だいずせんせいの持続性学入門

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風森まちの研究(3)イニシエーション

2007-05-15 08:30:52 | Weblog

 持続可能な未来の地域の日常を描いた空想小説「風森まちのお気楽日記」では、高校を卒業した娘が大人の仲間入りをするイニシエーションとして、家で大切に育てた家畜をとさつする場にたちあう、という物語がある。おや、と思われた方も多いだろう。

 動物を殺すということについて、町田宗鳳氏は『縄文からアイヌへ』(せりか書房2000年)の中で、アイヌのイオマンテを紹介しながらその宗教的な意味を深く追求している。イオマンテとは、集落で大切に育てた子熊を殺し、その肉を食べるという儀式である。それは、熊を儀礼をつくして神の世界に送り出すことによって、将来、熊が仲間をつれて再び獲物として集落に帰ってくることを期待する狩猟民族としての最も神聖な儀式である。
 氏は、その説明の中で、「史前の悲劇」と名付けられたラスコー洞窟の壁画についてのバタイユの解釈を紹介する。これは、槍で突き刺された野牛の傍らで、鳥の頭を持つ人間がペニスを勃起させて倒れているという不思議な絵である。バタイユは「その荒々しい力をもった動物が、まさに死にゆかんとする瞬間に、内奥の生命が露出し、それを目の当たりにしてしまった<供儀>執行者である狩人がエロティシズム的な恍惚感に圧倒されて失神している」と解釈した(p.52)。
 また、スペインの闘牛の例も紹介されている。闘牛とは、端的に言えば、闘牛士が一頭の牛を殺害する過程を観客にみせるショーである。その最後の一撃を加える時に、会場は「オーレオーレ」という叫び声とともに最高潮に達する。それは一種の宗教的な恍惚である。
 イオマンテでは子熊を殺すという残虐な行為の瞬間に、「『史前の悲劇』の中でペニスを直立させて倒れる旧石器人のように、アイヌはエロティシズムに通じる精神の高揚を覚えるのではなかろうか。その恐ろしくて、しかも魅惑的な<聖なるものの顕現>を、仲間たちだけで共有することによって、野生の狩人たる自分たちの強い連帯感を確認しあうのである」(p.65)。

 残虐な行為と性的な興奮は結びついている。おぞましいことに、アイヌや旧石器人の聖なる儀礼とは対極に、このことが端的に表れるのは戦争である。井上俊夫『初めて人を殺す-老日本兵の戦争論』(岩波現代文庫2005年)は、日中戦争中の日本陸軍の中で定期的に行われていたあるおぞましい「訓練」について目をそむけることなく紹介している。日本陸軍の初年兵は中国の兵営の中で厳しい訓練と古参兵によるいじめに耐えなくてはならない。その最後の総仕上げともいうべき「訓練」が、実際に人間を殺戮する「訓練」である。中国人の捕虜を兵営の手伝いなどで一定期間使役した後に、「訓練」のために初年兵に銃剣で殺害させるのである。
 著者はこの衝撃的な体験にずっとこだわりつづけて戦後を過ごし、そのような「訓練」が組織的に行われていた実態を明らかにした。その証言の中で、初年兵だけでなく、駐留軍の司令部内で、高官による捕虜の殺害が行われていたという。ある司令官は定期的に捕虜を軍刀で殺害し、その直後には、司令部内の部下を慰安所に行かせるとともに、自分は部下の兵隊を相手に性的虐待にふけったという。
 そのような「訓練」を経て一人前になった兵隊たちは、中国の各地の前線で非戦闘員の男性を虐殺しそして女性を凌辱した上で虐殺した。司令部はそれを止めることはなかった。軍隊をあげて残虐行為と性的興奮がおぞましく結びついた結果である。
 同じことは、ソ連軍が旧満州に侵攻した際に日本人移民に対して行われた。ベトナム戦争の時にはアメリカ兵がベトナム人に対して同じことをした。イラク戦争ではアメリカ軍の女性兵士がイラク人捕虜に対して性的虐待を行っていた。これらは祖国防衛の大義名分のたたない侵略の軍隊に共通してみられる現象のようである。

 残虐行為に対する暗い欲望は、しかし私たちとて人ごとではない。仮にテレビを一日見ているとすると、その間に私たちは何度も殺人現場に遭遇する。それはドラマであったりアニメであったり、さらにはニュースの中であったりする。
 闘牛では普通は牛が死ぬのであるが、観客の期待はむしろ闘牛士の死を目の当たりにするところにあるという。F1やインディカーなどの自動車レースを見るときに、観客は派手なクラッシュを心のどこかで期待している。そしてそのような事故で死亡したレーサーを涙しながら英雄と讃え、その死の瞬間の映像が何度も何度もお茶の間を流れる。

 北極圏のオオカミは食べるためには多すぎるカリブーの子どもを殺戮するという。わが家のネコも食べるためでなく、本能に基づいて庭にくる小鳥を捕獲する。おそらく殺戮は狩猟によって生きる動物のDNAに書き込まれた欲望なのではないか。そしてそれは肉食動物でもある人間にもあてはまるのではないだろうか。

 ところで、私たちの日常は家畜の大量殺戮という現実によってなりたっているのである。しかしながら、パックに入ってスーパーの明るすぎる棚の中でつやつやとおいしそうに輝く肉は、その背後に一頭の生き物の殺戮の瞬間があることをみじんも感じさせない。自分の命を支えてくれている他の生き物の死の実感がなくなってしまった。

 死は生の源泉である。だから性が死と近しいのも無理はない。死を理解することによってはじめて生をそして性を意義あるものと感じることができる。それは自分自身がいずれ死すべき存在であるということの理解と、その瞬間まで生き続けていくということは他の生き物の死に支えられているということの理解であろう。
 アタマではわかっていてもカラダでは理解できない。だから、大人になる時にその現場に立ち会わなければならない、と私は考える。それが「風森まち」のイニシエーションの儀式である。
 アイヌのイオマンテにおいて熊に最初に矢を射るのはその熊を家族の一員として育てた家の少年であり、それにはイニシエーションの意味があったという。私は「風森まち」の物語があながち絵空事ではないことを知って勇気づけられた。

 そして私たちはというと、その機会を得られないまま「大人」になってしまった。私たちの暗い欲望はその聖なるはけ口を失って、テレビの中で、残虐な場面を目の当たりにすることを期待している。それは戦争やテロによって傷ついた人々の姿かもしれない。あるいは内戦による飢餓のために死を待つこどもたちの姿かもしれない。絶対に安全な場所にいて、目をそむけつつ、じっと凝視してしまうのである。
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浜の死生観 (Tanaka)
2007-05-15 09:35:00
未明の海岸は常に死生観に囚われます。霧に包まれた暗い闇の中、海岸線は丘陵や海食崖から隔離された空間になり、神秘的な一面を覗かせます。こんな環境だからか年に数回は自殺者も寄せられます。特に海岸では様々な動物(人も含めて)の死も普通に目にしたりしますから。しかし陽が昇り、夜が明けると死そのものが明るく照らされます。漠然と死は死であり、日中は生の活動が続くのです。暗闇と死は海馬が刺激されるのでしょうか。意外と明るく映りがちな海岸はこんな面も在ります。少し考えてしまいました。

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