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心学の系譜

2017-02-21 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]医師大進学には遠い答案どうにかでは


石田梅岩(いしだばいがん)・心学都鄙問答(とひもんどう))(手島堵庵(てしまとあん)・中沢道二(なかざわどうに))


[句意]医師大進学には遠いよ、答案がどうにか赤点スレスレでは、という句。


[ポイント]

1.石田梅岩心学を創始し『都鄙問答』を著し、手島堵庵、その弟子中沢道二によって発展した。

[解説]

1.18世紀の初め、京都の町人石田梅岩は心学をおこし、儒教道徳に仏教神道の教えを加味して、町人を中心とする庶民の生活倫理をやさしく説いた。社会の中での町人や百姓の役割を強調し、その人間としての価値を説く心学は、弟子の手島堵庵中沢道二らによって全国に広められた。

2.石田梅岩(1685~1744)は、百姓の次男として生まれ、11歳で呉服屋に丁稚(でっち)奉公に出て、寝る間も惜しんで独学し、45歳の時京都の自宅で心学(石門心学)をおこす。儒教道徳に仏教・神道を取り入れ、日常生活に即した道徳の実践を説く。主著は講義問答集の『都鄙問答』。商業や商人を蔑視する当時の風潮に対して、梅岩は同書で、商人の利潤追求を社会におけるその職分であり正当とし、商人の存在意義を強調し、倹約・堪忍・正直などの徳目を説いたため、心学は町人とくに商人の道徳として広まった。


3.手島堵庵(1718~86)は、京都の商人の出。心学教育にふさわしい教材や教科書を工夫し、講話の場と修行道場を兼ねた心学講舎(心学舎)を各地に設け教化に努めた。子供への訓話教育を創始。女子にも聴聞を許す。


4.中沢道二(1725~1803)は、京都の機織り職人の出。40歳にして堵庵の弟子となり頭角を現す。堵庵の要請により関東に進出し、各地に道二とその弟子による心学講舎を設立、聴講者には一般庶民はもとより大名までおり、松平定信の設けた佃島の人足寄場の講師(教諭方)も務めた。


〈2016関西大・全学部2/8:「

C さらに、庶民の道徳教養を高める動きもみられた。4[ア石田梅岩 イ熊沢蕃山 ウ谷時中]が唱えた心学は弟子たちによって広められ、全国に講舎が建てられた。 18世紀後半には、京都の手島堵庵の弟子である5[ア中沢道二 イ山鹿素行 ウ野中兼山]が江戸に下り、関東・東北地方への普及につとめた。」

(答:4ア、5ア)〉


〈2013愛知教育大学・前期:「

 都市でも、京都の商家に勤めていた[ d ]が、正直や倹約などの通俗道徳を平易に説いて、商人の社会的役割を高く評価し、庶民教育につとめた。」

(答:石田梅岩)〉


〈2013同志社大学・法グロコミュ:「

問 通常、田沼時代とは田沼意次が幕政の実権を握っていた1760~1786年の期間をいうが、次の1~4の中でこの時期に当てはまらないものを1つ選べ。

 1.平賀源内が火浣布・エレキテル・寒暖計などの製作を試みた。

 2.本居宣長が賀茂真淵と松坂ではじめて会った。
 3.恋川春町の『金々先生栄花夢』がはじめて刊行された。
 4.石田梅岩が心学を広めた。」

(答:4 ※梅岩は吉宗時代とほぼ重なる)〉


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