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BY 鈴木小太郎

諡号「顕徳院」が追号「後鳥羽院」になった理由

2017-05-26 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月26日(金)07時54分43秒

>筆綾丸さん
>「『徳』諡号と怨霊」は、懐かしい議論ですね。

私が『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について─』を開設したのは1996年で、歴史関係のそれなりに充実した分量の個人サイトとしてはかなり早い時期だったと自負しているのですが、野村朋弘氏は私よりも更に前に『鎌倉時代』を開設され、「諡法解」の元となる論稿も掲載されていましたね。
あれから二十年経ち、野村氏も今や「准教授」の称号の持ち主なので、昔のように「野村くん」などと気安く呼ぶことも躊躇われます。

久しぶりに野村氏の「『徳』諡号の示すもの」を読んでみると、後鳥羽が延応元年(1239)2月に隠岐で死去し、いったんは同年5月に「顕徳院」との諡号が贈られていたにも拘らず、仁治三年(1242)正月の四条天皇の頓死に伴なう政治的混乱の中で後嵯峨が皇位を継いだ後、同年6月に「後鳥羽院」との追号に改められてしまった経緯について、野村氏が、

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 しかし崇徳・安徳・顕徳・順徳の四帝のうち、顕徳は後嵯峨の登極と共に後鳥羽と称号を変更されてしまいます。この当時、承久の乱の勝利者である幕府側の重鎮は次々と死去し顕徳の恨み・怒りに因るものだとの風説が起きています。
 「徳」と云う美称を奉ると云うことは即ち、怨霊となる可能性が非常に高いとも云えます。それが故に顕徳から後鳥羽への「変更」は顕徳怨霊化を否定すると考えられます。
 鎌倉時代後期になると後鳥羽は朝廷内でも承久の乱をおこした悪王であるとの認識が出てくる事も怨霊ではないと云う捉え方が浸透したと表われでしょう。

http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/sigo02-3.html

とされているのは、ちょっと問題を一般化しすぎているような感じがしないでもありません。
諡号「顕徳院」から追号「後鳥羽院」への変更については川合康氏が「武家の天皇観」(『講座 前近代の天皇 第四巻』、青木書店、1995)において土御門定通の役割を強調され、また、川合説を受けて森幸夫氏も「あるいは定通に対し、幕府から改名への働きかけがあったのかも知れない。とすれば、その中心となったのは定通の義兄弟重時であったろう」などと言われているのですが(『人物叢書 北条重時』、吉川弘文館、2009)、私は森氏の見解には賛成できません。
後嵯峨践祚に貢献した土御門定通は屁理屈で周りを困らせる才能に恵まれた変人なので、仁治三年(1242)にはこの変人の不穏当な見解がまかり通ってしまったけれど、変人が宝治元年(1247)に死んでくれたおかげで、順徳院が佐渡で死去した建長元年(1249)には、やはり配流地で亡くなった天皇には「徳」諡号を贈りましょうという穏当な見解に戻った、それを主導したのは後嵯峨天皇だった、というのが私の考え方です。

「土御門定通は変な人」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5145
「後嵯峨院」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5147

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「建礼門院のこと」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8910
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