス。

今年のクリスマスにあった出来事を2つ書こうと思う。



クリスマスに思い入れはあまりないけれど、街が浮き立つとなんだかこっちまでそわそわししまう。

私の家にサンタクロースが来たことがなかったから信じたことはないけれど、

子どもの頃クリスマスにプレゼントをもらった記憶が一回だけある。

確かその頃流行ったドラマ「HELLO」のキムタクが来ていたようなジャケットだった。

包みを開けた後、窓の外を見ると屋根に積もった雪の上に足跡まであった。

夜、雪に長靴を当てている母を思うとありがたくて、その上着が少しだけ小さかったことは言えなかった。



昨日、同居人Kがプレゼントをくれた。

私は用意をしていなかったから慌てたけれど、まっいいか。

包みを開けると子どもが喜びそうなサンタクロースの人形が入っていた。

しかも電池を入れるとクリスマスソングが流れて踊る。

一昔前に流行った”Jingle Bell Rock Santa”が欲しいと私が言ったから買ってきてくれたのかもしれない。

具体的な用途のないプレゼントはほとんどもらったことがなかったので新鮮だった。

話を聞くと、街の路上で売れ残っていたサンタクロースらしく寂しそうだったから買ってきたのだとか。

さっそくスイッチを入れると帽子の先についた鈴をチリンチリンならしながら踊ってくれた。

その姿が一生懸命でとても健気に見えるのは売れ残っていたからだろうか。

精一杯踊るからここに置いてくださいと言わんばかりだ。

こんな時思い出すのはトイストーリーですぐに買い替えられてしまうおもちゃたちの悲しい物語。

このサンタクロースは大事にしよう。



全く関係のない話をもう一つ。

つい23日に友達の結婚式があった。

披露宴会場のテーブルの上にはポインセチアをあしらった装花が置かれている。

クリスマスウエディングというのかな。

花婿は凛々しく花嫁は美しく、アットホームな式だった。

そんな中思わぬイベントに巻き込まれてしまった。

まさしくブーケプルズだ。

花嫁が投げたブーケをキャッチする演出は広く知られているが、

ブーケプルズは花嫁のもつブーケの先に何本かリボンを出しておき女性参列者がそれを引っぱり、

ブーケと繋がったリボンを当てるイベント。

詳しいことは知らないけれど、ブーケを手にできた女性は幸せになれるというジンクスがある。

私はできるだけ目立ちたくないので、こういうイベントには参加しない。

しかし主催者側の独断で名前を呼ばれたら参加するしかない。

友人が多く出席していたのだが、私の名前が呼ばれるとお前じゃないだろうという感じで皆笑っていた。

名前を呼ばれた7人の女性が花婿花嫁の持つブーケを囲み、それぞれがブーケに繋がるリボンを手に取った。

いっせーのっはいっ、スルスルスルスルピーン!

そこで皆私に注目する。

こりゃどーも。

そういや、こういうのって私みたいなやつが当てるんですよね。

花婿がこっちを見てニヤニヤしている。

マイクをもった司会の女性が近寄ってきて私の口元にマイクを当てる。

「幸せになろうと思いまーす。」

なんじゃこりゃ。

でも真っ白なバラのブーケを手に持つと、案外嬉しいのであった。

家にもって帰ってかわいく飾ろう。



クリスマスにうちにそろった場違いな贈り物。

いつもあっという間に過ぎてしまう1日だが、今年は少し得した気分。

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手作りツリー

2016-12-25 04:04:29 | 日記
去年に引き続き、今年も手作りツリーに挑戦。

去年のツリーはこちら



今年の材料は、

麻ひも、

小さい風船、

棒4本、

針金、

ラメ入りのマニキュア、

木工用ボンド、

小さいミラーボール、

LEDの安い電飾。



家になくてもミラーボールと電飾以外は100均で手に入るものだ。

膨らました風船にボンドをつけたヒモを巻き付けて乾かし、

乾いたら風船を割り抜き取ると麻ひもの小さなボールができる。







ボールがキラキラ輝くようにラメ入りのマニキュアを塗る。

それをいっぱい作り棒と針金で作った基礎にたくさんくっつけ、

電飾を巻き付けたら出来上がりだ。

電飾の威力ったらすごい!



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あれ、誰だっけ

2016-12-18 01:30:00 | 日記
先日喫茶店で人とコーヒーを飲んでいた時のこと、

なんでかサッカーの話になりドイツびいきの私はドイツ人選手の名前を並べながらあーだこーだ言っていた。

クラブワールドカップでレアルマドリードが来ていることもあり、レアルに在籍する唯一のドイツ人選手の話になった。

「ほら、あの背が高くて顔が六角形で上品な感じの彼、名前なんだっけ?イケメンのパスミスしないさぁ、ほら」

「さぁ?」

相手はさして興味がないようで、仕方がないのでiPhoneで調べようとポケットをさぐるとどうやら家に忘れてきたらしい。

そういえば、分からないことがあるといつもすぐネットで調べるなあ。



思い返してみれば、最近分からないことや知らないことが少なくなった。

それは私が誰もが羨む優秀な脳の持ち主なんかではなく、インターネットですぐに調べるから。

インターネットにアクセス出来る状態が常に側にあるというのは、知識の倉庫を常に持ち歩いているようなものだ。

だから必要以上にものを覚える必要がない。

でもそれでいいのだろうか。



最近「覚える能力」や「思い出す能力」が弱くなっているように感じるのはこういったことが原因かもしれない。

片手でスイスイ指を走らせるだけで欲しい情報が手に入るのだから、覚えることや思い出すことに執着がなくなっていく。

「あれ〜何だっけ?誰だっけ?」ともやもやする時間すらない。

何かをネットで調べていると、つい先日も同じことを調べていたことにふと気づき愕然とするのだ。



「覚える力」を育むためには、ものを覚える努力をしなければいけないし、

「思い出す力」を育むためには、思い出す努力をしなければいけない。

努力っていうと少し大げさだけど、当たり前にネットを常備している今、そういう問題に意識的になる必要がある。



子どもの頃にたくさんの言葉を覚えたのは脳が柔軟だったから、と現在を卑下する必要はない。

今はそういうことに対し結果的に消極的になっているだけのこと。

子どもの頃は「覚える」というこにも「思い出す」ということにも積極的だった、いや積極的にならざるを得なかった。

日本の学校は覚えることを基本としているから、子どもにとってはそれが仕事のようなものだ。

物を知らないから真っ白いノートに書き込んでいくようなやりやすさはあるだろう。

そういうと大人の脳は既にたくさん書き込まれたノートだから、

消しゴムで消すか開いているスペースを探すという手間があるわけだがそんな大したことでもあるまい。



また、ただ単に無知であるが故、物事を理解するには調べて覚えるしか方法がなかった。

なんとなく予想してスルーするという効率的なずるができない。

忘れもしない『指輪物語』を読んでいたときのこと、古い使い回しが多くチンプンカンプンだったので、

紙の辞書とノートを傍らに置き、眉間に皺をよせ少しずつ読み進めていた。

しかし一巻を読み終わらないうちに調べている時間の方が多いことに気づき読むのを諦めた。

今でも子どもの頃めくった辞書の紙の感覚を覚えている。



また、調べる媒体の少なかった頃は、忘れてしまったことは思い出すしか方法がなかった。

「思い出す」というのは「覚える」ことよりも難しいかもしれない。

思い出す方が得体が知れない。



いずれにしろ一つの情報や言葉と対峙する時間が今はあまりにも少なすぎる。

「分からない⇒調べる⇒解決⇒忘れる」が高速ループしていて、何も身になっていない。



また情報の拠り所として、インターネットとういう情報媒体に頼りすぎている部分がある。

ネットの世界というのは果てしなく広がっているように見えて、実は一元的で広がりに欠ける。

そこには電気信号しかない。

とにかく匿名性の高い情報とはある程度の距離を置くべきだ。



「情報」「言葉」はそれ単体で成り立つものではなく、

出会った時の字面だったり紙の感触だったり人と話したときの微かな風景とともに「記憶」として残るのだと思う。



ドイツ人選手の名前はあの後しばらくの間意識的に調べないでいた。

きっとあの選手のことを思うこの時間が、のちのち彼のことを覚える手助けをしてくれるだろう。

そうしておとずれたレアル・マドリードVSクラブ・アメリカの試合の日、スタメンで出場していたときはなんだか凄く嬉しかった。

その名はトニ・クロース、やはりかなりの男前だった。



普段あまりサッカー中継をしない日テレだが、スター軍団を前に盛大に盛り上げようとしているのが伝わった。

解説のアナウンサーもサッカーにあまり詳しくないのかとにかく選手の名前を連呼していた。

「誰々はこういう選手」という平面的な情報ばかりで、クロースがシュートしたとき外れたにもかかわらず、

「正確なシュートーー!」と叫んでいたのが面白かった。

ただ、日テレ全体がレアル寄りなのが気にくわず、全力でクラブ・アメリカを応援したけどね。



クロースの件が片付いたと思ったら、

今度は同居人が「あのさ、バドミントンの羽ってなんて言うんだっけ?」というどうでもよさそうな疑問を持ち出してきた。

「えーっと、ロケットじゃなくて」

「パドル!?パドルじゃない?なんかしっくりきた。」

「それカヌーで使うオールのことだから!」

ということでこれまた思い出すまで調べない約束をして話は終了したのだった。

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おもいつき思考的並行世界論

2016-11-18 05:06:33 | 日記
大学生の時に「自分はたった一人で地球に立っているのだ」と実感したことがある。

それまでは言葉で表面的に分かったフリをしていただけだったから、それは衝撃的な出来事だった。

自分でつくったしがらみから解放された気がしてとても清々しい気分になった。

今、当時の実感を掘り起こそうと試みたところで、輪郭すら掴めない。

それでも頭の中に湧いたお花畑のようなイメージは覚えている。



その時から、個という存在の独立性を強く意識するようになった。

頭の中を共有する装置がない限り、皆違う世界に住んでおりその世界は決して重なる事はない。

そう考えた時に、時空を超えなくともパラレルワールドは存在するのかもしれないなんて想像が膨らむ。

いや、「時空」を時間と空間を合わせて考える単なる物理学用語として捉えるのであれば、時空すら超えるかもしれない。

この妄想に「思考的並行世界論」という名前をつけておく。

今のうちに打ち明けておくけれど、私は特にパラレルワールドについて詳しい訳ではない。

何となく知っている情報の上で、曖昧な妄想を楽しむだけ。

頭の体操だ。



一人一人違う世界を見ている、一人一人が違う世界に住んでいる。

つまりこの地球には独立した並行世界が73億個同時に存在しているという事になる。

人間だけでなく、概念から解放された全ての生物の個を思えばその世界は星の数ほどあるだろう。



後づけの辻褄合わせだが、時間の感じ方が人によって違うのは「時空を超える」ためのヒントになるかもしれない。

以前知り合いのヨガの先生のもとで面白い体験をした。

彼女は「ゆっくり目を閉じて、今から5分間瞑想してください。」と言った。

どうやったら瞑想出来るのか分からなかったけど、とにかく体をリラックスさせぼーっとしてみた。

「それではゆっくり目を開けてください」と言われた時、とても驚いた。

というのも、そのとき感じた5分があまりに短かったからだ。

彼女はその場にいた十数人にこの5分間をどう感じたか聞き、中にはとても長く感じたという人もいた。

時計が刻む時間ですら、共有できずこんなにも不確かなのだ。



パラレルワールドには現世界に住む自分とは違う自分が存在しなければならない。

パラレルワールドを題材にした物語では、たびたび他の世界の自分と会ってはいけないというルールが設けられている。

では思考的並行世界論において、同時に存在する私をどうやって理解するべきなのか。

簡単な話、自分で思う「私」と他人から見た「私」は同一人物でありながら、別の存在でもある。

人の捉え方や、自分の振る舞いには一貫性がなく、それゆえそれぞれが持つ「私」のイメージが厳密に重なる事はない。

ある人は「大人しい」と言い、ある人は「やかましい」と言い、ある人は「ミステリアス」と言い、ある人は「分かりやすい」と言う。

それぞれの世界に違う私が住んでいるのだ。

面白いのは、世界が別れているがゆえそのイメージには正解がないと言う事。

それが例え自分を主体とするこの世界であっても。

この場合、他の自分と会うのは難しそうだ。

ドッペルゲンガーに会うと死ぬって言われているけれど、もしかして他の誰かの世界から飛び出した自分だったりして。

そういえば、以前本気で「君のドッペルゲンガーを見た」と言われた事があったけど、なんだったんだろ。



いまの所、パラレルワールドの「分岐し無数に増えていく」という特徴を思考的並行世界論に組み込むことはできていない。

なんか良いアイディアないかな。

タイムスリップも出来ないし、思いつきも甚だしいな。






この分断された世界において、ひとつ興味深いエピソードがある。

私は子どもの頃に抱いた「色」におけるある疑問を何となく手放せないままでいる。

それは「私が見ている色と他の人が見ている色は同じなのか」と言う問題である。

私が青だと思っているこの色は、ほかの人から見たら赤かもしれない。

この疑問は他の人の目から見ない限り解消されることはない。

つまり証明する手だてはないと言う事になる。

このような疑問を抱いたのは、無意識下にある個に対する不安が原因かもしれない。

こんなばかばかしい疑問など誰も取り合ってくれないだろうと思い口にしたことはなかった。

それが大学生の頃、友人にそのことをぽろりと話したときあっさり共感されて驚いた。

とても感慨深く、友人とのつながりを強く感じたのを覚えている。

その後違う友人にも話してみたが、今度はそれに関する新書まで渡されたものだからさらに驚いた。



隔たれた世においても「共感」なんてものは真偽問わず溢れている。

この話が面白いのは、強烈な世界の分断と強烈な共有体験が共存する点にある。

個への執着がみごとに社会へのつながりを強調しているのだ。

内(個)に向かっているはずの矢印が、知らぬ間に外(全)に向いているような不思議な感覚だ。

「個」に向かう矢印は、同時に「全」にも向かっているのかもしれない。

「個」と「全」は対義語だけど、この2つは支点を中心に両極端に置かれたものでもないのかも。
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お笑い芸人Aマッソ

2016-11-12 04:47:57 | 日記
【Aマッソ】 コント「合コン」


女芸人で漫才師だと思ったのはAマッソが初めてだ。

涙が出る程笑わせてくれる。

今回はとても分かりやすいネタをアップしたけど、どのネタも面白い。

彼女たちがやっているのは、独特で他にはない笑いだ。

それでいて抜群のセンス。

さらになんというか男にはないかっこよさがあるというか。



ネタは加納愛子(トロフィ持ってる方)が作って、

生活費は村上愛(持ってない方)が稼ぐというストイックさ。

このネタは違うけど、加納さんの刺すようなツッコミが最高。

参考までに→「総理大臣」

今年のM1にかけているらしいので、応援しよう。

あまり関係ないけど私と同じ年らしいので勝手に親近感もわいている。

この二人にはそこら辺にいるタレント女芸人みたいにはなってほしくないな。



芸人の単独ライブに行きたいと思ったのも初めてだ。

他の芸人と違う何かがある。

もしかしたら今後カルト的な人気が出るかもね。
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トランプ大統領誕生

2016-11-09 15:33:44 | 社会
いよいよアメリカ大統領投票日。

日本のメディアは蓋を開けてびっくりという感じだ。

日本時間5時頃、トランプが勝利宣言を発表した。



でもそもそもメディアの報道変じゃなかった?

みんながみんなヒラリーを応援していたし、どこかでヒラリーが当選すると確信しているようだった。

あるいはそう願って現実に向き合わなかっただけか。

唯一違う意見を言っていたのが月曜深夜の橋本徹の番組だったように思う。

そこで、三浦瑠麗という国際政治評論家は「トランプの可能性は全然捨てきれない」と言っていた。

それから、なんとなくトランプがなるんじゃないかという予感があった。



確かにトランプの発言はひどいものがあり表出している人格は最悪だ。

私がアメリカ人だったら彼が国の代表だなんて想像するだけで頭が痛いだろう。

排他的思想は過激かつ非人道的で生理的に受け入れ難い。



でもだからといって感情的にヒラリーを選ぶというのは少し安易かもしれない。

いくら民主党と言えど、もはやヒラリーとリベラルは繋がらない。

なぜならアメリカのウォール街と密着しているのはヒラリーだからだ。

ヒラリーの場合はっきりと未来が見える。

ゆっくりではあるが確実に悪い方へ行くだろう。

日本だけで考えると今抱えている日米間の問題がTPPを原動力に米グローバル企業向けの形に変えられる。

韓国のFTAやメキシコの農業をめちゃくちゃにしたNAFTAみたいに。



私が理解している範囲では、アメリカの政治は超巨大グローバル企業が動かしている。

軍産複合体をはじめ巨大バイオ産業など、1パーセントの富裕層たちだ。

TPPの裏にあるのもこういった企業だ。

選挙の結果を見てみると、権力が集中している地域はヒラリーだった。

それがもともと民主党が強い地域なのかどうかまでは知らないけれど。



反してトランプは自分の財力があるため、そういった企業に気を使う必要がなく好き勝手言っている。

あのモンサントが推進するGMO(遺伝子組み換え)についても皮肉じみたコメントをしているくらいだ。

どういった視点からなのか分からないけど、トランプは行き過ぎたグローバリズムに反抗もしている。

そのため彼は大統領になったらTPPを離脱するとも言っている。

日本は一生懸命アメリカについていくために今まさに強行採決しようとしている最中だというのになんともまぬけ。

トランプは日本にあまり興味を持っていないだろう。

嫌なイメージのトランプは一部の報道をそのまま受け入れていただけという可能性も高い。



一部では女性の進出を阻む古い層の力が働いたとも聞いているがそこら辺はわからない。

大雑把に見るとアメリカの人たちはどうなるか分からないけれど現状維持だけは容認出来なかった、

よくも悪くも変化をもたらすのはトランプだったから彼に投票したという事なんじゃなかろうか。

例えば経済的にとか、防衛的にとか全体的に日本にとってどちらが良いのかまでは分からない。

私が言いたいのはトランプもひどいけど、ヒラリーも奇麗な顔してかなり怖いぜということ。

世論調査では常にヒラリー優勢だった事に対し前述した三浦さんが面白い事を言っていた。

「倫理的にトランプを応援しているというのは言い難いため隠れトランプなる人たちがたくさんいる」という事だった。



サンダースさんを支持していた人たちはどっちに入れたんだろう?

トランプか、全く予想出来なくなってきたね。
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