ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑦ 5日目(後編)=とことん過酷な博物館巡り(涙)

2016-05-02 20:47:25 | 韓国旅行の記録
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録① 1~2日目=国立外交院、徳寿宮周辺等
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録② 3日目=「あの」島と、仁寺洞の有名なマッコリ酒場
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録③ 4日目(前半)=ソウル大学校を散策(?)
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録④ 4日目(後半)=広大なソウル顕忠院を散策(??)
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑤ 5日目(前編)=釜山の40階段がこんなに短い階段だったとは!
 → 韓国オタク、7泊8日のクイズ形式旅行記録⑥ 5日目(中編)=偶然目にした韓国独自の球技の名は?

 行く先々での見落とし・見過ごし・見逃しが何度あったことか。すべて後の祭り。今回の記事もまた同様です。やれやれ。

○3月29日(火) 午後1時30分~

 昼食をはさんで、臨時首都記念館の次にY氏と私ヌルボが向かったのは朝鮮通信使歴史館。地下鉄でトソン(土城)駅からチャチョン(佐川)駅へ。と、ここからしてすでに間違い。朝鮮通信使歴史館については、→公式サイト(日本語)をはじめ、→プサンナビや→トラベルJPといった懇切な記事がありますが、どれも最寄駅はポミル(凡一)駅となっています。佐川駅からは直線距離は同じようなものの、線路を跨ぐ道路(子城路.チャソンノ)に上がったり、歩道橋を渡ったりしなければなりません。その間違いのモトはN氏が持参していた「地球の歩き方」。佐川駅周辺と凡一駅周辺の地図が別々になっていて、朝鮮通信使歴史館は前者にしか載っていないのです。またその間違いに気づかないまま「地元の人はどうしてるんかな?」とチラとは考えたものの、帰途も同じ佐川駅に行ってしまったのが間違いその2でした。凡一駅だったら階段を上り下りすることはなかったし、凡一駅方面の市場や店等も見られたのに・・・

     
  自らの間違いにも気づかないままたどりついた釜山鎮支城(子城台.チャソンデ)西門(左)と、釜山鎮支城の案内図(右)。
 間違いその3は、案内図右下の=西門から右上の=朝鮮通信使歴史館まで最短距離を歩き、帰りはまた同じ道を戻ったこと。つまり子城台公園の内部は行かなかった!のです。私ヌルボ、1992年に1度来たことはありますが、当時は歴史館はなく、現在は当然ようすが変わっているはずなのですが・・・。
 子城台は、文禄の役(壬辰倭乱)で日本軍が釜山鎮を陥落させた後の1593年に、毛利輝元がその東南側に支城として築いた城です。[問1] この地の戦いで指揮を執った武将の名は? 加藤清正と先鋒を争い、平壌まで攻略したキリシタン大名で、ジュリアおたあを連れ帰った人物でもあります。 [答]→小西行長
 ※たまたま最近読んだ卞宰洙(ピョン・ジェス)「朝鮮半島と日本の詩人たち」(スぺース伽耶)という本に鈴木比佐雄という詩人の「子城台の春」という詩が載っていました。その全文は→コチラ参照。

     
 西門から歴史館に行く途中に展示されていた1905年の子城台の写真。説明文によると、「1895年の乙未改革以降釜山鎮城は機能を失い、崩れ落ちた建物に代わって民家が城内に入ってきた姿が見られる」とのこと。民家の藁屋根の重なりが異様な感じです。ただ、→コチラの記事(日本語)には大勢の人々の姿が写っていて、「釜山鎮市場の賑わいが分かります」という説明がついています。当時の城の領域は現在よりずっと広く、現在の子城台公園はこの写真の奥の丘のあたりだけになっているので、手前の民家が密集している所は公園のずっと西側の釜山鎮市場一帯ということなのですね。
 画像上右は1876年当時の海岸線と子城台周辺の歴史遺跡地図。とくに注目は子城台の北の広大な黄土色の部分。1917~19年凡一洞一帯に建設が進められ、21年に操業を開始した朝鮮紡織の4万8千坪(約16万㎡)にも及ぶ敷地です。朝鮮内での木綿栽培・綿糸の生産と販売を行っていた三井系の大会社です。数千人もの女性労働者が働き、昭和前期には労働争議も起こったりしましたが、日本の敗戦後は韓国に引き継がれました。
 ※朝鮮紡織については→コチラの記事参照。
        
 1968年朝鮮紡織はなくなりました。しかし今も<朝紡路(조방로.チョバンノ)>という道路名が残っています。上左の画像の地図中赤い線で示した道がその朝紡路で、昔の朝鮮紡織の敷地を斜めに貫いています。(緑のは子城台公園。) 「ああ、それで」と後でナットクしたのが、この近辺(釜山鎮市場一帯)で衣料関係の店がたくさん目についたこと。上中の画像は衣料関係の露店。上右は、チマチョゴリの色合いが気に入ったので撮った結婚式用の貸衣装店のショーウィンドウです。
 ※釜山名物の1つナクチポックム(タコ炒め)の伝統店の店名にも「チョバン(조방)」の字が用いられたりしています。「元祖」の店も凡一洞にありす。(→コチラ参照。)

 うわ、まだ歴史館に到達していないのに、もう書き過ぎ! 後は駆け足で・・・。
     
 朝鮮通信使歴史館(上左)。こじんまりとした建物ですが、興味深い展示物がいろいろ。しかし、研究者N氏の言の通り江戸時代の通信使に限定されていること。15世紀前半(世宗の時)に始まる前史の部分は抜けているのはたしかに問題。日本で朝鮮通信使のことは知っている人でも、その多くは「江戸時代の・・・」と思っているのではないでしょうか?
 上右は、朝鮮内の通信使の経路。漢陽→忠州→( X )→安東→永川→密陽→釜山[問2] ( X )に入る地名は? 鳥嶺(새재.セジェ)という険しい峠がある要害の地で、ソウルと釜山を結ぶ直線のほぼ真ん中(少しソウル寄り?)に位置する都市です。 [答]→聞慶(ムンギョン) →コチラの記事参照。私ヌルボも3年前に行ったことがあります。
 次に日本に着いてからの通信使一行を描いた絵を2つ。
 「朝鮮通信使御座根船図屏風」。大坂に着いた通信使一行は、幕府が用意した川御座船に乗り換えて淀川を上ります。
 朝鮮人街道を行く朝鮮通信使一行。将軍専用の道とされ、参勤交代での大名の使用も認められていなかった道でしたが、将軍以外では朝鮮通信使だけが通行を認められていたため、「朝鮮人街道」と通称されるようになった道です。[問3] この朝鮮人街道は何県にある? [答]→滋賀県 この絵図は円山応雲が描いた琵琶湖図」(1824)。場所は現在の大津市石場付近とのことです。

     
 朝鮮通信使の一行の中で、日本人たちの間でとくに人気があったのが馬上で逆立ちをしたり横になったまま早駆けしたりといった曲乗りをする( Y )で、それを行う人を( Y )人といいました。上左はそれを描いた絵で、右は金属製の像です。[問4] ( Y )にあてはまる言葉は? ヒント:「馬上〇」。〇は漢字1文字です。 [答]→馬上才 そういえば、以前紹介した辻原登「韃靼の馬」(→コチラ参照)にも出てきましたね。

 朝鮮通信使歴史館の次は、・・・え、また博物館だって!?
     
 釜山博物館は、地下鉄テヨン(大淵)駅から歩いて10数分。着いた時刻が午後4時10分前。もう十分に疲れています。
 展示は先史時代から現代まで。その他民俗関係等々の展示室もあります。おおよその紹介は→プサンナビに任せます。

     
 展示物の中でちょっと気になったのが上画像のタル(仮面)タルチュム(仮面舞)で用いられるものですが、この顔に斑点のあるものはムンドゥンイの面。右の画像にあるようにハンセン病者です。彼らを芸能の中で取り上げる問題については→過去記事で書いたことがありますが、韓国では現在でもとくに問題とはされないのでしょうか?(こうした展示も含めて。)

     
 近代に入ると、私ヌルボの興味・関心を引く展示物がいっぱい! 「日帝強占期の教科書」(左)は、上左の「帝国讀本」等々読んでみたい・・・って、あ、「日本教科書大系」に入ってますね。(と、今ちょっと読んでみました。(at 図書館。内容はいずれ。) 上右は「사정한 조선어 표준말 모음(査定した朝鮮語標準語集)」というハングルの正書法のテキストです。右画像は1920年代の釜山駅の模型です。 

        
 なんといっても、ヌルボの大きな関心事は映画関係。上右の国境」(1939)崔寅奎(チェ・インギュ)監督の監督デビュー作。左のソンファンダン」(1939)と右の巨鯨伝」(1944)という方漢駿監督の2作品については、今→ウィキペディアて初めて見ました。
     
 左は李銘牛監督「洪吉童伝」(1936)洪吐無監督薔花紅蓮伝」(1936)のポスター。右は「洪吉童伝」の撮影風景です。
 [問5] 「薔花紅蓮伝」の原作は薔花(チャンファ)と紅蓮(ホンニョン)の姉妹と継母の間の葛藤を描いた朝鮮の伝承物語です。これを現代に翻案してイム・スジョンムン・グニョンが姉妹を演じた2003年公開の韓国映画のタイトルは? [答]→「箪笥」 オタクっぽい問題だなー。
    
 左は1930年代初めの映画「守一(スイル)と順愛(スネ)」の一場面。右は映画ではなくて、有名な舞踊家崔承喜(チェ・スンヒ)の公演のポスターです。
 [問6] 「守一と順愛」は、大変有名な日本の演劇を翻案したもので、韓国でも韓国併合直後の頃から現代まで演劇・映画で親しまれてきました。では元になった日本の演劇作品のタイルは? [答]→「金色夜叉」 →コチラの過去記事参照。これまたオタクっぽい問題です。

 この日も重いバッグを持ってあちこち歩き回り、疲れました。ところが翌日も翌々日も朝早く起きてスケジュールぎっしりの1日になるのです。しかも、その2日間が今回の旅行のメインとは・・・。ここまでの5日間だけでも十分すぎるほど過酷だっのに・・・。

 ふー、やっと3月29日の分がおしまい。今回の記事を仕上げるのもけっこう過酷でした。(涙笑)

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