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1687(貞享4)年 〈生類憐れみの令〉★★

2016-11-12 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(霊元天皇 徳川綱吉)
1687(貞享4)年 〈生類憐れみの令〉★★
Edicts on Compassion for Living Things are enforced.
一路(いちろ)放つな 生類を。
  1687年    徳川綱吉 生類憐れみの令

江戸幕府5代将軍徳川綱吉は、治世の初期においては堀田正俊を大老に登用し幕政を引き締めようとしたが、堀田が暗殺されると側用人の柳沢吉保を用いて独断で政治を行うようになった《「吉保」の〈吉〉は「綱吉」の〈吉〉!》。子に恵まれなかった綱吉は、御持院の僧隆光のすすめで生類の殺生禁止を指令。この生類憐れみの令は1687年以降極端化し、民衆の生活に影響を及ぼした。


頻出史料「生類憐れみの令」                                    
 生類あハれみの儀に付、最前書付を以て仰せ出され候処、今度武州寺尾村同国代場村の者、病馬之を捨て、不届の至に候。死罪にも仰せ付けらるべく候え共、此度ハ先命御たすけ、流罪仰せ付けられ候。向後、相背に於ては、急度曲事仰せ付けらるべく候条、御料は御代官、私領は地頭より前方仰せ出され候趣、弥堅相守り候様、念を入れ申し付くべき者也。
                     貞享四(1687)年卯四月日

[ポイント]
1.綱吉代は、堀田正俊柳沢吉保が政治を補佐、荻原重秀は財政面で活躍した。

 

[解説]
1.綱吉代の文治政治では、1860年、大老の堀田正俊(1634~84)が補佐して始まり、正俊の暗殺後、側用人の柳沢吉保(1659~1714)がこれにかわった。堀田正俊は江戸城内で、従兄弟で若年寄の稲葉正休(いなばまさやす)(1640~84)により刺殺された。正休もその場で斬られる。河川の淀川改修工事にからんだ私怨(しえん)と言う。

2.財政難打開のため勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀(1658~1713)は、金含有量(84%→57%)を落とす貨幣改鋳をおこなった。


〈2016同志社大・全学部:「

 3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、幕政の安定がはかられた。5代将軍となった綱吉は、( g )、次いで柳沢吉保の補佐を得て、文治政治を積極的に推進した。平和なこの時代には元禄文化が花開いたが、しかし幕府財政は次第に窮乏の度合いを強めていった。

【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。


 1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和


【設問g】空欄( g )には、綱吉の擁立に功があり、大老としてその治世の初期を支えたが、江戸城中で若年寄稲葉正休に刺殺された人物が入る。あてはまる人物名を漢字で記せ。」


(答:ウ2、g堀田正俊)〉


〈2012明大・商学部:「
 1695年、当時勘定吟味役であった[ 2 ](1658~1713)の上申を受けて綱吉によって発行された元禄小判は、慶長小判が金含有率84%であったのに対して同比率がわずか57%でしかなく、銀貨についても同様に銀含有率が80%から64%に減少している。」


(答:荻原重秀)


[ポイント]

1.徳川綱吉は、貨幣の悪鋳を行い、生類憐れみの令服忌令の発布し、その治世末期に富士山の噴火赤穂事件が起こった。

 

[解説]
1.政治の安定と経済の発展とを背景に、17世紀後半には5代将軍徳川綱吉(位1680~1709)の政権が成立し、いわゆる元禄時代が出現した。

 

2.綱吉はまた仏教にも帰依し、1685(貞享2)年から20年余りにわたり生類憐みの令を出して、犬を大事にし、生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた。なお綱吉及び綱吉の生母桂昌院の寵を受けた僧隆光が生類憐れみの令の発令を勧めたとされる。
                                             
3.神道の影響から、1684(貞享元)年、近親者に死者があった時に、喪に服したり忌引をする日数を定めた服忌令とよばれる法令を出した。江戸時代を通してこれ以後、社会に死や血を忌みきらう風潮をつくり出す因(もと)となった。

 

4.綱吉の時代の幕府財政は、佐渡金山などの金銀の産出量が減少し、そのうえ明暦の大火後の江戸城と市街の再建費用、引き続く元禄期の寺社造営費用は大きな支出増となり、破綻を招いた。そこで勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀(おぎわらしげひで)の上申により貨幣の改鋳(悪鋳:金含有率84%→57%)をおこない多大な増収をあげたが、貨幣価値の下落は物価の騰貴を引きおこし、人びとの生活を圧迫した。

 

5.綱吉の治世の末期、1701(元禄14)年に、江戸城中で赤穂藩浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が朝廷関係の儀礼を管掌する旗本で高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を傷つけ、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った赤穂事件が起こった。

 

6 さらに1707(宝永4)年には富士山が大噴火し、駿河・相模などの国々に降砂による大被害をもたらした。幕府は噴火被災地を復興するため、全国に「諸国高役金(しょこくたかやくきん)」を高100石について2両の割合で徴収することを命じた。その結果、約49万両の国役金が幕府に上納された。

 

〈2014明大・全学部前期

問3 下線部ア徳川綱吉に関連する説明として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。

 A 本百姓の没落を防ぐため、田畑永代売買の禁令を出した。

 B 林鳳岡らに命じて服忌令を整備し、発令した。
 C 海舶互市新例を発令し、貿易額を制限した。
 D 萩原重秀を登用し、金の含有量を高めた貨幣の改鋳を行った。

(答:B ※A家光代、C家継代、D含有量を低下)〉

 

〈2014早大・教育

問7 下線部c江戸時代後期に各地で起こるさまざまな問題に関連して、18世紀後期から19世紀前期の出来事に該当しないものはどれか。

 ア 人足寄場の設置 イ 生田万の乱
 ウ 関東取締出役の設置

 エ 浅間山の噴火 オ 服忌令の発令

(答:オ×服忌令(父母などが亡くなった時の忌引きなどの日数を定めた法令)の発令は、17世紀後半の5代将軍徳川綱吉の代)

 

 〈2013上智大・文(英独仏)

問2 江戸幕府の5代将軍A(在職1680~1709年)に関する次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 Aは、( ア )の4男として生まれ、当初は大老( イ )の補佐で文治政治を推進した。儒学を好み、上野忍ヶ岡の弘文館を湯島に移して大成殿を設け、( ウ )を大学頭に任じた。( イ )の死後は、側用人( エ )を寵用し、生類憐みの令や貨幣改鋳などで、治政は乱れたとされる。


(1)空欄( ア )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1徳川家宣 2徳川家光 3徳川家綱

 4徳川秀忠 5徳川頼方 6徳川家継

(2)空欄( イ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1本多正信 2保科正之 3酒井忠清 

 4松平信綱 5松平定信 6堀田正俊

(3)空欄( ウ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1林鳳岡 2広瀬淡窓 3林春斎

 4林述斎 5岡田寒泉 6松永尺五

(4)空欄( エ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から
1つ選びなさい。

 1田沼意次 2本多正信 3荻原重秀 

 4新井白石 5柳沢吉保 6間部詮房

(5)Aの在職期間中に起きた事件はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1振袖火事 2由井正雪の乱 3天狗党の乱

 4赤穂事件 5紫衣事件 6天保の飢饉

(6)Aが将軍職に就く前に藩主であったのは何藩であったか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1岡山藩 2尾張藩 3水戸藩

 4甲府藩 5和歌山藩 6館林藩

(7)Aの在職期間中に書かれた著作は何か。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1『経済録』 2『折たく柴の記』
 3『広益国産考』
 4『赤蝦夷風説考』
 5『海国兵談』 6『奥の細道』


(8)前問(7)で答えた著作の作者は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1大蔵永常 2林子平 3松尾芭蕉 

 4工藤平助 5新井白石 6太宰春台」

(答:1→2、2→6、3→1、4→5、5→4、6→6、7→6、8→3)〉

 

〈2013早大・国際教養

問10 下線部i生類憐みの令に関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 猪や鹿を威嚇する鉄砲の所持を禁止した。

 イ 捨て子や捨て牛馬を禁止した。
 ウ 犬の愛護を強要し江戸に犬小屋を設置した。
 エ 綱吉は戌年生まれであった。
 オ 隆光は綱吉の母の帰依を受けていた。」

(答:ア)

 

大学生徒午後うたて。

(徳川綱吉)(大学頭(だいがくのかみ)・湯島聖堂)(護国寺・学方・文方)

[ポイント]
1.綱吉は、湯島聖堂をつくり、大学頭歌学方(かがくかた)・天文方を任命し、護国寺を建立した。

[解説]

1 1683(天和3)年に綱吉の代がわりの武家諸法度が出され、第一条の「弓馬の道」が「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」に改められた。これは武士に、主君に対すると父祖に対する、それに礼儀による秩序をまず第一に要求したものであった。

2.文治主義の考えは、儒教に裏づけられたもので、綱吉は木下順庵に学び、湯島聖堂を建てるとともに林鳳岡(信篤)を大学頭に任じて、儒教を重視した。鳳岡の祖父林羅山が江戸上野忍ヶ岡に孔子廟と私塾を設けていた。綱吉は、それらを湯島に移し、湯島聖堂および聖堂学問所として林家(りんけ)に主宰させた。


3.北村季吟(1625~1705)は、俳諧、和歌、歌学を学び、土佐日記・伊勢物語・源氏物語などの注釈書(代表作が『源氏物語湖月抄』)を著した。綱吉は、1689年(元禄2年)、和歌の研究や詠歌を担当する歌学方を設け、季吟を500石の初代歌学方に任命した。これ以後、北村家が幕府歌学方を世襲。門人に松尾芭蕉がいる。


4.安井算哲(1639~1715、改姓して渋川春海(しゅんかい))は、幕府囲碁方の安井家に生まれたが、数学・天文暦学を学び、中国・元の授時暦を改良して貞享暦をつくった。この功により1685年、初代幕府天文方250石に任命された。以後、天文方は世襲となる。


5.徳川綱吉は、1681年(天和元年)、母桂昌院(けいしょういん)が帰依する僧亮賢(りょうけん)(1611~87)を開山として、護国寺を建立した。

 

〈2016慶大・経済B方式:「
問1 下線部A(江戸時代の社会は、A幕府によって強く統制された社会であった)に関連して、次の資料a~cは、幕府が大名に対して発した法令の一部である(必要に応じて表現を変更した)。それぞれの法令と、その法令が発令された時期の将軍の組み合わせとして最も適切なもの選べ。

 a 貴殿御分国中居城をば残し置かれ、其外の城は悉く破却あるべき旨、上意に候[資料出所]『大日本史料』

 b 文武忠孝を励し、礼儀を正すべきの事[資料出所]『御触書寛保集成』
 c 殉死は古より不義・無益の事なりといましめ置くといへとも、仰せ出だされこれなき故、近年追腹の者余多これ有り、向後左様の存念これある者には、その主人常々殉死仕らざる様に堅く申し含むべし[資料出所]「柳営日次記」

 1a徳川家綱b徳川綱吉c徳川秀忠

 2a徳川家綱b徳川秀忠c徳川綱吉
 3a徳川綱吉b徳川家綱c徳川秀忠
 4a徳川綱吉b徳川秀忠c徳川家綱
 5a徳川秀忠b徳川家綱c徳川綱吉
 6a徳川秀忠b徳川綱吉c徳川家綱」

(答:6)〉

 

〈2016早大・文化構想

 江戸時代になると、将車綱吉の時、上野忍ヶ岡にあった林家の孔子廟と私塾が神田湯島に移され、いわゆる湯島聖堂と学問所が発足した。そして、[ F ]が大学[ B ]に任命され、以後、この職は林家の世襲となる。古代の大学[ B ]は、ここに、再び注目されるようになった。

問2 空欄Bに該当する語句はどれか。1つ選べ。


 ア卿 イ頭 ウ正 エ帥 オ督


問11 空欄Fに該当する人物は誰か。1つ選べ。


 ア林羅山 イ林鳶峰 ウ林鳳岡
 エ林子平 オ林述斎」


(答:2Bイ、Fウ※「岡」を意識。)


〈2016慶大・法

 17世紀への転換期、冷泉家の出身で、京都相国寺の禅僧となり朱子学を学んだ儒学者は、慶長の役の際に連行された朝鮮王朝の文臣である[ 30 ]と交流を結び、その学問を体系化して京学派を形成した。その門人には、徳川家康に仕えた林羅山や、私塾・春秋館などを建てた[ 31 ]がいる。さらに、[ 31 ]に学び、加賀の前田氏に仕えた後、[ 32 ]の侍講をつとめ、『武徳大成記』の編纂にも携わった儒学者のもとからは、多くの優れた門人が輩出された。」

(答:30姜沆(きようこう)、31.松永尺五、32徳川綱吉 ※尺五(しゃくご、せきご)。問題とされている儒学者は木下順庵)〉

 

〈2016上智大・法済総人

 1681年( ア )が生母桂昌院の願いにより、僧亮賢を招き開山させた護国寺は、江戸時代には将軍家の祈願寺であった。

問1 空欄( ア )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選びなさい。


 1徳川家綱 2徳川家宣 3徳川家光

 4徳川家継 5徳川吉宗 6徳川綱吉」

(答:6)〉


〈2014立教大・現心コミュ福営

問1.この人物(徳川綱吉)は、林家が上野忍ヶ岡に設けた孔子廟と私塾を別の場所へ移した。その移転先はどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.浅草 b.蔵前
 c.深川 d.湯島」


(答:d)〉

〈2013慶大・文:「
 江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉は儒教を重んじ、湯島聖堂を建てて( A )を大学頭に任じた。綱吉は仏教にも帰依して生類憐みの令を出す」

(答:林信篤(鳳岡))〉

〈2012立大・経済法異文化コミ:「
 これ(徳川綱吉の社寺造営)に該当するのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.寛永寺(江戸)b.神田明神(江戸)

 c.総持寺(相州)d.東照宮(日光))」

(答:a寛永寺)〉


〈2013早大・文:「
 1680年代には幕府に天文方が設置された。これは、渋川春海が平安以来の[ B ]の誤りを修正した貞享暦を作ったことに端を発していた。また和歌の研究や詠歌を担当する歌学方も設けられ、『源氏物語湖月抄』の著者、[ C ]が初代歌学方に任じられた。


問 空欄Bに該当する暦(漢字3字)を、Cに該当する人名(漢字4字)を記入しなさい。」


(答:B宣明暦、C北村季吟)〉


〈2013慶大・経済:「

問2 下線部A大名統制の基本法として武家諸法度を定めたに関連して、以下の(1)に答えなさい。

(1)次の武家諸法度(抜粋)が出されたのはどの将軍の時期か。下の1~4から選びなさい。


 一、文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事

 一、参勤交替の儀、毎歳所定の時節を守り、従者の員数繁多に及ぶべからざる事
 一、人馬兵具など、分限に応じあい嗜むべき事
              [資料出所〕『御触書寛保集成』


 1家綱 2家光 3綱吉 4秀忠」


(答:3)〉

 

大学生徒午後うたて 金利3万大丈夫?

(徳川綱吉)(大学頭(だいがくのかみ)・湯島聖堂)(護国寺・学方・文方)


3万石)(禁裏御料(きんりごりよう))(大嘗会(だいじようえ))



[ポイント]

1.綱吉は、大嘗会を復興させたり、禁裏御料3万石に増やした。

[解説]

1.徳川綱吉は、礼儀によって秩序を維持するうえからも、これまでの天皇・朝廷に対する政策を改めて、朝廷儀式のうちいくつかを復興させたり、天皇家の領地である禁裏御料もふやした。すなわち、初代家康が禁裏御料を1万石とし、2代目秀忠2万石に加増、そして5代目綱吉が1万石増やし計3万石とした。

2.1687(貞享4)年に大嘗会大嘗祭)が221年ぶりに、1694(元禄7)年に賀茂葵祭が192年ぶりに再興された。これ以後も朝廷儀式は徐々に再興されていった。大嘗祭は(おおにえのまつり)とも読み、天皇即位後最初の新嘗祭(にいなめさい)(稲の収穫を祝い、来年の豊作を祈願する祭儀。現在は勤労感謝の日)。天皇一世一代の大祭で、室町時代以後断絶していた。


3.この時期、勅使の幕府下向の儀式もいっそう重視された。その勅使接待役に指名された赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が、1701(元禄14)年江戸城中で、朝廷関係の儀礼を管掌する旗本(高家(こうけ)という)の吉良義央(きらよしなか)を傷つけ、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った赤穂(あこう)事件がおきた。

 

〈2013早大・文

 天皇や公家は長い戦国の世を経て経済的基盤を失い、朝廷の祭祀も十分に行うことができないほど疲弊していた。禁裏御料は家康のときに約1万石、その後、5代将軍徳川綱吉のときに約3万石となった。公家も幕府から知行を与えられ、寛文印知で九条家は2000石余り、近衛家は1800石弱の知行高を受け取っていた。しかし、多くの公家は数百石以下にとどまり、蹴鞠や和歌の伝授などそれぞれの家業に励まなければならなかった。即位儀礼のひとつである[ A ]祭は、将軍綱吉の治世下で221年ぶりに行われたが、幕府の援助があって実現したものである。

 綱吉政権期の幕府は禁裏御料を増献し、山陵を修理し、朝儀を復興させる一方、これまで朝廷が担ってきた暦の作成や和歌の研究にも関心をもちはじめたのである。勅使接待役の赤穂藩主浅野内匠頭が、江戸城松の廊下でe吉良上野介に斬りつけた刃傷事件は、家康とは異なる朝廷政策を実施していた将軍綱吉にとって、青天の霹靂とも言える出来事だった。

 

問5 空欄Aに該当する言葉を、漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

問8 下線部e吉良上野介は幕府の儀礼をつかさどり、朝廷へ使節としておもむき、勅使を接待するなどの役目を負っていた。その職名を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。」


(答:5大嘗、8高家※「こうのすけ」)〉

〈2013慶大・文:「
 綱吉期の朝幕関係は( C )などの朝儀の復興や約1万石の( D )の進献に見られるように融和的であった」

(答:C大嘗祭・D禁裏御料)〉



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