聖地巡礼!ビートルズ誕生の物語 リバプールを訪ねて The birth place of the Beatles

The Beatlesゆかりの地を旅すれば、そこには驚きの連続が! マニアックなマジカル・ビートルズ・ツアーです、

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④ジョージこそがワーキングクラスヒーローだ!

2016年09月17日 | 音楽
ジョージ・ハリスンの育った家

ジョージの父、バスの運転手であるハロルドと母ルイーズは1930年に結婚し、アーノルドグローブ12番地に初めての居を構えます。
建坪がわずか9平方メートルの小さな家でした。ジョージは4番目の子どもとして1943年の2月に生まれました。
アーノルドグローブの生家について後年ジョージは「暖をとるものは小さな石炭ストーブしかなくて、震えるほど寒かった。トイレは屋外だったし」と回想しています。
1950年、一家は住み慣れたこの家を去り、スピーク地区に引っ越します。そこはハロルドがなんと18年も前に申し込んでいた家でした。





スピーク地区アップトングリーン25番地(Upton Green 25)の家を訪ねました。(リバプール中心部からタクシーを利用。15ポンド)
家の前でギターケースを片手にポーズをとる誇らしげなジョージの写真が残されています。
ぼくが写した写真と比べてもらえれば、いまも当時の面影は色濃く残っていることがわかるでしょう。



住民の服装や、外から垣間見える暮らしぶりからも、この付近に住んでいる人たちは経済的に決して豊かではないことがわかります。
昼間じゃなくて夜だったら少し怖い感じがするかもしれない。
私が家の前で写真をとっていると、ちょうど買い物からかえってきたらしい隣の家に住む親子とでくわしました。
母親が娘に「ほら、あんた写真をとってあげな」と言ってくれました。ここを訪れるファンに慣れっこな様子が伺えます。

ジョンと知り合うずっと前からポールはジョージと友達でした。ポールもこのスピーク地区に住んでいて、二人はスピークとリバプール中心部の間を走る同じバスを使っていたのです。
リバプールセントラルターミナルのインフォメーションで尋ねたら、バスでスピークまでは「50分くらいかかる」とのこと。
そんなたっぷりとある時間を二人はギターやレコードの話をしてつぶしていたのでしょう。

意気投合したポールとジョージはお互いの家に出入りしてギターの腕前を磨き合いました。
ポールの家(72 Western Avenue)からジョージの家まで1キロと少し。ふたりは驚くほど近くに住んでいたのですね。
もしも、この2人が近所に住んでいなかったら・・・・。同じバスを使っていなかったら・・・。数あるビートルズ誕生の奇跡のひとつです。
ジョージはポールの紹介でクオリーメンに加入しますが、この家でバンドは何度も練習を重ねました。
ジョージのお兄さんの結婚披露パーティーがこの家で開かれたときには、ビートルズが演奏しています。

なお、スピーク地区には「リバプール・ジョン・レノン空港」があります。元々は「スピーク空港」という名前で呼ばれていました。
1962年、3度目となるのハンブルグ巡業に行くときにビートルズのメンバーはこの空港を利用しています。
ハンブルグの空港で待ち構えていたのは、ジョンの親友でビートルズの元メンバー、スチュワート・サトクリフの死というショッキングなニュースでした。

この家は2014年にオークションにかけられ、ロンドンに住むジョージのファンに15万6千ポンド(およそ2000万円ほど)で落札されています。

デビューした後にも住んでいた家



1962年、ハリスン家は4キロほど離れた場所 174 Mackets Lane に3度目の引っ越しをします。今回も一家はよりよい条件の家屋に引っ越すことを長年待ち望んでいたそうですが、
この家も前の家と大差なく、非常に質素な印象です。

デビュー後まもなく、ジョージはロンドンに居を写しましたが、この家にも頻繁に寝泊まりしていたようです。
一家はひっきりなしに訪れる熱狂的なファンたちに常に悩まされることになります。
1963年、リバプール・エンパイア劇場で公演した際に実家に帰ったジョージの姿が写真に残っています。
一家は1965年までこの家で暮らしました。
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