学問空間

主に掲示板への投稿の保管庫にしています。
BY 鈴木小太郎

「京方御家人という新しい概念」(井原今朝男氏)

2016-12-31 | 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年12月31日(土)15時47分41秒

>筆綾丸さん
井原氏も書かれているように、かつては二条の善光寺訪問記事は虚構だ、などという説もありましたが、実際に行かなければ書けない地方事情を反映しているようなので、訪問自体は事実と考えてよさそうですね。
ただ、それが半年にも及んだというのはいささか妙な感じもします。
『問はず語り』巻四によれば、二条は正応2年(1289)3月、鎌倉に到着して間もなく病気になったそうで8月半ばまで特段の記事がありませんが、当時の貴族出身女性としては異常なほど健脚で、大旅行家といってもいいような二条にしては若干不自然であり、病気云々は鎌倉到着後の活動や政治的状況などを自伝的小説には書きたくなかったがための脚色のようにも思えます。
「辺土」での半年もの滞在についても色々考えたくなってしまいますが、判断材料は二条の記述しかないのですから、結局は「妄想」の類になってしまいますね。

ご引用の箇所の次のページ(p175)には、

------
 以上から、鎌倉中期から善光寺奉行人となり東条荘内の諸郷の一分地頭としてみえる信濃和田氏は平繁雅と同族の平基繁流であり、彼等は白河・鳥羽・後白河院庁の判官代・北面でありながら、鎌倉幕府が成立するといち早く頼朝の御家人となった。鎌倉時代になっても御家人である一方で、後白河院北面、段富門院蔵人、北白河院蔵人、四条院の諸大夫として連綿として公家政権に奉仕する中級貴族であったといえよう。平基繁流は御家人としては信濃平姓和田氏として登録されていた。このような長期にわたる公武政権との両属関係は、六波羅探題に奉仕する「在京御家人」や、承久の乱の際に公家政権側で戦った「京方武士」の存在とは異質であり、京方御家人という新しい概念で呼ぼう。彼らは京都にのみ居住したのではなく、地方にも「辺土にはすぎた」居館を構え、都鄙間の膀帯をもった地方の所領をもっていた。彼らは鎌倉御家人でもありながら、京都にも留住し院や女院の近臣として奉仕する院侍であり中級貴族でもあった。京方御家人は京都文化を鄙に持ち込み都鄙間を往復しつつ生活しており、中世地方文化の担い手でもあった。
------

とありますが、井原氏の「京方御家人という新しい概念」が本当に適切で、中世史研究の進展のために必要な概念なのか、それとも桜井英治氏によれば「用語をつくりすぎる」傾向のある井原氏が「天体の発見ではないのだから命名したからといって大した功績に」もならないにもかかわらず、また「大仰な用語を使うことによって、かえって失われてしまうものがあることを恐れ」もせずに作った奇矯な概念なのかは来年の検討課題としたいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小京都「長野」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8718
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「小川綱志氏の教示を得た」... | トップ | 「小物界の大物」について »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL