第2章 アジア・アメリカの古代文明
3節 中国の古典文明
用語リストへア.東アジアの風土と人びと
東アジア世界 = ユーラシア大陸東部地域
中国を中心に、北はモンゴル高原、南はベトナム北部、西はチベット高原、東は朝鮮半島・日本列島を含む。
・東アジア 中国東部・朝鮮・日本・ベトナム = 温暖湿潤なモンスーン地帯
a 黄河流域 のb 黄土地帯 、c 長江流域 の肥沃な平原地帯に農耕文明=d 中国文明 が成立。
その主な内容 f 漢字、儒教、仏教、律令制度の受容など。
・北方の草原・砂漠地帯 = 主としてg 遊牧 を生業とする。遊牧騎馬民族が独自の国家を形成。
中国を中心に、北はモンゴル高原、南はベトナム北部、西はチベット高原、東は朝鮮半島・日本列島を含む。
・東アジア 中国東部・朝鮮・日本・ベトナム = 温暖湿潤なモンスーン地帯
a 黄河流域 のb 黄土地帯 、c 長江流域 の肥沃な平原地帯に農耕文明=d 中国文明 が成立。
解説
かつては四大文明の一つとして「黄河文明」と言われていたが、最近では長江流域にも同等の農耕文明が存在していたことが明らかになったことから、「中国文明」と総称するようになった。ただし、依然として「黄河文明」という呼称を用い、その優越を説く学説もあり、それに従っている教科書もある。中国の古代文明の研究はまだ途上のようである。→ 中国文明の影響のもとで国家を形成 = e 東アジア文化圏 を形成。
その主な内容 f 漢字、儒教、仏教、律令制度の受容など。
・北方の草原・砂漠地帯 = 主としてg 遊牧 を生業とする。遊牧騎馬民族が独自の国家を形成。
Text p.66
・東北部の森林地帯 = h 狩猟 を主とし農耕生活を営む。
→ 古くから、農耕民は北方・東北部の遊牧民や狩猟民との交易を行っていた。
→ 自然環境の悪化などに伴い、i 遊牧民・狩猟民の農耕地帯への侵入 がくりかえされる。
→ 古くから、農耕民は北方・東北部の遊牧民や狩猟民との交易を行っていた。
→ 自然環境の悪化などに伴い、i 遊牧民・狩猟民の農耕地帯への侵入 がくりかえされる。
用語リストへイ.中国文明の発生
■ポイント 黄河・長江流域に新石器文化が形成され、彩文土器から黒色研磨土器に発展した。
A中国文明 前6000年ごろa 黄河・長江の流域に中国文明 = 新石器文化 が形成された。
彩文土器
・b 黄河流域 ではc 雑穀 中心、d 長江流域 ではe 稲 中心の粗放な農耕
始まる。 → 前5000年紀に農耕技術が発達し、数百人規模の村落が生まれる。
始まる。 → 前5000年紀に農耕技術が発達し、数百人規模の村落が生まれる。
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B仰韶文化
黄河中流域の黄土地帯 粟の栽培、豚・犬・鶏の飼育などの農業が始まる。
特色 = a 彩文士器(彩陶) の使用。 *他に半坡遺跡などがある。
・長江中下流域 人工的な水田施設を持つ集落が生まれる。 *例は河姆渡遺跡、良渚遺跡など。
特色 = a 彩文士器(彩陶) の使用。 *他に半坡遺跡などがある。
・長江中下流域 人工的な水田施設を持つ集落が生まれる。 *例は河姆渡遺跡、良渚遺跡など。
解説
河姆渡(かぼと)遺跡は1970年代に発掘され、長江下流域で紀元前5000~前3300年頃の稲作農耕が行われていたことが明らかになった。これは仰韶文化の時期と同じ時期である。さらに最近では前7000年紀の稲作の痕跡が発見され、稲作が始まった地域ではないかと考えられ、注目が集まっている。
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C竜山文化 前3000年紀 諸地域間の交流が緊密化し、農耕文化圏が広がる。
三足土器
特色 = a 黒色研磨土器(黒陶) 轆轤を使用。*b 三足土器 (鬲と鼎)の
形態が特徴。
→ 黄河下流域を中心に長江中下流、遼東半島にまで広がり、牛馬の飼育、
大集落の形成。灰陶も使用される。
城壁や支配者の巨大な墓も見られる。
→ c 政治権力の集中、階層差の拡大
形態が特徴。
→ 黄河下流域を中心に長江中下流、遼東半島にまで広がり、牛馬の飼育、
大集落の形成。灰陶も使用される。
Text p.67
遺跡に大量の武器や戦死者の埋葬跡が見られる。城壁や支配者の巨大な墓も見られる。
→ c 政治権力の集中、階層差の拡大
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◎地図 河川と主要遺跡
a 黄河
b 長江
c 渭水
d 周口店
e 仰韶
f 半坡
g 河姆渡
h 良渚
i 竜山
j 二里頭
k 殷墟
l 三星堆
m 鎬京
n 洛邑
用語リストへウ.初期王朝の形成
■ポイント 青銅器・文字・都市という文明の要素の成立と、殷から周への初期王朝の交代を理解する。
A都市の形成 黄河の中・下流域に城壁をもった都市が形成される。
→ 多くの都市を統合し、広域を支配する王が出現。→ a 王朝国家 の出現。
・伝説(『史記』の既述)では三皇五帝の最後の禹が始めたb 夏王朝 が最初の王朝とされる。(二里頭遺跡)
・伝説(『史記』の既述)では三皇五帝の最後の禹が始めたb 夏王朝 が最初の王朝とされる。(二里頭遺跡)
解説
司馬遷の『史記』によげば、三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神をさし、五帝とは、黄帝・顓頊(せんぎょく)(暦法の発明)・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)の天子をさすとされる。特に尭舜時代は、治水事業が進み、国が安泰だったという。その舜から国を譲られた(禅譲)のが黄河流域の治水に業績を上げた禹(う)であり、彼が中国最初の王朝である夏を建国したという。現在の中国では考古学上の発掘が進み、竜山文化の時期をそれに当てる説も出ている。特に河南省の二里頭から、城壁と青銅器をもつ遺跡が発掘され、それを夏王朝後期の都城とする説が有力になっている。しかし、殷墟のような甲骨文字はまだ発見されておらず、日本ではまだ「夏王朝」の実在は否定的に見られている。= 現代中国では承認されているが、日本では一般的な定説にはなっていない。
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甲骨文字の例
B殷王朝(商)
前2000年紀に黄河中下流域に存在。現在確認できる最古の王朝とされている。
・a 殷墟 の発掘 河南省安陽県小屯村の遺跡。
1928~37年に発掘され、殷の都であることが確認された。
宮殿跡、人畜を殉葬した巨大な王墓、b 青銅器 の祭器、象牙・玉類など多数出土。
・政治形態:氏族集団(血縁意識で結ばれた集団)が連合し、
王都を中心に城郭都市=c 邑 を従属させる。
・d 甲骨文字 の使用 獣骨・亀甲に彫られ、占いに使用された。
→ 現在の漢字の起源となった。
・殷の青銅器 祭祀用であり、殷王の強大な宗教的権威を示すものであった。
(他に三星堆の青銅器文化がある)
・a 殷墟 の発掘 河南省安陽県小屯村の遺跡。
1928~37年に発掘され、殷の都であることが確認された。
宮殿跡、人畜を殉葬した巨大な王墓、b 青銅器 の祭器、象牙・玉類など多数出土。
・政治形態:氏族集団(血縁意識で結ばれた集団)が連合し、
王都を中心に城郭都市=c 邑 を従属させる。
Text p.68
殷王は祭祀を行い、真意によって政治、戦争を決定した。・d 甲骨文字 の使用 獣骨・亀甲に彫られ、占いに使用された。
→ 現在の漢字の起源となった。
・殷の青銅器 祭祀用であり、殷王の強大な宗教的権威を示すものであった。
(他に三星堆の青銅器文化がある)
解説
三星堆(さんせいたい)遺跡では1986年の発掘で世界を驚かす青銅器文明の存在が明らかになった。それは左図のような特異な仮面などをもつ独特なものであった。この地は長江の上流の四川省にあり、三国時代の蜀の勢力圏であったことから、黄河流域とは異なる文明と政治権力が存在していたのではないか、と言う点が注目された。しかし、研究が進んだ結果、青銅器の製法としては殷と同じく外范分割法を用いており、素材の青銅の鉛同位体比の分析によって殷王朝の青銅器と同一の鉱山の原料が使われていたことが判明した。それによって、三星堆の独自性は否定的に見られるようになり、殷を中心とした青銅器文明の一つの地域形態ではないかと考えられるようになっている。
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C周王朝(西周) a 渭水流城 におこり前11世紀ごろ、東進して殷を滅ぼす。
・都 b 鎬京 (現在の西安付近) 華北一帯に支配を広げる。
・王朝交代 中国ではc 易姓革命 という。= 天命が革まって天子の姓が易ったものとされた。
・政治組織:国王の一族・功臣や地方の首長にd 封土 (領地)を与えてe 諸侯 とする。
彼らは周王を本家とした祭祀を行い、貢納と軍役の義務を負う。
周王・諸侯はf 卿・大夫・士 という身分をもつ世襲の家臣に土地を与える。
これをg 封建制度 ※という。= h 封侯建国 の略語。
※主君と家臣の土地の授受を媒介としたi ヨーロッパや日本の中世の封建制度とは異なる。
・社会:支配階級は共通の祖先を祭るj 宗族 を形成。その身分秩序の規則をk 宗法 という。
氏族集団(宗族)によって支えられた封建制度が、周王朝を支えていた。
・王朝交代 中国ではc 易姓革命 という。= 天命が革まって天子の姓が易ったものとされた。
・政治組織:国王の一族・功臣や地方の首長にd 封土 (領地)を与えてe 諸侯 とする。
彼らは周王を本家とした祭祀を行い、貢納と軍役の義務を負う。
周王・諸侯はf 卿・大夫・士 という身分をもつ世襲の家臣に土地を与える。
これをg 封建制度 ※という。= h 封侯建国 の略語。
※主君と家臣の土地の授受を媒介としたi ヨーロッパや日本の中世の封建制度とは異なる。
・社会:支配階級は共通の祖先を祭るj 宗族 を形成。その身分秩序の規則をk 宗法 という。
氏族集団(宗族)によって支えられた封建制度が、周王朝を支えていた。
解説
周の封建制は政治制度であり、周王が一族や功臣、地方の有力な土豪を諸侯として一定の土地と人民の支配権を与えて統治したシステムをいう。諸侯に与えられた地域を「国」といい、諸侯を封じて(土地と人民を与えて)国を建てることが「封侯建国」であり、その略が「封建」である。諸侯は国を支配し、国内の土地を一族や臣下に分与した。諸侯とその家臣は擬制的(見かけ上の)ではあるが血縁関係をもつ宗族によって結びついている氏族社会があった。日本では中世ヨーロッパの heudalism の訳語としても封建社会という歴史用語を使うが、中世の封建社会とは領主間の主従関係と、領主と農奴の関係である農奴制から成り立つ社会の制度を示すものであり、意味が異なる。