濁泥水の岡目八目

中国史、世界史、政治風刺その他イラストと音楽

法印大五郎は真面目な堅気だった 3、なぜ博徒から堅気に戻ったのか

2017-03-23 14:34:07 | 歴史談話

 

 3、なぜ博徒から堅気に戻ったのか

 大五朗は清水次郎長の子分になれたが、最初から子分になれると思っていたのではないだろう。だからこそ冬でも温暖で野宿しても凍死せず、不審なよそ者にも寛容で日銭仕事にありつけそうな清水を選んだのである。次郎長に断られたら、日銭仕事で金を稼ぎ最低の木賃宿にでも潜り込むつもりだったのだろう。黒澤明の「どん底」の小屋は長屋というより、そういう木賃宿だろう。だから素性の分からない老巡礼でも泊まれるのである。小屋主は老巡礼に知り合いの岡っ引きに頼んで身分を探らせるぞと凄むが、小銭さえ払えば正体不明の者でも泊めていると認めたようなものである。そしてそこで生活する者もいるだろう。現在の簡易宿泊所も一晩でも泊まれるし、住み込む人々もいる。大五朗はそのような所で髷が結えるまで髪が伸びるのを待ったはずである。江戸時代は身分によって姿形が決められており、自分の好きな格好が自由に出来るわけではない。おかしな姿だと、役人に捕まる可能性もあったのである。だから髷を切られた者は、手拭などで頬かむりして隠さないと外出できなかったそうである。日銭仕事ぐらいなら雇ってもらえても、髷が無ければまともに暮らせないのである。

大五朗は幸運にも次郎長の子分になれたが、なった後でもひたすら髪を伸ばして髷を結おうとしたはずである。博徒が坊主頭となって得になることなど何も無い。僧侶に化けるのは違法だし目立つ。それ以外となれば「願人坊主」ぐらいしかない。僧侶ではなく物乞いして生活している最下層の人々である。江戸時代には物乞いも「権利」であり、本来は「」と呼ばれた人々しか許されなかったのである。彼らは人の嫌がる仕事を押し付けられる代わりに物乞いを許されていた。飢饉で難民となった地方の人々が江戸で勝手に物乞いをしていると、「野」と呼ばれて合法的に物乞いを許されていたたちの取り締まりを受けたそうである。ただ芸を見せる「乞胸」や宗教的な振る舞いをする「願人坊主」などは、でなくても物乞いを許されていたのである。しかし身分は最低であり、同様に差別されていた。願人坊主ならみすぼらしい格好でも自由に歩けたかもしれないが、誰からも相手にされなかったからである。髷を結えば人並みに扱われる大五朗が、坊主頭を続けてそんな身分だと人々に思われる必要など何もない。それに次郎長も子分がそんな格好をするのを許すはずがない。大五朗が「法印」と呼ばれたのは、次郎長一家を訪ねた時に願人坊主に間違われた為だと思われる。坊主頭で風呂にも入れず埃まみれの大男が、博徒の仕来たりどうりに仁義を切っても子分たちが相手にするはずもない。「乞食坊主はとっとと失せろ。」と揉めているのを聞きつけた次郎長が出てきて、大五朗に会って話を聞いてくれたので子分になれたはずである。ただその時の印象があまりにも強烈だったので、次郎長一家の中では「法印大五朗」と呼ばれるようになってしまった。髷を結い他の博徒と同じ格好をしていても「法印」という渾名はこびりついて取れなくなったのである。

裏社会の渾名は下っ端のころ付けられるものである。竹居の吃安も博徒として新入りの頃に付けられた渾名である。吃音の人が吃安などと呼ばれて嬉しいはずがない。しかし「おい吃安。」と呼ばれて黙っていると「返事をしろ!この野郎。」と叱られるので、嫌々ながらでも親分や兄貴分たちに「はい。」と返事をしているうちに、他の博徒一家や堅気の人々からも「あの男の名前は吃安だ。」と思われて呼ばれるようになってしまうのである。もちろん博徒として地位を上げれば「吃安さん。」と呼ばれたら「誰が吃安だ!」と相手を睨みつけただろう。相手はあわてて「すみません安五郎さん。」と詫びを入れて、面と向かっては吃安と呼ばなくなったはずである。しかし裏では「吃安の奴も偉くなったもんだぜ。」と言われ続けていただろう。そして親分になっても渾名は残り、とうとう死んでからも残ってしまったのである。大五朗も坊主頭で清水次郎長一家に現れたために「法印大五朗」と呼ばれてしまった。しかしその渾名が勝手に一人歩きして、全くの別人として次郎長物語の世界で暴れだすなど本人のあずかり知らぬことだったろう。その渾名の印象があまりに強いので山伏姿だったと言われたり、甲州侠客伝でも坊主頭を誤魔化すために僧服を身に着けたのだろうとある。しかし吃安一家を追い出された大五朗に、僧服や山伏の服を買う金などあるわけがない。どんなにボロボロの服でもタダでは手に入らない。服を探して見っとも無い格好で田舎をうろうろするより、賑わいのある清水の雑踏の中に潜り込もうと駆け出すのが自然の反応だろう。

こうして法印大五朗は1859年に次郎長の子分になったが、1866年の荒神山騒動以降には次郎長一家からその名が消える。そして1869年(明治2年)に故郷で角田甚左衛門として伊藤家の婿養子となり、伊藤甚左衛門となるのである。博徒から堅気への完全な転身である。3年の間に次郎長一家を抜けて足を洗い、故郷に帰っていたのである。次郎長物語では荒神山で死んだはずの法印大五郎が生きていたことを、甲州侠客伝でも取り上げてその理由を色々詮索している。私はその理由にあまり意味がないと思う。次郎長物語は「三国志演義」と同じく実名を使ったフィクションである。史実を正しく伝えるよりも客を喜ばせるのが目的なのである。一家から居なくなった者を喧嘩で死んだことにするくらいはやるだろう。とにかく法印大五郎は堅気に戻った。その理由を考えたい。

彼が堅気に戻った一番大きな理由は、故郷に帰れるようになったからだろう。彼は故郷の裏社会を牛耳る吃安一家を追放された男である。追放した奴を博徒が見つければ当然けじめをつける。下手をすれば命がない。帰りたくても帰れなかったのである。ところが彼が次郎長一家にいる間に状況が変わった。1861年に吃安が代官所に捕まり、翌年牢死する。黒駒の勝蔵が吃安一家を吸収して大勢力となり、清水次郎長や他の博徒と抗争を繰り返すが代官所の厳しい取締りにより1865年に甲州から逃亡する。そして1868年の正月に逃亡先で一家を解散して、その後に官軍に参加するのである。つまり1866年の荒神山騒動の後には吃安一家の残党はちりちりばらばらに成りだしていて、昔のことで大五朗に因縁を付ける博徒はいなくなったのだろう。たとえ昔を覚えている博徒がいても、殺人や抗争の繰り返された後ではそんな些細なことなどどうでもよくなっていたはずである。特に追放した吃安が死んで時間がたてばなおさらである。

大五朗は代官所に追われたことはないし、博徒になったことも知られていない。それに勘当もされていない。吃安一家に入った後で自分が罪人でないと気付いたからだろう、度々実家に顔を出している。それなのに家族は博徒になった大五朗を勘当しなかった。前にも述べたが、博徒になった者は勘当して人別帳から除いて家に迷惑がかからぬようにするのが普通であった。おそらく勘違いで博徒になってしまったが、真面目で働き者の息子を勘当するのが忍びなかったのだろう。大五朗が家で農業を手伝っていたというのは、馬方のはずの大五朗を見た人々から訊ねられた時の家族の言い訳だろう。実家に戻ってから博徒になったのではなく、博徒になってから実家に顔を出したのである。大五朗は博徒になっても身分は堅気のままだった。つまり大五朗は、足さえ洗えばいつでも故郷に帰って堅気に戻れる立場だったのである。しかも家族に迷惑をかけまいと博徒になった大五朗だったが、勘当されていない自分が博徒として捕まれば家族に大迷惑をかけてしまう。荒神山騒動に参加した時に真剣に悩んだのではないだろうか。それで次郎長に足を洗わせて下さいと頼んだのだろう。

 そして欠かせないのは、大五朗が根っからの堅気だったということである。15歳で草相撲の大関になっても、江戸へ出て関取になろうという夢を追いもしないし草相撲で食べようとも思わない。ましてや草相撲の大関から地元の博徒へなどという誘惑に目もくれなかった男である。商人になる為に過酷な馬方仕事で毎日汗水流しながら、こつこつと金を貯えていた堅実すぎるほど堅実な性格なのである。刹那的な博徒の暮らしが嫌になっても不思議ではない。甲州侠客伝では荒神山騒動に次郎長一家の者たちが参加したのは、賭場を開く為に出かけて行って巻き込まれてしまったのだろうとしている。「他人の縄張り争いに、命まで捨てる博徒があったとしたら、馬鹿か気違いで、頭立つ者のとる手段ではない。」そうである。しかし任侠とはそれが理想であり、史記に出てくる侠客のやってることは馬鹿か気違いとしか思えない。侠は狂であり、思い込んだら命がけなのである。孔子の愛した子路も侠であり、勝ち目の無い戦いに挑んで死んでいった。彼が冠の紐を結び直して切り刻まれたのは死を覚悟したからだろう。礼を重んじる孔子の弟子として正装して死にたかったのである。ほんの行きがかりで命を捨てる。それをかっこいいとするのが侠であり、侠を看板に掲げるのが博徒である。本音は損得でも命を捨てる覚悟があると自慢する連中ばかりだろう。大五朗はそういう博徒たちにほとほとうんざりしたのではないか。彼から見たら馬鹿か気違いである。だから次郎長に頼んで堅気にしてもらったのだろう。

 大五朗が次郎長の許可を得ずに一家から逃げたとは思えない。もしそうしたら、堅気になってもいつ昔の仲間が現れるかと怯えて暮らさねばならない。「よう、法印じゃねえか。堅気の旦那面して何してんだ。」と言われかねない。次郎長の許可を得ていれば「俺は清水の長五郎親分の許しを受けて堅気になったんだ。その俺に文句があるなら親分の所へ行って話しを付けよう。」と誰が来ても言い返せる。次郎長も大五朗の頼みを快く聞き入れたのだろう。親分として経験を積めば子分の向き不向きは分かるはずである。大五朗を「こいつは博徒には向かないなあ。」と思っていただろう。それに次郎長には堅気に対して劣等感がない。裕福な家に育ったのに、博打や喧嘩が好きで博徒の世界に飛び込んだようなものである。「お前だけ堅気になどするものか。」と足を引っ張るような妬みなどないだろう。「堅苦しいこせこせした堅気なんぞに戻りたかったら、好きにすればいいさ。」と許したのだろう。こうして大五朗は故郷に戻ると78歳で死ぬまで50年近くも真面目な堅気として生きたのである。20代の8年ほど博徒になったのは事実だが、残りの70年を真っ当に生きた男は真面目な堅気としか呼べないだろう。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿