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BY 鈴木小太郎

『雲上明覧』を読んでみた。

2017-06-09 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月 9日(金)12時23分14秒

藤田覚氏の『幕末の天皇』に「江戸時代の公家名簿、朝廷の職員録ともいうべき『雲上明覧』」への言及がありますが、『雲上明覧』は「国会図書館デジタルコレクション」で読めますね。
藤田氏の説明は既に筆綾丸さんが5月18日の投稿「天皇の号が此度世に出て」で紹介されていますが、参照の便宜のため、改めて引用してみます。(講談社学術文庫版、p138以下)

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「天皇」号の中絶

 天保十一(一八四〇)年十一月十九日、天皇在位三十九年、引きつづき院政二十四年という長期間にわたり朝廷のトップに君臨した光格上皇が、七十歳の生涯を終えた。この上皇は、翌年の閏正月に「光格天皇」とおくられた。このことに関わって、つぎような落書が出ている(『藤岡屋日記』第二巻、一七〇頁、一九八八年、三一書房)

    柳営御追善の連歌
 天皇の号が此度世に出て     仙院
 はっと驚く江戸も京都も     貴賤
 陵はいかがいかがと有職者    古儀
 泉はちいと不気受なもの     仏法

 上皇に「光格天皇」と、「天皇」号がおくられたので、江戸でも京都でもみな一様にびっくりし、朝廷の儀礼や制度に明るい有職家たちは、山陵(天皇陵)を造ってはどうですかどうですかと勧め、そのためか江戸時代の歴代天皇が葬られた泉湧寺はちょっと面白くない、という「天皇」号おくられたことが引きおこしたいくつかの波紋を連歌の形式に託して表現している。
 上皇に「光格天皇」とおくっただけなのに、人々はいまさらなぜ「天皇」号が出てびっくりしたのだろうか。
 その理由はふたつほどある。江戸時代、天皇のことを通常は「主上」「禁裏(裡)」などと称し、天皇という語は馴染みのない呼称だったことがひとつの理由である。
 また試みに、江戸時代の公家名簿、朝廷の職員録ともいうべき『雲上明覧』の安政四(一八五七)年版を開いてみると、はじめの方のページの上段の欄に歴代天皇が載せられている。初代神武天皇から第六十二代村上天皇までは「……天皇」と記されているが、第六十三代の冷泉院から第百十九代の後桃園院(光格天皇の先代)までは「……院」という院号で、第百二十代の光格天皇からまた「……天皇」となっている。すなわち、村上天皇(在位は天慶<九四六>年~康保四<九六七>年)以来、五十七代約九百年のあいだ「天皇」号は中絶していたのである。八百七十四年ものあいだ眠りこんでいた古代の遺物のような「天皇」号の復活だったから、人々がびっくりしたのである。
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光格天皇の死去が1840年、村上天皇の死去が967年だから、引き算すれば874年ではなく873年ではなかろうかと思いますが、ま、そんな細かいことはともかくとして、『雲上明覧』を実際に読んでみると、「国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できる複数の書籍にも、版元の違いなのか、いくつかのバージョンがあって、「はじめの方のページの上段の欄に歴代天皇が載せられて」いないものもありますね。
藤田氏が閲覧したという安政4年版に一番近い、竹原好兵衛他4名が出版した安政6年(1859)の『雲上明覧大全』上下二巻を見ると、リンク先の「コマ番号」10から歴代天皇が載っています。
そして、確かに第62代村上までは、史実としては「院」号を贈られている宇多・陽成・朱雀(没年順)を含め、全て「天皇」ですね。
しかし、第63代冷泉以降、第119代後桃園院まで全て「院」かというと、唯一の例外として「八十一 安徳帝」とあるので(17コマ)、藤田氏の説明は不正確です。
なお、「八十四代 順徳院」「九十五代 後醍醐院」となっていて、後村上以降の南朝の天皇は無視されています。
さて、藤田氏は<五十七代約九百年のあいだ「天皇」号は中絶していた>と強調されますが、同じリンク先で24コマを見ると、伏見宮兵部卿貞教親王の系図の冒頭に「人皇九十八代崇光天皇皇子栄仁親王」とあり、「崇光院」以外に「崇光天皇」という表現もありますね。
同様に25コマには有栖川中務卿幟仁親王の系図の冒頭に「人皇百八代後陽成天皇皇子好仁親王」とあり、26コマの「桂殿」の系図の冒頭には「人皇百七代正親町天皇皇子誠仁親王」とあります。
ということで、『雲上明覧』を根拠に<五十七代約九百年のあいだ「天皇」号は中絶していた>と結論づけるのは無理が多そうですね。
藤田覚氏は史料の読み方が少し雑過ぎる感じがします。

「雲上明覧大全」上巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2603171?tocOpened=1

「天皇の号が此度世に出て」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8889
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