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BY 鈴木小太郎

後深草院二条が滞在した「高岡」の和田石見入道の屋敷

2016-12-28 | 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年12月28日(水)10時51分7秒

久しぶりに井原今朝男氏の「中世善光寺平の災害と開発─開発勢力としての伊勢平氏と越後平氏」(『国立歴史民族博物館研究報告』96号、2002年)を読み返しているのですが、これは実に優れた論文ですね。
全体の構成は、

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はじめに
1 川中島平の洪水災害と御厨開発
2 伊勢平氏による信濃・越後の所領開発
3 善光寺周辺の土砂災害と用水路の再開発
4 越後平氏諸流による信濃・越後の所領開発
5 鎌倉期における京方御家人の活躍
むすび
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となっていて、「3 善光寺周辺の土砂災害と用水路の再開発」の末尾近く、「鎌倉・室町期の六ヶ郷用水開削」という小見出しのところに『とはずがたり』への最初の言及があります。
『とはずがたり』は別にこの論文の重要ポイントではありませんが、個人的には非常に興味深いので、ちょっと抜き書きしておきます。(p166)

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 善光寺奉行人の一人和田石見入道仏阿(『吾妻鏡』文永2年11月20日条)は、東条荘和田郷の御家人和田氏一門であった。嘉暦4年の守矢文書には東条荘内狩田郷を中心にした和田隠岐入道一門、荘内和田郷には和田三河入道一門、長池郷に和田石見入道一門の存在が知られている。『諏訪大明神絵詞』には和田石見入道の古敵として信濃国住人和田隠岐前司繁有がみえる。この同族と推定されるものが、丸子町霊泉寺阿弥陀像胎内文書にみえる「前隠岐守平朝臣繁長本然」である。この一族は、「六条八幡宮造営注文」に「和田肥前入道跡」とみえ、円覚寺文書にみえる元亨3年(1323)北条貞時十三回忌では「和田隠岐入道」が馬1疋を寄進していることが知られる。八条院領東条荘の和田・狩田郷を中心に勢力をはった御家人和田氏は、隠岐・石見・三河・肥前を受領名とする同族に分派しており、善光寺奉行人を勤めたことがわかる。このうち、善光寺奉行人の和田石見入道の屋敷は、「高岡」にあったことが『とはずがたり』に記載され、東和田館跡がそれに比定する説が有力になっている。この高岡の屋敷は中道に接しており、西和田地籍では中道に沿った字「大道北」「大道南」の地名とならんで「ごちょう」「たかみ」という呼称地名が残っていた。善光寺への参道がこの館跡前を通っていた。西和田地籍にも「城前堰」「城」などの地名が六ヶ郷用水に隣接してのこっている。
 平安末期~鎌倉時代に東条荘和田郷や高岡が平姓和田氏の所領であったこと、高岡の和田石見入道の屋敷跡に隣接して尾張部地区への分水口があることなどからみても、この用水路の開削に鎌倉期の平姓和田氏が関与していたことは間違いあるまい。
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井原論文の「図4 善光寺平東部の地割・用水図」(p163)とグーグルマップを照らし合わせてみたところ、後深草院二条が滞在した「高岡」の「善光寺奉行人の和田石見入道の屋敷」の可能性が高い「東和田館跡」は、現在の長野運動公園野球場の付近ですね。
そして、そこから西側、善光寺への方向に「中道」を1㎞ほど進むと「ごちょう」「たかみ」と記された場所があり、そこに和田神社が存在しています。
井原家は「中世では信濃国和田郷で村の草分け百姓の本家と呼ばれ、父で三十三代目といわれ、和田神社の南に屋敷をもっていた」そうですから、これが本当だとしたら、井原氏のご先祖様は後深草院二条と会っていた可能性もありそうですね。

ちなみにグーグルで「長野 和田神社」で検索して、グーグルマップの「ストリートビュー」を見ると、和田神社の鳥居が出てきます。

>筆綾丸さん
>「編集担当者の責も免れまい」(桜井氏)
これも桜井氏が言っているだけですから、実際に『中世日本の信用経済と徳政令』を読んでみないと何とも言えないですね。
桜井氏だって別に完璧な人ではなく、小川剛生氏らと一緒に「義満が光源氏幻想を生きた」みたいなことを言っていたおっちょこちょいの一面もありますからね。

「自戒をこめて」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7275

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「戦闘的クリスチャン?」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8712
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