だいずせんせいの持続性学入門

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風森まちの研究(4)クオリティ・オブ・デス

2007-06-04 12:34:57 | Weblog

 風森まちのお気楽日記では、ある老人の死を描いた。前の日まで元気でぽっくり死ぬという想定で、葬式ではまちのみんなから昔のエピソードが披露されたりして、みんなに祝福されて墓場へと運ばれる。墓場はまちが見下ろせる山の中腹で、そこに土葬されて土に返る。墓場が混んでくれば別の場所に移動する。元の場所は木々が生え森林となる。つまり別のいのちの糧となって「生まれ変わる」というわけだ。
 かつてのように経済成長することや所得を上げることが社会の目標にはなりえなくなった今日、クオリティ・オブ・ライフQOLを維持、向上することを新たな目標としよう、という話をよく聞く。もっともな考えと思うけれども、では、いったいそのようなクオリティとは何なのだろうか、またそれをどう測るのか、というと皆目見当がつかない。
 風森まちを書いていて気づいたのは、しあわせな死に方ができるかどうか、というのはクオリティ・オブ・ライフの重要な内容であり指標ではないか、ということだ。みんなに祝福されて死ねるのか、それとも悲惨な死に方をするのか。つまり、クオリティ・オブ・デスQODである。

 ぽっくり死ぬのが理想だと思う方も多いだろう。反対に認知症になってまわりの者に迷惑をかけて死ぬのはいやだと思うのが一般的だろう。私もそうだった。
 その認識が一変したのは、ボブ・プライス『痴呆の旅路』(株)ニコム2003年にであったからだ。著者はオーストラリアでながくアルツハイマー病の看護、介護とそのコンサルティングにあたっている認知症の専門家である。(株)ニコムは名古屋にある建築コンサルタント会社で、福祉施設や介護施設の設立、建物の設計施工、運営に関する総合的なコンサルティングを得意としている。ニコムでは定期的にボブ・プライス氏を日本によんで研修会を開催しており、この本はそのテキストである。
 『痴呆の旅路』には、認知症の基本的なとらえ方が整理されている。認知症は病気であり、しかも回復することはない。「戻ってこれない一方通行の旅路」である。その旅路では記憶・知的能力・人格が徐々に失われていく。そこには明確な法則性がある。「ラストイン・ファーストアウト」、つまり、最近身につけたものから失っていく、という法則だ。直近のできごとから忘れていく。しだいに過去の世界に生きるようになる。若い頃に身につけたスキルは長く維持される。そして知的にも身体的にも子どもに返っていく。いろいろな能力を失うとともに、自己中心的になり、まわりに依存する傾向が強くなる。これも子どもにもどっていくと思えばすんなりと理解できる。子どもの発達段階に応じた育児があるように、認知症の退行段階に応じた介護が必要とされる。
 そして最後には新生児のようになる。自分で起きあがることも食べることもできない。言葉はすべて失われる。そして、死にいたる。

 例えば、孫の存在を忘れた女性患者が、ストレスがかかって不安になり混乱すると、子どもが心配だ、すぐに迎えに帰らなければならない、と訴えるのは世界に共通する症状らしい。子どもが小さい頃のお母さんの時代にもどっているのだ。ある女性は混乱すると、戦争で死んだ弟をさがしてその名を呼び続けるという。自分が若い頃の世界に生きている。介護者が「弟さん、とてもお元気なようでよかったですね」と語りかけると安心して落ちつきをとりもどすという。
 周囲の者は、患者にはこのような内的世界があることをよく認識して介護にあたる必要がある。言葉はあてにならなくなる。気持ちをうまく言葉で表現できなくなるし、意味がちがっている言葉を使うことがあるからだ。しかしながら、知的能力が失われても感情は失われない。患者には確かな感情の流れがあり、介護者はそれを的確につかむ必要がある。それは"Listen to the music, not the words"、つまり、言葉でなくその人の心に流れている「音楽」を聴け、ということだ。オーストラリアの人々はなんて美しい表現ができるのだろうと思う。

 認知症になっても長い間保持される能力や技術もある。子どもの頃に身につけた着替えや洗顔などのスキルに加えて、興味を引く刺激に反応する能力、ユーモアに反応する能力、楽しむ能力がある。つまり適切な介護が行われるならば、という大前提のもとに、おだやかに、楽しみながら認知症の日々を過ごすことができる、ということだ。

 いったい私たちはどうやって死ぬのだろう。感染症による死は予防接種と抗生物質の登場によってほぼ克服された。心筋梗塞や脳梗塞などは生活習慣を整えることによって予防できる。医学・医療の進歩によってガンも回復可能な病気になった。今のところアルツハイマー病などによる認知症が不治の死へ至る病である。それ以外の死とすれば、交通事故、災害、そして自殺である。
 こう考えると、事故や災害、自殺で死ぬのはいやだとすれば、認知症というのがもっとも有力な死の「選択肢」に思われてくる。

 しあわせな死とはなんだろう。ひとつは死ぬ本人がその死を受け入れ、苦しまずに死ねるということだろう。ガンで死ぬのは苦しみ抜いて死ぬことになる。一方、認知症は、あくまで適切な介護が行われるならば、という前提のもとではあるが、苦しむことなく、むしろ楽しみながら、最期の時を迎えることができるほとんど唯一の死へのプロセスなのではないだろうか。
 しあわせな死のもうひとつの要素は、周囲の者がその死を受け入れ、お祝いをするようにして送り出してあげられるということだろう。これも、適切な社会的なサポートが行われるならば、という前提のもとではあるが、かなりの期間をかけてだんだんと子どもに返ってゆき、あかちゃんのようになってから死ぬというのは、周囲の者がその死を受け入れる準備としては案外悪くないかもしれない、と思う。
 つまり、認知症は本人にとっても周囲の者にとっても死を準備する大切な期間ととらえることができるのではなかろうか。
 まだ自分の病気のことを理解する力がある段階で、認知症の告知を受けたいものである。そうすれば「そろそろお迎えが来たか」と、心の準備ができるだろうし、周囲の者とともに適切な介護の体制を整えることができるだろう。あとは病気にまかせて、介護者にまかせて、お気楽な日々を過ごせばよい。悪くない死に方ではないか。

 ひるがえって、今日の私たちの社会で人々はどのように死んでいるか。認知症の患者のすべてが適切な介護を受けているとはいいがたい。むしろ体をベッドに縛り付けられたり虐待されたり、家族からは無視されたり、という悲惨なようすが目につく。また介護疲れによる無理心中などの悲惨な事例があとをたたない。交通事故や自殺による死はいちいちニュースにもならないぐらいありふれた死に方となった。クオリティ・オブ・デスQODに関する限り、その水準は相当低いと言わざるをえないのではなかろうか。しかも社会が豊かになるにつれてむしろその水準は低下したのではないだろうか。これを徹底的に向上させる努力をしたいものだ。
 そしてそれは社会全体のクオリティ・オブ・ライフQOLを向上させることにつながるだろう。『痴呆の旅路』には適切な介護を行うための介護者の資質やスキルについても詳しく解説されている。「非言語的メッセージを読みとれるかとれないか、流れている音楽が聞きとれるかとれなかが、介護者としての適性の判断基準になる」(p.80)。それが自然にできる人は「ナチュラル」と呼ばれて介護者としての適性があると判断される。訓練によってできるようになる人もおり「トレーナブル」と呼ばれる。そして、まったくこのようなことができない「アントレーナブル」と呼ばれる人も確実にいるという。
 「ナチュラル」な人は、きっと動物や草や木の声も聞き取ることができるのではなかろうか。このような人々が敬意の対象になり社会の中で活躍できることが、社会全体のQOLを高めることにつながるだろう。自分自身が「アントレーナブル」ではなくせめて「トレーナブル」であることを願いたい。
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生と死の連続性 (額田王)
2007-06-06 15:19:05
興味深くそして衝撃を覚えつつ、拝読いたしました。QOD…確かに取り組まねばならないトピックですよね。考えて見ますと、人間って、誕生の瞬間から「死に始めている」ともいえます。もちろん、どうせ死に向かっての旅だからどうでもいいさってことではありません。生と死は「きっぱり」と区切れているのではなく、連続したものだと捉えなおしてみることも大切かな、と。自然もヒトも、その営みも産物も「別もの」なんて、思ったより少ないかも知れませんね。国家も民族も、大人も子どもも、アナタもワタシも。
意識して人生を全うしたい (funabashi)
2007-06-07 16:56:06
認知症で死を迎えることに僕は耐えられないと考えています。
意識が退化して次第に子どもに還ることは人間として死を全うできないと考えます。
死が怖いだから意識が退化していくことの方が楽だという考えには僕はならないのです。
今考えてのことですが、その方が耐えられないと思います。認知症になってしまうことが怖いです。
僕はやはりPPK(ぴんぴんころり)の死が希望です。
昨日まで元気だったのに今朝、起きてこない。ベッドで冷たくなっていたという死が望みです。
THANKS! (daizusensei)
2007-06-08 09:56:19
死をすべての終了ととらえるととても恐ろしい。
でも死を長い物語の一こまととらえると恐ろしくなくなるのではないでしょうか。そう思うと、誕生も同じ長い物語の一こまに思えてきます。その長い物語がどういうものかについて、さまざまな宗教があります。
私の「宗教」は40億年の生命の進化の物語です。

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