歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

原故郷のスラヴ民族

2017年06月07日 | 
新国立美術館で開催されていたミュシャ展の最終日に滑り込みで行ってきた。

大分前からやっていたのは知っていたけど、アールヌーヴォーのミュシャを観に行くのはミーハーっぽくて嫌だった。

もともと好きで画集も持っているくせに、変なところがねじ曲がっている。

素直に観に行こうを思ったのは最終日の前日の朝にNHKでアンコール放送されていたミュシャの特集を見たからだ。



今回初来日しているのはミュシャがフランスから故郷のチェコに戻り16年かけて描いた全20点の大作『スラヴ叙事詩』。

『スラヴ叙事詩』は彼の残りの人生をひたすら彼の民族に捧げるという誓いのもと描かれた、

チェコおよびスラヴ民族の伝承・神話および歴史を描いた作品である。

多くの人はフランス時代をミュシャの全盛期だと思っているが(私もそうだった)、

晩年チェコで描いたこの壮大な作品を知らずして彼を語ることはできない。

歴史に虐げられ苦悩を強いられたスラヴ民族の生き様を描くため、彼は16年間それだけに没頭したのだ。

ミュシャ自身もまた抗えない歴史の波に翻弄され、最後はゲシュタポの刑務所に投獄され解放された後亡くなった。

これを逃したら一生見ることはできないかもしれない。

混んでいる美術館は大嫌いだけど、何が何でも行かなければならないと思った。



美術館に気軽に行けるというのは首都圏に住む利点の1つだ。

6月5日ミュシャ展最終日、大変な混雑が予想されたので9時過ぎには家を出た。

千代田線乃木坂駅のホームを降りて長い地下道を上って行くと遠くの方から「ミュシャ展ただいまの待ち時間90分」という案内が聞こえた。

改札を出てすぐのところに特設のチケット売り場がありそこにたどり着くまでにも長い列ができていた。

新国立美術館には何度も来ているがこんなのは初めてだ。

チケットを購入し美術館に到着するが、行列の最後尾はなんと外、これには参った。

一時間以上炎天下で、止まっては少しだけ進み止まっては少しだけ進みを繰り返した。

結局110分ほどかかりやっと会場入り。





初めに驚いたのは絵がとてつもなく大きいということ。

Wikipediaによれば『スラヴ叙事詩』は小さくて4×5m、大きくて6×8mだそう。

今回人口密度が70%くらいあり、どこから見ようが純粋な絵の全体像を把握するのは難しかった。

近くで見ようとすると絵の上の方が見えないし、遠くから見ようとすると絵の下の方が人の頭に隠れて見えない。

それでもただ大きいというだけで相当な迫力がある。



兎にも角にも、一枚目がすごかった。

『原故郷のスラヴ民族』だ。


「スラヴ民族の祖先(3-6世紀)が他民族の侵入者から身を隠す様子を描いた場面。
画面右上では、防衛と平和の擬人像に支えられたスラヴ民族の司祭が神に慈悲を乞う。
1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm(写真・説明文はミュシャ展公式ホームページより)」

初めに近くで見て下の女性の眼差しに吸い込まれそうになった。

恐れ、不安、そんな感情が流れてきた。

上の方に大きな人がいるなと思いながら人に押されしょうがなく次の絵へ進む。

何枚か鑑賞し振り返ると正面に先ほど見た『原故郷のスラヴ民族』が厳かに鎮座していた。

その瞬間体が何かに縛られたような感覚に囚われた。

神様がいる。

注釈は読んでなかった。

ただ、神様がいると思った。

神様の後ろからこちらに強い風が吹いている。

思わず尻餅をついてしまいそうなほど、とてつもない迫力だった。

実際は神に慈悲を乞うスラヴ民族の司祭だった訳だが、それは置いておこう。

『原故郷のスラヴ民族』を見ただけで、この展覧会に来て本当によかったと思った。



その他にもいくつか載せておこう。

3枚目『スラヴ式典礼の導入』

「ヴェレフラード城の中庭で、王に宗教儀式でスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面(9世紀)。
先王は二人の僧侶に聖書をスラヴ語に翻訳させ、それによりゲルマン人司教やローマ教皇を憤慨させていた。
スラヴ式典礼を導入し正教会へ傾倒することで、スラヴ人はローマ教皇や神聖ローマ皇帝の支配を逃れることができた。
1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm(ミュシャ展公式ホームページより)」

8枚目『グルンヴァルトの戦いの後』

「15世紀初頭、ドイツ騎士団は北方スラヴ諸国に侵攻した。
ポーランド王ヴラジスラフ王とボヘミア王ヴァーツラフ4世の連合軍は、1410年、グルンヴァルトの戦いでドイツ軍に勝利した。
1924年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm(ミュシャ展公式ホームページより)」

12枚目『ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー』

「フス戦争の時代、ヴォドニャヌイは熾烈な戦いの場となった。
怒りに満ち、悲しみにくれる住民たちは、司祭にして偉大な哲学者であるヘルチツキーに救いを求めた。
司祭は聖書を手に、復讐しないよう彼らを諭した(1433年)。
1918年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm(ミュシャ展公式ホームページより)」

17枚目『聖アトス山』

「ギリシャのアトス山は正教会の最も神聖な場所である。
スラヴ民族をビザンティンの教育や文化へとつないだ正教会への賛辞をこめた作品。
1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm(ミュシャ展公式ホームページより)」

18枚目『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い』

「1894年にスラヴ文化の再興を求めるオムラジナと呼ばれる民族主義的な団体が結成された。
20世紀初頭に団体は弾圧を受け、提唱者たちは公職から締め出された。
1926年(未完成) テンペラ、油彩/カンヴァス 390×590cm(ミュシャ展公式ホームページより)」

20枚目『スラヴ民族の賛歌』

「スラヴ民族の勝利のヴィジョン。
画面右下の青はスラヴ史の神話の時代、左上の赤はフス戦争、中央の黒い人物像はスラヴ民族の敵、
黄色い人物たちはスラヴ民族に自由と平和と団結をもたらす人々。
1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 480×405cm(ミュシャ展公式ホームページより)」



感想を書くのがおこがましく感じるほどの凄まじい展覧会だった。

展覧会でこんなに疲れたのは初めてかもしれない。

絵が大きいので作品数は少ないのだが、一つひとつの絵が放つエネルギーが桁違いだった。



絵を描く者として凄く稚拙な表現かもしれないが、うますぎてそのうまさに理解が追いつかない。

「これ最初にイメージ出来てるの?そんなのありえないよ!」



例えば写実主義はどんなにうまかろうがそこにあるものを客観的に描くだけであって(もちろん相当高い技術を持っているには違いないが)、

とてもわかりやすく鍛錬を重ねればいつか自分にも手が届くのではないかとぎりぎり妄想出来る。

しかしミュシャは相当高い写実的技術を持っている上に、精神性を形にする独特な感性さらには表現方法を持っている。

彼は主義などに縛られていないのだろうが、端から見るとリアリズムとロマンティシズムの狭間にあるような感じ。

現実ではなく想像を絵にするというのは非常に難しいことなのだ。

構図、配色があまりにも天才的で、どれほど空間を把握する能力に恵まれていた(あるいは培った)のだろうと想像すると気が遠くなる。

『スラヴ叙事詩』は通してテンペラ画法なる方法で描かれている。

それが何なのかよく分からないが、チューブの油絵が普及する以前の主要な画法だったのだとか。



今回のミュシャ展ではフランス時代の代表的なポスター画なども多く展示されていた。

20枚の大作を観たあとの、ポップささえ感じるリトグラフで描かれたアールヌーヴォーの代表作、幅広すぎるよ本当。

『四芸術』-「詩」、「ダンス」、「絵画」、「音楽」;(1898年)


連作『四つの花』(1898)




意気消沈したけど心から行ってよかったと思う。

出口付近でもう一度だけ『原故郷のスラヴ民族』を見たいと思ったが、この人の多さでは逆戻りは無理だと諦めた。

『スラブ叙事詩』で描かれている人間はチェコに住む人がモデルをしたそうな。

いろいろ詳しい人が書いたブログなど面白かったので載せておく。

最強のミュシャ展がスタート!スラヴ叙事詩全20作を見逃すな!【展覧会感想】

ミュシャ展公式ホームページ



いやいや、参った。
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グレートグレートグランドチャイルド

2017年06月07日 | 日記
喫茶店からの帰り道、夫Kが唐突に一昨日見たドキュメンタリーの話をはじめた。



空手の世界選手権で優勝したブラジル女性の話だ。

彼女は空手の聖地沖縄に足を運びアポを取らずに道場に乗り込んだ。

はじめは断られたのだが何件目かで受け入れてくれる道場に出会う。

とても懐の広いお師匠が彼女に世界女王なのになぜわざわざ日本に来たのか尋ねると、

彼女は日本の武道は世界のスポーツと全く別の場所を目指しておりそれが何なのか学びたいのだと答えた。

英語がペラペラのお師匠は流暢な英語で、「私のおじいさんは空手と一緒に人生を学びなさいと言っていました。」と言った。



Kはここで話を止め、「おじいさんって英語でグランドファーザー(grandfather)なんだよ。すごくない?」

はい?

K :「ファーザーにグランドが付くとおじいさんになるってなんかすごくない?」

いや、それより空手の話は?

K :「まぁこの話がしたいが為にドキュメンタリーの話をしたんだけどね。」

勝手に壮大な話がはじまると思っていたよ。



私:「グランドファーザーってことは雄大な父とかそんな感じだよね?グランドキャニオンのグランドだもんね。」

K :「ファーザーにグランドが付いておじいさんなら、ひいおじいさんはなんだろうね。」

私:「グレートファーザーじゃない?」

K :「そんなばかみたいに単純じゃないでしょ!」

私:「ウルトラファーザー」

K :「ハイパーファーザー」

調べてみるとまさかのグレートグランドファーザー(great-grandfather)!

これは二人で笑った。



K :「英語って凄い単純だね。じゃあ孫は?グランドサン?」

私:「そうかもね。」

調べてみるとまさかの正解!

グランドサン(grandson)だと男の子、男も女も入れるとグランドチャイルド(grandchild)。



K :「じゃあひ孫は?」

私:「グレートグランドチャイルドでしょ。」

K :「じゃあ玄孫(やしゃご)は?」

私:「なんだろうね。」

調べてみるとまさかのグレートグレートグランドチャイルド(great‐great‐grandchild)!

単純で非常に面白い。



ただそれだけのことなんだけど、そんな発見があった今日はいい日だと思った。

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大人の階段上る大人

2017年06月07日 | 日記
古いアルバムの中に隠れて想い出がいっぱい
無邪気な笑顔の下の日付は遥かなメモリー〜〜♬
時は無限のつながりで終わりを思いもしないね
手に届く宇宙は限りなく澄んで君を包んでいた〜〜♬

おとなの階段上る君はまだシンデレラさ
幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてるね
少女だったといつの日か思う時がくるのさ〜〜♬



懐かしい歌を口ずさんでみる。

大人の階段上る私はシンデレラ、なわけないか。

年齢は一歳一歳と着実に増えて行くのに、精神年齢は一向に成長の兆しを見せない。

4月で29歳になりアラサーという世間的なくくりの中で、「大人」という言葉を意識してみる。



3月に実家に帰った折、2、3年ぶりに弟に会った。

他人かと思わせるほどやけに大人びた弟と顔を合わせると少し照れくさかった。

夜な夜な薪ストーブを囲み幼なじみのFちゃんと弟と3人で話していたときのこと、

詳しくは覚えてないのだけどFちゃんが「大人になったら」みたいなことを言うと、

弟がすかさず強い口調で「俺たちもう大人だからね。」と言った。

Fちゃんはぽかんとした顔をしていた。

私も平静な顔をしていたけどこれには正直驚いた。

どっちにもうなずける部分はあった。

自分に対する認識が甘かったのか、気づいたら弟の言葉を頭の中で反芻している。

私って大人なんだ。

そう思うと悲しくもあり、嬉しくもある。



結婚を機に実家の釧路に移り住んだ男友達が、先日久々に東京に帰ってきた。

頻繁に顔を合わせたのは6、7年前だから、大学を卒業して間もない頃、

あれから随分時が経っているように感じるけど会ってしまえばその時間は一瞬にして埋まる。

くしゃくしゃに笑った顔から人の良さがにじみ出て、この人お父さんなんだと妙に納得した。

当時よく一緒に遊んだ4人で集まって何やかんや話していると年齢的な話になって、

「たんぽぽ大人になったね。」と言われた。

「老けた?」と聞くと「うん、老けた。」と返ってくる。

普通アラサーの女が老けたと言われると嫌な気持ちになると思うのだが、そのときは嬉しかった。

大人コンプレックスとでも言おうか。



実際は自分が心配しなくとも勝手に大人になってて、

それにも関わらずどうしようもなく幼稚であることに疑い様もない。

世間的なセオリーが身に付くことを恐れ、同時にそういったことに疎い自分に嫌気がさし、

きちんとした人に憧れたりするのだからわけわからん。



きっと大人の階段って長いんだろうね。

上りはじめたとしても、立ち止まる回数が多すぎてなかなか進まないみたい。


北海道土産。やったー!これ好き。
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<カウボーイビバップ>アメリカで実写TVシリーズ化

2017年06月07日 | 映画


日本のTVアニメシリーズで5本の指に入る(私の中で)名作『カウボーイビバップ』がアメリカで実写化されるそうです。
カウボーイビバップオタクにとってこれは衝撃的なニューズです。

お恥ずかしいのですがカウボーイビバップに関しては放送当時に発売された本などを購入し、
たまに開いては主人公の乗るソードフィッシュⅡなる機体の構造に思いを馳せたり、
スタッフのインタビューを読んでにやにやしたりするくらい好きな訳であります。

正直なところ、『Ghost In The Shell』のことがありますからあまり喜ばしくないニュースでした。
こういう根強いファンのエゴが作品の普及活動を妨げているのかもしれませんね。
誰が言っていたのか忘れたけど落語のインタビューでの「通やマニアがそのジャンルを殺す」という言葉に深く共感した矢先、
自分もその一人だったとは自覚が足りなかった。

制作はTomorrow Studios、Midnight Radio(米国クリエイターチーム)とサンライズが共同開発するそうです。
Yahoo!ニュース→「アニメ『カウボーイビバップ』米で実写TVシリーズ化 『プリズン・ブレイク』製作会社と共同開発」



実写化のニュースはおいといて『カウボーイビバップ』は最高に面白くクオリティの高いアニメなので機会があれば是非見てみてください。
Amazonのプライム・ビデオで全話視聴出来るので今のうちに見るのをオススメします。
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土曜の与太郎

2017年05月27日 | 落語
落語には決まった人物が頻繁に出てくる。

江戸落語で言えば熊さん、八っぁん、大家、若旦那にご隠居さん。

その中でも異彩を放っているのが今日の主人公「与太郎」である。



与太郎とは、ときに人の名前であり、ときに「愚か者」の代名詞となる。

どちらにしろ、「抜けているがどこか憎めないやつ」という暗黙の空気をまとっている。



与太郎の出てくる落語は笑える噺が多い。

私が聞いたいくつかの噺は、いずれも世間と与太郎のギャップが面白い。

例えば「かぼちゃ屋」では、

いつまでもふらふらしている与太郎を心配した叔父さんが彼に唐茄子売りを仕込む場面がある。

叔父さんが「これは元値だからよく上を見て(掛け値をして)売れ」と送り出せば、商売中に上(空)を見る始末。

また「金明竹(きんめいちく)」では、

店番を任された与太郎が雨宿りに店の軒下を貸してくれと申し出る通行人に毎回とんちんかんな返答をするのだが、

与太郎の発言により旦那と通行人が絶妙なすれ違いを繰り広げていく様は笑わずにはいられない。

何も知らないというのはある意味「最強」なのかもしれない。



与太郎には「何となく分かるだろう」とか「空気を読め」という曖昧なニュアンスが全く通用しない。

それでいて変なプライドも恥じらいもない、変わった思考回路を持っていて真っ正直。

そこに人を惹き付ける訳がある。




「孝行糖(こうこうとう)」では大きな声で飴を売り歩く与太郎の後ろに子どもの行列ができたし、

「かぼちゃ屋」では世間知らずの与太郎を面白いやつだと気に入ってくれた客が他の人にも唐茄子を勧めてくれた。

まどろっこしさ、物わかりの悪さ、無知、まぬけさとかそういったものは一見嫌なものとして避けられがちだが、

そこに素直さが加わるだけで「しょうがないねぇ」という温かい言葉でもって迎えられる。

愚鈍さをさらけ出すと、人は安心する。

私は密かに与太郎のような人間に憧れている。

Caravanの歌う歌に「愛すべきロクデナシ」というフレーズがあったけど、そんな感じかな。

いやあそこまで爽やかではないな。



おすすめ落語

立川談志「与太郎噺三本立て(かぼちゃ屋、豆屋、孝行糖)」

立川志らく「金明竹」

立川志の輔「ろくろ首」

古今亭志ん朝 「錦の袈裟」

桂米朝「道具屋」

立川流ばかりになってしまった。


「火星人」と思われる塊根植物
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寂しくなるな

2017年05月18日 | 日記
昨日、午前10時頃に家を出た時のこと、

玄関の鍵をかけ、さてさて歩き始めると眼前に突如現れた大型トラック。

荷台は開け放たれ、知らない人たちによって荷物がいそいそと運び込まれていく。

荷台の段ボールには油性マジックで「食器類」と書かれていた。

どうやらお隣さんが引っ越すらしい。

これには驚いた。



お隣が引っ越すというのは寂しいものがある。

以前住んでいたアパートも先にお隣が引っ越していった。

あの頃は毎日のように薄い壁の向こうから夫婦喧嘩が聞こえてきていたが、

普段煩わしくてもいなくなると勝手に寂しいものだ。



そういった事情に加え今のお隣さんは「最高のお隣さん」の異名を持つ粋なご夫婦(私の中で)。

年齢は40代後半、おおらかで趣味が良く非常に友好的でとても魅力的な方々なのだ。

旦那さんはギターの腕がプロ並みで奥さんはとにかく歌がうまい。

二人がバーかなんかで演奏している動画を見せてもらったけど、

旦那さんがまさかのツインネックギターを弾いていたので仰天した。

エレキギターのハードな演奏が深夜まで聞こえきて眠れないときもあったけど爆音はお互い様。



車が好きなのか、駐車場に止めてある真っ赤なオールドカーはいつもピカピカだ。

バイクも2台持っていて、私たちが使っていない駐車場を貸していた。

使っていなければ貸すのは当たり前だと思っていたけど、もったいないほど感謝してくれていた。

夫Kとお隣の旦那さんは玄関先で顔を合わせるとよく音楽の話で盛り上がっていたのだとか。

そのためか駐車場のお礼にとモーリスのギターをくださり恐れ多くもありがたくいただいた。

他にも駅まで途中だから乗って行くかいと声をかけてくれたりして、

二つ返事で車に乗り込む私も図々しいがそれもいいかと思わせてくれる懐の深さを持っていた。

深い付き合いはなかったけれど、好きな人たちが隣に住んでいるというのは気持ちがいい。



何かお礼をしたいと常々思っていたのだけど、先延ばし先延ばし今日に至ってしまった。

引っ越しのトラックを見たとき、何かしら手みやげになるものを買ってこようと思い立った。



最後にまた顔を出すと言ってくれていたので、待っていたら今日のお昼過ぎにお声がかかった。

一通りの挨拶を済ませると唐突に「キャンプはしますか」と聞かれた。

もしやキャンプのお誘いかと浮かれてみたがそうではなく、ワンタッチの組み立て式大型テントをくれるという。

引っ越し先は収納の少ないマンションなのでそういったものが置けないのだとか。

ほしいというと、調子いい具合にじゃあ組み立て式の椅子は?テーブルは?ミニテントは?とすすめてくれる。



「本当にもらっていいんですか、さすがに悪いです。」

「次の家に持って行けないのでもらってくれると助かります。」

「それでは遠慮なく!わーいわーい。」


CARAVANのテント。嬉しいの一言。



それから少し申し訳なさそうな顔で「さすがにこれはいらないですよね?」と出したのが、

私が前々から欲しいと思っていた作業台。

外に置いていたみたいで一部錆びているけど、ただでもらえるなんてラッキーとしか言いようがない。


さっそく塗装の禿げた木の部分にペンキを塗っておいた。



「ずっとお隣にいるものだと思っていました。」

「僕も10年くらい住むもんだと思っていましたよ。凄く気に入っていました。こんなところなかなかないですよ。」

「私もそう思います。」

ここら辺で起き抜けのKが現れて、

「お隣さんが引っ越すときにこんなに寂しいのは東京に移り住んでから十数年初めてです。」

と大真面目な顔で言った。

どうしても伝えたかったんだろうね。

「いやいやおおげさな。」と朗らかなお顔。

お返しにもならないけど、こちらも昨日買っておいた新茶のセットを渡してお別れした。



「お隣さん」というのは他では得られない不思議な縁だ。

いつなんどきも生活の吐息が漏れてきて、嫌でもお互いの存在を感じる。

ある程度の距離感を保ちつつも、物理的生活空間は一番近いところにある。

一戸が断絶された都市生活において、お隣に恵まれるというのは本当にありがたいことだ。

どうか、次に越して来る人が神経質な人でありませんようにと祈るばかり。



お別れして、家の扉を閉める。

暗い玄関でふと我に返り思わずため息。

寂しくなるな。
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至福のときⅡ

2017年05月12日 | 日記
以前「至福」ということについて書いたことがある。

書いたと言うほどのことでもない。

どちらかというとつぶやいたと言う感じだ。

今回もそんな感じになると思う。



他人の幸せには興味がないというのが大抵の意見だろう。

それが身近な人であったなら話は別だけど。

意図的に発せられた幸せオーラは人を嫌な気持ちにさせたり、

無意識的に発せられた幸せオーラは人を嬉しい気持ちにさせたり、

なんとも扱い辛い代物、それが「幸せ」なんてものかもしれない。



「幸せ」「幸せ」と繰り返すと頭が変になりそうだ。

大分受け入れられるようになったとはいえ、やはりその響きはどこか怪しげな空気をまとう。

「そんなことは気にしなさんな」と軽く捉えるのが話の前提。

なんたって私の「至福」は実にばかばかしいものに他ならないからね。



至福のとき、それは自分なりにやらなければいけないことがあったとして、

どうしてもそういう気分になれないときにやってくる。

この場合、選択肢はおおまかに①「嫌々やる」②「少し休憩してからやる」③「その日一日はやらないと決める」の3つがあるとして、

後先考えずにすっぱり③を選んだときに何とも言えない晴れやかな気分になる。

このだらしない自分を認めるという部分に、他では得られぬ何とも言えない「幸せ」があるのだ。

体の末端で滞留していた血液が急に流れ始めるような、

頭の中にルイ・アームストロングの『What's A Wonderful World』が流れてくるような、

どんよりとした重たい雲の切れ間から太陽の光が差し辺りが明るくなるような、気分にしてくれる。

後に待っているものが何なのかも忘れて、怠惰な自分に祝杯をあげよう。



かの有名な落語家、立川流の家元を名乗った立川談志の残した言葉で、

「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」というものがある。

なるほど、こりゃ一本とられましたな。

こういう言葉を言い訳に今日もいい加減でだらしのない自分に勤しむのである。

自分に都合のいいように解釈するというのは、どうやらやめられそうにない。


ずいぶん前の写真だけど、奇麗だったので載せておきます。
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消えた足跡

2017年04月18日 | 日記
大分むぎ焼酎 二階堂 「消えた足跡」



近道は遠回り。

急ぐほどに、

足をとられる。

始まりと終わりを

直線で結べない道が、

この世にはあります。

迷った道が、

私の道です。

(大分麦焼酎二階堂CMより)



子どもの頃からTVで流れている二階堂のノスタルジックなCM。

なんとなくずっと気になる存在だったけど、改めてその言葉に立ち止まる。



言葉って凄いな。

「そんなの前から知ってた」って?



自分の中にあるものを言葉にするってなかなかできることじゃない。

詩人然り、哲学者然り、作家然り、コピーライターしかりしかり。

なんというか、発した言葉を形に残して普遍的な存在にしてきた人たち。



形にされた言葉に共感して一丁前にわかったつもりでいるけれど、

共感するのはきっと当たり前なことでその先が難しい。

ある友達が自分は「死ぬまでに人の心に残る言葉を1つでも残せるだろうか」と憂いていた。

どうだろうね。

誰かにとっての詩人にならなれるのかもね。



実家に帰ると大抵父に映画などの映像作品を勧められる。

前回の帰省で一番のヒットだったのが1994年のイタリア映画『イル・ポスティーノ』。

一人の詩人と郵便屋さんの話だ。

控えめな演出で静かに語りかけてくる。

こんないい映画は滅多に出会えるものじゃない。

その中でハッとした言葉がある。



「詩は書いた人間のものではない。必要な人間のためのものだ。」



誰かの残した言葉は、私のものでもあるんだ。

それを許してくれる言葉は今までなかった。

イタリアから遥か遠く離れたこの地で、それを必要としている私がいる。

知っているようで分かっていない言葉の力に、可能性に、魅力にはたと気づく。

何度でも気づく。

何度でも失望し、また気づく。

何度でも何度でも出会う。



言葉が普遍的な存在になるのは、発した人と受け取った人がいたからかな。

もてはやさず静かに受け取ろう。

それができればいいんだけどね。


TSUTAYAの駐輪場
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ハリウッド版『GHOST IN THE SHELL』鑑賞

2017年04月10日 | 映画
数ヶ月前に、ハリウッド版『GHOST IN THE SHELL』のトレーラーが解禁され、

その数分に垣間見える実写の質の良さについて興奮気味にレポートを書いた。

端々に映る研究施設や怪しい町並みなど物語を構成するディディールにこだわり、

さらにハリウッド版であるというプライドを持ってヴィジュアルをデザインしていると感じだ。

その最たるものが芸者ロボット。

この何とも言えない怪しさは西洋から見た芸者なのか、

士郎正宗の原作でも押井守の『Ghost In The Shell』でもなく、全く新しい攻殻機動隊の一端を見た気がした。

こんなの見せられたら観に行くしかないと、公開2日目のレイトショーにいざ出陣。





ここからはネタバレになるので、純粋に映画を楽しみたい方は見ないでください。





私は押井守の『Ghost In The Shell 攻殻機動隊』と『イノセンス』がとても好きだ。

崇拝していると言っても過言ではない。

作品の完璧さも不完全さも、未だ理解したとは到底言えないその全体像を感覚的に捉え、

自分が抱く感情を制御することも言葉にすることもできずに、ただ作品の中に沈んで行く。

埋没する。



しかしどれほど好きでも、今回その大元をそこまで重要視するつもりはない。

むしろ、最も興味深かったのは「攻殻機動隊」というコンテンツを実写でいかに表現するかという点だ。

ハリウッドが全力で作った「攻殻機動隊」を観てみたかった。



ストーリー

主人公は難民ボートの事故により脳以外全ての身体を失い、全身義体化されることで命をつなぎ止めたミラ。
ミラの全身義体化は史上初の成功例であり、それを成功させたのが義体技術を開発しているハンカ・ロボティックス社だった。
彼女は人類の未来、進化においての重要な存在となり、公安9課に配属され少佐となった。

ある日、芸者ロボットがハンカ社の幹部をハックし殺すという事件が起きる。
この事件の担当となった公安9課は芸者ロボットを操り事件を起こした黒幕を追うことになった。

少佐は芸者ロボットの記憶装置にダイブし、黒幕の片鱗に接触したが、
彼は「ハンカ社と組むと危険だ」というようなメッセージを残し消えてしまう。
その後それがクゼと呼ばれるテロリストだということが判明する。
クゼの目的とは?
ハンカ社とのつながりとは?
プロジェクト2571とは?

そして事件の進行と同時に描かれる、全身義体であるがゆえの少佐の孤独と葛藤。
断片的な記憶、時たま現れるフラッシュバック、自己を自己たらしめる根拠の曖昧さに思い悩む少佐。
彼女はいったい誰なのか、それが分かる時事件の全容が見えてくる。

続きは割愛します。



感想

見終わった率直な感想は「中途半端」。

ネガティブな感想をこういう場に書くのはあまり気が進まない。

しかし、予告レポートであれだけ煽ってしまったので責任も兼ねて感想を書くことにした。

以前書いた記事「<Ghost in the Shell>ついに4月7日公開」



いくつかの目を見張るような美しい映像表現、原作にない面白い発想など、

作品を部分的に考察するといいところもたくさんある。

挑戦的な作品なわけで、よくぞ作ってくれましたという気持ちも強い。

しかしそれを踏まえても1つの映画として面白いとは言い難い。



その一番の原因は脚本、ストーリーだ。

攻殻機動隊じゃなくてもいいじゃないと言いたくなるような既視感漂う単純なストーリー。

それでいて今まで日本で作られてきた連続性がないはずのいくつもの「攻殻機動隊」が盛り込まれている。

「Ghost In The Shell」「イノセンス」「Stand Alone Complex」「S.A.C. 2nd GIG」、

それぞれが重厚な物語を有しているにもかかわらず、これらをパッチワークのようにつぎはぎしてオリジナルストーリーを作っている。

物語を構成する多くのパーツは、乱暴に組み込まれ無責任に放置されたまま終わる。

原作の中で重要な場面を、その場面を見せたいがために表面的にさらっている。

CMを観て「きっと監督は相当なGhost In The Shellファンだ」と思ったのは思い違いかもしれない。

無理矢理寄せ集めたために矛盾や隙が増え、結果リアリティの全くない映画になった。



我ながら厳しいこの感想を読んで、「そう思うのは攻殻機動隊ファンだからだよ」と思うかもしれない。

しかし、それは大きな間違えだ。

むしろ攻殻機動隊ファンだから曲がりなりにも観ることができたのだと思う。

「この場面がこういう風に使われているのか」、「クゼはこういうビジュアルなんだ」、

というように原作との違いを発見したり、実写での描き方を少なからず楽しむことができるからだ。

攻殻機動隊ファンではなく一人の映画ファンとして観る方が厳しくなってしまうこと必至。



原作ファンと大衆性どちらも大切にしたかったが、それゆえどちらにおいても中途半端になってしまったという印象を受ける。

どちらに寄るにしろ、もう少し割り切って作ってほしかった。

超が付くほどの原作ファンが原作と切り離して観るのには今作は相性が悪い。

観る自分も中途半端な視点で観てるわけで、ある意味一番厳しい観察眼を持ってして観てしまったのかもしれない。



余談だけど、今回吹き替えの声優をアニメのスタッフ陣がそのまま演じるという面白い試みをしたそうで、

これを見た人たちの評価は結構いいらしい。

私は原作と切り離してみたかったので字幕で観たけど、原作を大事にしたかったら吹き替えで観るのもありかもしれない。



なんにせよ元々のファンとしては作ってくれて感謝。

アメコミ的なザ・エンターテイメントが好きな方は面白いかもしれない。

それに美しく逞しいスカーレット・ヨハンソンは見物だ。

そういえば、発表当初懸念されていたビートたけしの荒巻は別物だけど思ったより渋くてよかった。

私の思う現実性を纏っていたのがたけしで、だからこそ少し浮いていたとも言える。



次は神山健治だ!

すでに攻殻機動隊で実績積んでいるから期待を裏切らないはず。

楽しみだ〜。

『攻殻機動隊』新作アニメの制作が決定 監督は神山健治&荒牧伸志
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「落語」と聞いて構えるなかれ

2017年04月06日 | 落語
最近、深夜に民放で『昭和元禄落語心中』というアニメが放送されていた。

原作は雲田はるこによる漫画で、これを少しばかり読んでいたので入りやすかったのもあるだろう。

何とけなしに見ていたけれど、これがなかなか面白かった。



話の始まりは、刑務所から出てきた一人の若者が「弟子をとらない」と有名な八雲師匠に弟子入りを懇願する場面から。

なんでも慰問で刑務所に訪れた八雲師匠の落語「死神」に聞き惚れたのだとか。

「与太郎*」と名付けられた明るく大柄で粗暴な若者は、そのまま師匠の家に転がり込む。

頑なに弟子を拒んだ八雲師匠がなぜ与太郎を受け入れたのか、それには師匠の頭にちらつくもう一人の男の顔があった。

『昭和元禄落語心中』は戦前から昭和を生きた二人の落語家の人生と時代とともに変容していく落語の世界を描いた物語。

単純な感情では計れない深い友情と落語への愛を辿る名作だ。

漫画は最後まで読んでないけれど、アニメのクオリティーも高いのでお勧めしたい。

Amazonプライムでも全話見れます。

*与太郎は江戸時代から使われている「馬鹿」「間抜け」「のろま」「役立たず」といった意を含む擬人名で、落語で使われたことから広く浸透した言い回し。


アニメヴァージョン


単細胞というかなんというか、これを見て落語を見よう!と思い立った訳だ。

以前から聞いてみたいという淡い願望はあったけれど、いざ聞いてみようと思うとあまりにも広大で手の付けようがない。

しかし私にはそれをひも解く手がかりがあった。

以前母が「落語、落語」と騒いでいたので、母に聞けば少しくらいはイメージ出来るだろうと思ったのだ。



丁度先日実家に帰る機会があって、さっそく「落語に興味がある」という話をすると、

母だけでなく父や近所の寺の和尚さんまでいろいろと教えてくれた。

こういう大人が近くにいるというのはありがたいことだ。

そうして母が聞かしてくれた桂枝雀(かつらしじゃく)の「親子酒」と、

父と一緒に聞いた立川談春の「紺屋高尾(こうやたかお)」が私の落語生活の始まりと相成った。



桂枝雀の「親子酒」は涙が出るほど笑い、立川談春の「紺屋高尾」は笑いあり涙ありの人情話で、

いずれも落語という一見分厚く屈強に見える扉をパーンと開け放ってくれた。

これほど話が通じることに、江戸時代も今も人は変わらず人なのだと納得させられる。


桂枝雀


立川談春



家で「落語、落語」と母のように騒いでいると、先日夫になったKが「じゃあタイガー&ドラゴン見よう」と言ってきた。

「タイガー&ドラゴン」は宮藤官九郎脚本の2005年のドラマでやくざが落語家になる話を描いている。

一話ごとに有名な落語の演目をテーマとしており、ドラマのストーリーが落語のように進んでいく。

主人公の小虎が現実に起きたことを落語にして高座(寄席の舞台)でお客さんに聞かせ、最後きれいにさげ(落語のおち)る。

これもまたなかなか面白い。

「芝浜」からはじまり「饅頭怖い」「茶の湯」とんで「子は鎹(かすがい)」と締まる。





落語には古典落語と新作落語があり、その名の通り古典落語は昔から伝わる話、新作落語は新しく作った話だ。

最初は噺家にこだわらず、古典を軸に聞きまくろうと思っている。

「死神」「居残り佐平次」「野ざらし」「品川心中」「芝浜」とアニメの知識に加えて、

「紺屋高尾」「文七元結」と両親に勧められた話もいくつか、

さらには「タイガー&ドラゴン」に出てきたもろもろ、これを手札にじわじわ攻めている最中。



今まで気にしたこともなかったけど、TSUTAYAのレンタルCDコーナーに落語のCDがたくさん並んでいて驚いた。

しかも結構借りに出されているもんだから、知らないところで聞いている人はいるんだなと感心した次第。

早速好きな演目かつ聞きやすそうな人を選んで15枚借りてきた。

一話に1時間かかるものがあったりして、CD1枚に物語一つしか入っていないものもある、そういう発見の一つ一つが面白い。

実家から帰ってきて約一週間、作業中はずっと落語を聞いている。

これがおなじ話を何回聞いても飽きないんだから不思議な世界だ。



こんなに素直に落語が入ってきたのは、もともとが江戸時代ファンというのもあるかもしれない。

小説や映画、ドラマに漫画と媒体に拘らずとにかく一定期間江戸時代に触れていないと、禁断症状のようにその片鱗を探してしまう。

厳密には「江戸時代らしきそれら」という曖昧模糊な偶像を追いかけているわけだが、

そういう意味では落語という媒体は他のもに比べ江戸時代に強く結びついているような気もする。

言葉で伝わってきた分説得力があり、落語という綱を引っ張ればいつか江戸時代にたどり着きそうな妄想を起こさせる。



いやぁ面白い。

すぐそばにこんな面白い世界が潜んでいたなんて。

新しいことに出会うと、いつもそのことに驚く。

「落語」と聞いて構えるなかれ、いつでもそれはそこで待っている。
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頭を冷やす

2017年03月16日 | 日記
「あれさえ手に入れば平穏な日々が送れるというのに」

という”あれ”があったとして、

いったい私たちはどこまで求めるのだろうね。



もし”あれ”が手に入って一過性の平穏を手に入れたとして、

はたして満足するのかね。



「人生は苦しいものだ」という言葉が蔓延しているけど、

自分にその苦難が降り掛かった時、

その苦しさを認めることができるだろうか。



「人生は苦しいものだ」なんて簡単に言うけど、

その深みに自分が陥るなんて考えもしない。



突如現れた苦難に「自分だけがなぜ」と頭を抱えるけど、

いつかその苦しみを受け入れることができるだろうか。



言葉の先駆者たちが数多の教訓を産み落とし、

それを目の端において足下に続く道をひたすら歩いていく。



「月に叢雲、花に風」っていう好きなことわざがあるけど、

さんまさんの「生きているだけで丸儲け」なんていうのもいいかもしれない。



人と比べなければ案外十分な気もして、

他人の幸福も苦しみも知ることはできないけど、

自分にはそれほどの苦行が強いられていないことに気づく。



未来も過去も幻想のようなもので、

自分には今この瞬間しかないのだと頭を冷やす。

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<Airbnb>新しい宿泊のカタチ

2017年03月14日 | 日記
つい先日、とある用事で群馬県に行ってきました。
2泊3日の短い滞在でしたが、なかなか面白い体験ができました。



私はホテルに泊まるのがとにかく嫌いです。
ホテルに泊まっているとせせこましい気持ちになり、旅を楽しんでいてもそれすらしぼんでしまうのです。
要は無機質で清潔で狭いあの部屋が性に合わないという訳です。
旅館は好きですが値段が高いうえにどこにでもあるわけではありません。

といいつつ私は遠出をするとき大抵知り合いの家を訪ねて行くので、人の家に泊めてもらうことが多いです。
しかし、諸事情でそれが難しい場合も多々あります。

そんなときの救世主が「Airbnb(エアビーアンドビー)」です。
今回初めて利用しましたが、とても良かったです。




Airbnb(エアビーアンドビー)について




Airbnb(「エアビーアンドビー」2008年8月創業、本社・カリフォルニア州サンフランシスコ)は、
世界中のユニークな宿泊施設をネットや携帯やタブレットで掲載・発見・予約できる信頼性の高いコミュニティー・マーケットプレイスです。

公式ホームページより)

これだと説明不足なので簡単に補足すると、

Airbnbとは『空いてる部屋や家を貸したい人』と『借りたい人』とのマッチングサイトで、
今人気のシェアリングエコノミーサービスの1つです。
昨今、環境問題や、人々の所得が低下していく中で、
『所有するものを減らし、人々とシェア(共有)する』というシェアリングエコノミーといった考えが広まってます。
現在車や駐車場、服に家具まで、ありとあらゆる無駄なものは買わずに全員でシェアしようという考えが広まってます。
その家(部屋)版がAirbnbになります!
『使ってない家や部屋があるなら、それを必要としてる人に貸そう!』これがAirbnbの生まれた概念です。

エアログ(分かりやすかったブログ)より)



つまり、泊まる側の話をすればホテルや旅館などの宿泊施設ではなく、一般人が貸している部屋に泊まることができるシステムです。
貸し出されている部屋も、お城やログハウス、船室(主に海外)など多種多様。
もちろん普通の部屋もたくさんあるので、旅先で気に入った部屋を借りて悠々自適に滞在ライフを楽しめる画期的な宿泊手段といえましょう。



Airbnbのいいところ(エアログ参照)

①値段が安い
まず驚くのはその宿泊料金。
もちろん泊まる部屋で値段は変わりますが、宿泊施設を利用した際の宿泊料金を考えると圧倒的に安いです。
今回の宿泊料金一泊なんと2900円。


②自炊ができる
今回泊まったところも立派なキッチンが備え付けてあり、塩や砂糖など必要最低限の調味料が揃っていました。
今回はその家にほとんどいなかったので料理はしませんでしたが、みんなで泊まってパーティーなどもできそうです。
旅先じゃなくても、普段から何か有効利用出来そうですね。


③その国の暮らしをそのまま体験できる
Airbnbのコンセプトは「暮らすように旅をする」だそうで、ホテルに泊まるよりその国を知れそうな予感。
海外旅行した際には是非利用したいですね。


④広い部屋に泊まれる/大人数で泊まれる
ホテル嫌いの一番の理由はあの狭さです。
暗くて狭くて本当苦手。
しかし、Airbnbは部屋を選べるので広い部屋でも格安で泊まれます。

また大人数で泊まろうとした場合、ホテルだと何部屋もとらなければいけませんが、
Airbnbの場合いっそのこと一軒家を借りちゃえばいいんです。
今回6人での宿泊で一軒家を借りてみましたが、かなり快適でした。
部屋は6部屋くらいあって、フローリングのリビングと畳の居間まであって6人でも有り余る広さでした。


と、いくつかいいところを挙げてみましたが、私が経験不足なだけで探せばもっとありそう。



実際に利用してみて

今回は群馬県にある一軒家を6人で借りました。
宿泊料金はひとり2900円です。

夜9時頃到着!


玄関もいい感じで期待が高まります。


手作り感がいいですね。


リビングルーム!
冷暖房完備でさらにこたつやヒーターまであり、至れり尽くせりでした。


ちょっとした飾り付けもありました。
つくりものだったけど、自分で作ったのかな?


ルールが書かれた紙。
日本語と英語で説明されているので、海外の人も気軽に泊まれますね。



お風呂や奇麗な洗面台、洗濯機などもありました。
さらに、トイレが一階と二階に1つずつ付いています。

もちろんWi-Fiも使えるので、ネットも快適に利用出来ました。



夜はみんなでこたつに入り、深夜までウノ大会で大いに盛り上がりました。
本当にいい時間を過ごせました。

よくAirbnbを利用するK氏によれば、今まで泊まった部屋で1番奇麗だったそうで、
まぁ民泊なので多少の当たり外れはあるのでしょう。
1つ注意点があるとすれば、潔癖性の人は苦手かもしれません。
既存の宿泊施設のように専門の人ではなく、一般人が管理しているわけですから。



まとめ

遠出をする際安い宿を探すくらいなら、Airbnbを利用することを強くお勧めします。
もちろん古い旅館など他では得難い魅力ある宿は例外ですが。

まさに安くて広くて楽しめる新しい宿泊のカタチ!
所有じゃなくシェアの時代になってきてるのかもしれませんね。
私は借りる側につきますが、空いた家、部屋があるという人も貸す側で参加してみては?

私も今回初めて利用したので、もっといろいろ試してみたいです。
ちなみに登録にはパスポートが必要ですので、予め用意しといてください。
このためにパスポートをとってもすぐに元とれそうですね。



では是非試してみてください。
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侵略

2017年03月01日 | 日記
二度寝の折、とてつもなく怖い夢を見た。

夢だからオチも何もないけれど、あまりに鮮明に覚えているのでここに残しておく。



侵略

私は実家に帰省していたようで、その日は寺の庭でゴロゴロしていた。

周りには幼なじみやら、知らない家の子どもらがいてかなり賑やかな感じだった。

建物の中では親たちや大勢のお客さんがわやわやしていて活気がある懐かしい風景だ。

ゆったりとした時間の中で異常なまでに皆穏やかであった。



ぽかぽか陽気の昼下がり皆が昼寝や雑談に興じている頃、

向かいの山の峰に沿って空が少しずつ赤く染まりはじめた。

その赤色が大分広がり誰かがその異変に気づくと、大声で家の中に非難するように呼びかけた。

誰もがその異様な空を見て、何か危機的状況が迫っていることを感じてとった。

外にいた者は大急ぎで建物の中に入り、大勢の人が寺の庫裏で身を潜めた。

誰がいて誰がいないのかも把握出来ないほど皆混乱していた。



しばらく大人たちは身動きもとらず状況を見守っていた。

すると向かいの赤い峰はそのままに空全体がどんどん暗くなっていった。

こんなときでも小さな子どもたちは楽しそうで、窓の外を眺めてはきゃっきゃしていた。



しかし空から無数の光線が地上に降りそそいだときはさすがに皆絶句した。

この事態が「宇宙からの侵略」であるということが判明したのだ。

その後も絶え間なく光線や炎に包まれた隕石が入り乱れるように地上を襲い、

皆もうダメだと子どもを抱き寄せ近くの者同士で身を寄せ合い祈るように目をつむった。



現実的な時間の経過はわからないけど、

しばらくすると(1時間かもしれないし、一日かもしれない)外で響いていた轟音が鳴り止んだ。

するとそこにいた子どもが「ひこうき」「ひこうき」と窓の外を指差した。

それに釣られて窓際に行き外を見てみると、

山の木が焼き尽され、その向こうの空が宇宙空間のように暗くずっしりと佇んでいた。

半壊した飛行機の群れが宙に放り出されて浮いており、飛散した地上の塵が舞っていた。

理解が追いつかなかった。



それでもそれまでなぜか寺の庫裏に被害はなく、

私の中にもしかしたら助かるのではという淡い期待が芽生えていた。



しかし危機とは唐突に訪れるもののようで、

金色に燃え上がった隕石が庫裏に向かって飛んできたときは力のある限り走るしかなかった。

近くにいた幼なじみのFちゃん(なぜか子どもの姿)の手を引き、

もう一人小さな子どもを抱えとにかく死にものぐるいで走った。

走っているときは「生きたい」とか「死にたくない」とか考える余地もなく頭の中は真っ白だった。

どちらかというとただただ「怖い・恐しい」というお腹にくる感情に支配されていたのだと思う。



それから寺の離れに着いた。

実際の庫裏からの距離は数十メートルだけど、夢の中では1キロくらいは走ったと思う。

まだそこに火は飛んでなかった。

辺りも静かで先ほどとは別世界だった。

そこにどこの子かもわからない一人の少年がいたけど、

その子がなんだったのかは最後までわからなかった。



息も絶え絶えにぽつぽつと難から逃れた人たちが離れに入ってきた。

つかの間の休息という感じだ。



もしこれが宇宙レベルの「災害」であったなら、助かる余地もあったはずだ。

でもこれは「侵略」、きっと全てが破壊し尽くされるまで終わらない。



真っ赤な向いの山の峰を緑色の輪郭が覆いやがて下の方に広がり近づいてくると、

身の毛がよだつ程の恐怖心に襲われた。

近づいてくる緑のそれは宇宙人の軍隊だった。

まさに「数十万の大群」という表現にふさわしい迫力だった。

無数の旗をはためかせ、屈強な鎧を身にまとい、隊列を崩さず山を下りてくる緑の軍隊。

「宇宙人」と言うにはあまりにも人間に寄り添った容姿で変な感じだった。

どちらかというと『ロード・オブ・ザ・リング』に出てくるオークのような見た目だ。



彼らは生き残っていたわずかな者たちすら見逃すつもりはないらしく、私たちの方に進軍してきた。

離れにいた人たちは逃げ惑った。

私もFちゃんともう一人の子どもの手を引いて、死にものぐるいで反対側の山へ走った。

後ろでは何かが爆発したり、他の人が襲われたりしていたのだと思うけど、

振り返る余裕などなく実際に何が起きているのかは分からなかった。

とにかく無我夢中で走った。

気づいた時にはFちゃんも、もう一人の子もいなかった。



私は山の麓にたどり着き、近くあった大きな木造の納屋(実際はない)に逃げ込み、

必死の思いで天井裏に隠れた。

人が横になって丁度人一人入れる程度の狭いスペースだ。

動機が激しく呼吸も乱れていたが、一生懸命息を潜めた。

なぜか外が見えていたのだけど、今思えば夢独特の俯瞰した視点だったのかな。



宇宙人の軍隊は目の先まで迫ってきていた。

納屋の前の広場で隊列を組み直し、陣を敷いているようだった。

しばらくして軍の真ん中に道が開き騎馬の小隊が入ってきた。

他の者たちに比べ派手な鎧を装着している。

どうやらお偉方のようだ。

そしてその中に白衣を着た一人の日本人男性がいた。

眼鏡をかけ耳にかかるくらいの長さの黒髪で歳は多分40前後。

もう一人秘書みたいな髪の長い女の人もいたけどそれはよく覚えていない。



群衆が生み出す地鳴りのようなざわめきの中から、博士らしき日本人と宇宙人の会話が聞こえた。

「どうやら電気で溶けると融合するらしいです。」


ロード・オブ・ザ・リング



ここで目が覚めた。

布団の中で15分くらいか、鼓動が激しく脈打ったままだった。

意味の分からない言葉が頭の中でやまびこみたいに呼応していた。

「デンキ…トケル…ウチュウジン」



こんな夢を見たのは、トイレに長い間星新一の『ようこそ地球さん』が置いてあるせいかもしれない。

あるいは漫画『ガンツ』や『キングダム』の影響か。

はたまた最近NASAが発表した恒星「トラピスト1」の話によるかもしれない。

なんにしろ宇宙人だが、想像しうる以上のヴィジュアルは夢では見れないらしい。



夢でも現実でもここまで恐怖したのは何年ぶりだろう。

とにかく恐い夢はもうたくさん。

よくわからんけど、無性に『ロード・オブ・ザ・リング』を観たくなった。
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<T2 Trainspotting>4月8日公開!

2017年02月21日 | 映画
T2 Trainspotting Official Trailer – At Cinemas January 27






『T2 Trainspotting』
監督:ダニー・ボイル
脚本:ジョン・ホッジ
原作:アーヴィン・ウェルシュ
音楽:リック・スミス
主演:ユアン・マクレガー
国:イギリス
公開年:2017



言わずと知れたダニー・ボイルの名作『トレインスポッティング(1996)』ですが、ついに続編が4月に公開されます。
初めその話を聞いたときは、続編なんていらないでしょうという気分でした。
なんたってあの映画はあれで完成しているわけで、変に付け足して汚してほしくないのです。

しかし、製作陣、俳優陣がそのまま引き継がれ、あの物語の20年後をそのまま見せてくれるというのだから、つまらない訳がない。
前作と比べずにただ彼らのその後を楽しみたいというファン冥利に尽きますね。

なんやかんや言いつつも、このトレーラーを見たら理屈抜きにわくわくしてしまいます。
レントン(ユアン・マクレガー)がバーの扉を開けると、そこにはビリアードをしているシック・ボーイ(ジョニー・リー・ミラー)が!
『トレインスポッティング』のラストを思うとこの最初のシーン(多分)は感慨深いものがあります。

続編についていろいろ書いてあるホームページがあったので載せておきます。
「映画『T2 トレインスポッティング』について現在までに明らかになっていること」
(観るまであまり知りたくないので全部は読んでいませんが)

続編を見る前に前作を少しおさらいしようと思います。
以下ネタバレあります。



トレインスポッティングについて
大きく「スタイリッシュな映画」と評される分野において、誰もが賞賛するのが『トレインスポッティング』ではないでしょうか。
脚本、音楽、演出、映像、テンポ、どれをとってもかっこいい。
物語の舞台はスコットランド、ある若者たちの退廃的な日常を描いています。
イギリス人監督が描くドラッグ、セックス、暴力の世界は、ハリウッドで量産されるそれとは一味も二味も違います。(もちろんアメリカ映画にはアメリカ映画の良さがあるけど)

不衛生で不健康で不健全な現実では目も当てられないような若者の日常が登場人物の主観で描かれているおかげで、時にドラマチックに、時にアイロニックに、時に叙情的に観ることができます。



キャラクター


個性豊かな仲間(?)たちも魅力的です。
写真右から重度のドラッグ中毒者で主役のレントン、
間抜けでダサいがどこか憎めないドラッグ中毒者スパッド(ユエン・ブレムナー)、
007オタクでぽん引きのドラッグ中毒者シック・ボーイ、
クラブで出会った黒髪美女のダイアン(ケリー・マクドナルド)
喧嘩中毒でことあるごとに暴力を振るうベグビー(ロバート・カーライル)、
写真にはいないけどイギー・ポップが好きでセックスしか能のないトミー(ケヴィン・マクキッド)。

薬から逃れどうにかしてまともな生活を送ろうとすると突如現れるこのやばい仲間たち。



音楽


物語の冒頭部、この写真を見るだけでイギー・ポップの「Lust For Life」が聞こえてきそうです。

トレインスポッティングで特質すべきはなんといっても音楽です。
物語は90年代後半に突入しようかという頃、主人公たちは急速に流れて行く時代の変化にさらされます。

高校生であるダイアンとレントンとのジェネレーションギャップを浮き彫りにする会話があります。
「老けちゃうわよ。
 世の中も音楽もドラッグも変化しているのにジギー・ポップに憧れて家にこもるなんて。」
「イギーだ。」
「どうせ死んだ人よ。」
「生きてる。去年もツアーをやってた。」

そんな置いてけぼりの主人公たちを励ますかのように、イギー・ポップ、ルー・リードの名曲が流れる一方で、ブラーやニューオーダーやアンダーワールドのような当時最先端のエレクトリック音楽も多く起用されています。
そこにすら物語性を感じるのは観る者のエゴかもしれませんが。

トレインスポッティングのサントラはおすすめです。
この映画を見なければ出会わなかった曲も多かったでしょう。
それくらい見た当時の私には影響力のある映画でした。

続編ではどんな音楽が使われるのか、非常に楽しみです。
ちなみにトレーラーに使われている2曲目はWolf Aliceの『Silk』です。


アメリカでは既に公開されており、ちらほら評判が耳に入ってきていますがどうやら面白いらしいとのこと。
トレーターを観る限り、前作を観てない人、忘れた人はまず『トレインスポッティング』を観てから、映画館に行った方が良さそうです。
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風が連れてきた大きな生き物

2017年02月17日 | 日記
春一番が吹いた。

立て付けの悪い家の窓が、がたがたと音を立てている。

外からはびゅうびゅうと風の音も聞こえてくる。

強風は、得体の知れない何かをこの地へ連れてきた。

大きな龍か、大きな獣か、それはきっと季節を運ぶ役目をする。



見たことがないものを信じるかという質問がある。



例えば、中学1年生の頃友達に幽霊の話をしたことがあった。

彼女は「幽霊は人間が考えだしたものだからいない」と断言した。

当時はなんて頭がいい子なんだろうと感心したものだ。



高校生の頃数学の先生に幽霊の有無を問うたことがあった。

先生は「科学で証明出来ないものは信じない」と断言した。

そのときは、なんて現実的な考え方だろうと思った。



頭の良さそうな人たちの言葉はそれだけで説得力がある。

そして現実的なものの見方が格好いいと思った私は、

「見たことがないものは信じない」と豪語するようになった。



しかし私は「信じる」という言葉の意味を見誤っていたようだ。

「信じる」という言葉にはそもそも断言が通用しない。

「信じる」という方面を見渡すと視界の中には同時に「信じない」も存在し、

「信じない」という方面も同様に「信じる」がすぐ近くにある。

どちらが大きいのかという程度の尺でしか計れない。

あるいは自分の願望が反映されているのかもしれない。



例えば一組の夫婦があったとして、

夫に対して「あなたを信じる」と言う妻がいたとする。

これは信じていないからこそ念を押す場合に持ちいられる常套手段だ。

あるいは信じたいという願望か。



つい百数十年前までは当たり前のように見えない存在と共に生きていたというのに、

すこし科学技術が発達したからといって人間様々になるのもなんだかな。



妖怪博士の荒俣宏さんは人魚の有無について、

「人間が信じた時点で人魚は存在する」と言っていた。

偉そうだが、それを聞いてなんとなくこの人は信用出来る人だと思った。



ポピュラーだからか幽霊の話が多くなってしまったけど、

妖怪とか、精霊とか、おとぎ話に出てくる不思議な生き物とか、

漫画『蟲師』に出てくる蟲とか、小説『鹿男あおによし』に出てくる大ナマズとか、

迷信めいた曖昧な存在がどこかしらに潜んでいるというのは悪くない。

どこかに人間の手が及ばない尊い領域があることを信じたい。





余談だけど、同居人Kは幽霊が大嫌いだ。

トラウマでもあるのか、必要以上に怖がる節がある。

Kが寝ている時に起こさないよう暗い部屋でごそごそ動いたりすると、

寝ぼけたKがそれに気づき「うわぁーーー!」と叫びだす。

これがしつこくて敵わない。

「私ですよ。たんぽぽですよ。」と言っても声は届かず、

しばらくわーわーと勝手に恐れおののいてるもんだから次第に腹が立ってくる始末。

友達に話すと大げさなという感じだったが彼女が泊まりにきたときも発動し、

実際の姿を目の当たりにしてその子もかなり驚いていた。

いったい何がそんなに怖いんだか。

それ以後は笑いのネタになっている。
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