見つめ合うだけ

教育的配慮

カメラアイ

2016-11-01 18:49:42 | 日記
小説を読む楽しみ方は様々ある。例えば主人公になりきって心情の揺れを実感したり、今まで見たこともない比喩に陶酔したりする。いずれも作品世界に入りこんで、世界に近い視点で楽しむ方法だ。
今、高校国語教材の大名作「羅生門」を授業でやっているんだけど、これでもう四年連続教えることになり、今年は少し高度な視点も指導に取り入れてみた。
それは小説の楽しみ方の一つ「カメラアイ」への意識をさせる視点だ。
小説の面白さ、楽しさが分からないと思ってる子達に多いのは場面を想像することができないということだ。
言葉によって喚起される映像が浮かばないのだ。どうやって指導したら場面の想像ができるようになるんだろうって考えあぐねた結果、やはり小説の語りが持つカメラアイに注目させることだと思った。


1 ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
 2 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
3 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸こりが棲すむ。盗人ぬすびとが棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
4 その代りまた鴉からすがどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾しびのまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻ごまをまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄ついばみに来るのである。――もっとも今日は、刻限こくげんが遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞ふんが、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰にきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
5 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申さるの刻こく下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
6 雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍いらかの先に、重たくうす暗い雲を支えている。



例えば第二段落「広い門の下には、この男の他に誰もいない」という一文によって、カメラが下人を映していることはみんな想像できる。
そして次に「蟋蟀が一匹止まっている」という風に語ることで、カメラは下人から蟋蟀へと移る。
丹塗りが剥げてボロい柱に虫が一匹。非常に侘しさがある。そこから第二段落最後の一文でもう一度「この男の他には誰もいない。」と下人にカメラが戻る。

下人→蟋蟀→下人

このカメラの移り変わりを想像させて

「羅生門の下には本当に下人しかいないことを際立たせている描写は二段落の中でどれか」という質問をする。
ほとんどの人が「蟋蟀が一匹止まっている」を答えられる。
つまり、カメラが映せるものはもはや下人か、蟋蟀だけなのだ。下人以外には虫一匹だけが存在してるだけなんですよ、人間は下人だけなんですよと強調している。

第六段落も面白い。
「雨は、羅生門を包んで、遠くから、ざあっという音を集めて来る。」
この一文のカメラは割と遠目から羅生門を見ている。なぜなら雨が羅生門を包んでいる全体図を眺めていなければこんな表現はできない。「音を集めて来る」という表現で、雨が雨の音を集めて、より一層土砂降りとなり、まるで羅生門にスポットライトが当たっているかのような表現である。
そうかと思うと次の文に「見上げると」という箇所がある。
誰が見上げているのか?
下人である。ここで突然「下人の視点」でカメラが切り替わる。
そうして下人が見上げた空は重たく薄暗い雲なのだ。
この風景は一体何を象徴しているのか。
当然、下人の明日の暮らしをどうにかしないとならない苦しい気持ちの象徴である。