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BY 鈴木小太郎

渡辺浩『東アジアの王権と思想』

2017-05-12 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月12日(金)09時10分43秒

私は三十数年前、当時まだ四十代の、学者として一番頭が冴えている時期の三谷太一郎氏の講義を受け、その緻密な実証的研究の一端に触れたことがあり、また三谷氏が非常に真面目で誠実で堅実な人格者であることも知っているのですが、三谷氏が自己の学問人生の集大成として位置づけているらしい『日本の近代とは何であったか』にはあまり感心できませんでした。
キラーカーンさんが同書の如何なる点に疑問を持たれたのかは分かりませんが、私の場合は宗教と天皇制に関する部分に納得できない記述が多いですね。
「第四章 日本の近代にとって天皇制とは何であったか」は、単なる事実の指摘を超えた部分はほぼ全面的に賛同できない記述ばかりですが、三谷氏が明治前期の日本人の宗教観に関連して推奨する渡辺浩「「宗教」とは何だったのか」(『東アジアの王権と思想』増補新装版、東京大学出版会、二〇一六年所収)を読んでみたところ、これは良い論文でした。
渡辺浩氏の著作は今まで殆ど目を通していなかったので、これを機会にまとめて読んでみたいと思います。

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『東アジアの王権と思想 増補新装版』

儀礼という「演劇装置」が徳川支配を正統化した.儒学が体制教学であった中国・朝鮮との近似と相違を探りながら,近世から近代へと展開する政治体制の思想を剔抉する.「幕府」「天皇」など従来の日本史用語の思想性も衝き,斬新なパースぺクティブを提示.新論考「「宗教」とは何だったのか」を収録.
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-030162-6.html

また、次のような箇所(p83)は、別に三谷氏独自の見解ではなく、ある意味常識の範囲内の話ですが、深井智朗氏の『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』で「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」の異同についてそれなりに説得的な説明を聞いた後では、三谷氏の解説は何だか古色蒼然とした前世期の遺物のようにも思えてきます。

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 これに対して、後年ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは宗教社会学的観点に立って、ヨーロッパでの資本主義の形成をその内面的動機から説明し、神の栄光を顕現しようとする禁欲的で世俗内的なプロテスタンティズムの倫理にそれを求めました。利潤追求それ自体を目的とし、その目的にとって有効な手段を徹底的に追求するという資本主義の目的合理性は、逆説的に信仰のみを強調する宗教的非合理性によって説明されたのです。すでに確立されていたヨーロッパ資本主義をモデルとした日本では、関心の対象は資本主義の内面よりも外面、ウェーバーのいう「精神」よりも機能でした。スペンサーの社会進化論的観点に立つ実証主義的な社会学は、そのような日本の要請に沿うものだったのです。【後略】
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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の読み直しは今はちょっと荷が重いのですが、一度はきちんとやっておかなければならないなと思っています。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。
「確かに」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8880
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