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BY 鈴木小太郎

「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)

2017-06-28 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月28日(水)13時33分37秒

6月25日の投稿で「林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました」などと書いてしまいましたが、南原繁他編『矢内原忠雄─信仰・学問・生涯─』(岩波書店、1968)を見たら、当該エッセイの著者は竹山道雄でした。
同書の南原繁による「まえがき」には、

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 矢内原忠雄君が世を去ってから五年余、その全集二十九巻が出版完了してから三年に近い歳月が流れた。全集の毎巻附録の月報をはじめ、新聞や諸雑誌に、故人についての思い出や感想などが多く書かれた。この書はそれらを一つにまとめたものである。
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とあって、竹山道雄のエッセイ「私が接した面」には出典の明示はありませんが、全集の月報でもなかったですね。
いい加減な記憶に基づいて適当なことを書き散らしてしまった反省も兼ねて、少し紹介してみます。

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【前略】
 戦後に旧一高が東大のジュニア・コースになることになり、先生が一高の校長となられてから、私は近く接するようになった。毎週一回の運営委員会と教授会ではかならず会った。
 何もかもむつかしく、難問山積していた。先生は昼飯をとる暇がないことが多かった。自分があれだけ努力するのだから他人からも期待するのは当然だったが、こちらは実行力皆無で営養不足というありさまで、先生が主宰する会議はじつに肩がこった。微に入り細を穿って、正確をきわめた。会議がすむと、ほっと息をついて解放感を味わった。
 真面目一徹で、正直で、信念のためにはいかなる妥協もなく献身する。そういう人にはよくあることらしいが、先生は怒りっぽかった。カーッとなって身をふるわせて怒った。それはおおむね先生に正しい根拠があったのだが、ときには病的に思われることもあった。
 青山学院大学の学長だった故峰尾さんが来られて、ドイツ語課の主任をしていた私に、青山ではドイツ語の人手が足りない。それでいま駒場に籍をおいて青山で講師をしているX氏に、もっと時間を受持ってもらいたい。そのためにはその人の駒場の持ち時間を減してもらえないか、という話だった。どこでも人手が足りない頃だった。私はそれでは校長と話しましょうとて、峰尾さんと共に校長室に入った。
 峰尾さんがそれをいい終るか終らぬかのうちに、矢内原先生は顔色蒼白になり、目を尖らせ、頭をふるわせて叫んだ。
 「それならX君にはもう居てもらわなくてもよろしい。竹山君、すぐ行って代りの教授を見つけて来たまえ!」
 これでは相談にはならず、峰尾さんはほうほうの態で帰られた。かつては峰尾さんも相当はげしかったが、こちらはもっとスケールが大きかった。えらい人にはみな激しいところがあるようである。
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ということで(p458以下)、時代背景を割り引いても、こういう人が上司だったらたまったものではないですね。
「顔色蒼白になり、目を尖らせ、頭をふるわせて叫んだ」矢内原は、きっとビリケンに似ていたと思います。
ついでにもう少し紹介してみると、

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 旧一高には宿弊もたくさんあり、先生はそれを一掃して、すべての学生を清教徒にしようと考えていられたようだ。そして、旧一高の伝統を意識的に破壊した。(これで、かつての書生とか健児とかいう、歴史的系譜は断たれた。)学生は一年に一度の記念祭がしたくてたまらず、われわれもあの当時(昭和二十四年)の荒涼として沈滞した時期に一日お祭りをして気持を新たにするのがいいと思ったが、先生は頑として許さなかった。非常な歯痛で、頬に氷嚢をあてて顔をしかめながら、原則をまげなかった。私はこういう案なら合理的だし先生も同意されるだろうと思っていたのに、だめだった。理由は「国中がこんなに貧しくて困っているのに、遊ぶとはもっての他だ」というのだった。
 もし人間すべてが先生のような潔癖の清教徒ばかりだったら、どんなにいいことだろう! 先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった。それで、学生との間に次第に溝ができ、それを政治学生たちが利用した。左翼学生のビラに「校長はわれわれを憎んでいるとしか考えられない」という文句もあったし、先生が渡米されたときには「ふたたび日本の土を踏ましむるな」と大書した紙が校門わきの掲示板にはられた。それを剥ぐ人もなく、ひさしくそのままだった。
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という具合だったそうです。
私の記憶はいい加減でしたが、矢内原を一高の校長とする竹山道雄の記述にも若干の疑問があります。
「矢内原忠雄略年譜」によれば、矢内原が初代の教養学部長になったのは1949年(昭和24)の5月31日ですね。(p689)
他方、旧制一高同窓会「第一高等学校ホームページ」の「歴史─概要」「第一高等学校略史」を見ると、

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1948(昭和23)年2月7日 一高校長天野貞祐辞任 麻生磯次校長に就任
1949(昭和24)年6月30日 一高は「東京大学第一高等学校」となる 矢内原忠雄校長に就任
7月31日 麻生磯次、東京大学第一高等学校長に就任
【中略】
1950(昭和25)年3月24日 卒業式を行わない永年の慣例を破り倫理講堂で卒業式、夕方「第一高等学校」の門札を外す

http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/ICHIKOH/home.html

となっていて、教養学部長の矢内原忠雄が「東京大学第一高等学校」の校長を兼任していたのは1949年7月の一か月間だけのようです。
とすると、竹山道雄が「私が接した面」で描いている矢内原忠雄像は新制の東京大学教養学部長としてのそれかもしれません。
竹山道雄は旧制一高に非常に愛着を持っていた人ですが、それ故か、竹山自身に若干の記憶の混乱があるような感じもします。

『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7787
平川祐弘著『竹山道雄と昭和の時代』
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8138
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