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BY 鈴木小太郎

山川出版社・新版県史シリーズ『岩手県の歴史』より(その1)

2017-07-11 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月11日(火)11時06分22秒

国会図書館サイトで検索した限りでは、『前工業化期日本の経済と人口』の書評は安場保吉氏のもの以外ないですね。
そこで、『前工業化期日本の経済と人口』の内容の検討はひとまず終えて、一般的には盛岡藩の天明飢饉時の状況がどのようなものだったと言われているかを紹介したいと思います。
入手の容易さも考慮して、最初は山川出版社の新版県史シリーズの一冊、細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏著『岩手県の歴史』(1999)から少し引用します。(p226以下)

『岩手県の歴史』
https://www.yamakawa.co.jp/product/32031

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9章 社会の動揺と学問文化
1 くりかえす飢饉と一揆

周期化する凶作・飢饉●

 東北地方の太平洋側では、初夏にヤマセとよばれる冷涼な北東風が毎年のように吹く。ヤマセは霧や霖雨をともなって、藩政時代にしばしば凶作・飢饉をもたらした。明治期以降になっても、ヤマセによる冷害が凶作をひきおこしたことがある。この被害をうけた農民の実態を、詩人の宮沢賢治は『雨ニモマケズ』のなかで、「サムサノナツハ、オロオロアルキ」と表現した。
 凶作の原因は霖雨・低温などによる冷害をはじめ、旱魃・風水害・病虫害・霜害などの自然的な災害を中心として、ときには野獣による被害の場合もあった。凶作を契機にして、食料が欠乏し多数の飢人と餓死者を出す現象を飢饉という。下野(栃木県)黒羽藩の家老鈴木正長は「きゝんは人間世界の大変なり」といって、貯穀の必要性を力説した。
 盛岡藩領の不作は江戸時代に大小あわせて九二回発生している。実に三年に一度の割合で不作にあっていた。減作率が前年比五〇%以上の凶作は、四年に一度の割合で発生し、さらに飢饉化した年は一七回を数える。これは一六年に一度の割合で大凶作・飢饉に襲われたということになる。「近ければ三、四十年の間にあり、遠くとも五、六十年の内には来るとおもうべし」(『農諭』)と指摘されているように、一般に近世の飢饉は周期的に来襲した。ところが盛岡藩の場合は、それを上回って発生頻度数では国内最高を示し、それだけ餓死者も多かったということになる。
 北奥に位置する盛岡藩は、領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野に占められて耕地が少なく、生産力も低い状態にあった。しかも盛岡以北は水稲経営の限界といってもよい地帯であった。にもかかわらず、石高制にもとづく幕藩制社会はつねに財政的基盤を水稲生産力に求め、畑作より水田を中心とした水稲経営を強制したために、盛岡藩では気象条件に左右されて、畑作よりも田作を中心に凶作の発生率が高くなった。そのうえ、盛岡藩では剰余部分をすべて年貢として収奪しようとしたので、農民の生活は苦しく、そのために凶作の程度は軽くとも、つねに飢饉に転化する恐れをはらんでいた。
 江戸時代の領主権力は、幕藩制的市場構造の特質に規定されて、飢餓移出ともいうべき領内米の江戸や上方への販売を余儀なくされていた。このことが飢饉をうみだす要因の一つでもあった。一方、凶作時に実施された大名領ごとの津留は、他領の飢饉をいっそう激化させた。また凶作や飢饉の対策にしても、それが領主単位で個別に行われたために、政策のいかんによっては飢饉の程度も大きく異なっていた。これらのことを考えあわせると、飢饉は幕藩領主支配のあり方とも深くかかわっており、そういった意味で前近代社会における人為的災害であったともいえよう。
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ひとまずここで切ります。
「あとがき」によれば、引用部分の執筆者は岩手大学教育学部教授(当時)の細井計(ほそい・かずゆ)氏ですね。
細井氏は1936年群馬県生まれ、1967年東北大学大学院文学研究科博士課程修了とのことで、語彙や文体から、いわゆる戦後歴史学系の人のような感じはします。
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