飛耳長目樹明

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静岡県のある町史の文章の批判(2)

2016-03-28 06:17:11 | 日記
 知人から頂いたのは、第三編の近代の部分(535ページから546ページ)で、昭和戦前期の叙述である。
 本文は縦書きであるが、年月など数字の部分は洋数字にして紹介する。固有名詞のふりがなは省略する。

535ページ

 「1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件をきっかけに開始された日本の関東軍の満州統治と「満州」国の独立が、実は清王朝の末裔である愛新覚羅溥儀を帝位につけることで(ラストエンペラー)、政府の各部部長は満州族で組織しながら、次官級以下はすべて商工官僚岸信介、椎名悦三郎ら日本の高級官僚で固め、軍事的には関東軍が溥儀を操る文字通りの傀儡国家となった。」
 
 これで読者が分かるだろうか。
 たとえば「柳条湖事件」は、分るだろうか、これは関東軍による満鉄線の爆破事件である。老人たちは「柳条溝事件」として記憶しているかもしれない。「柳条溝」は「柳条湖」の誤報であった。


 「関東軍の満洲統治」の前に、全満洲の武力占領を説明すべきである。
 日本の高級官僚が行政を担当したことは確かだが、全権は関東軍にあり、これに満鉄や日本の財閥が密着していた。これは日露戦争で満鉄の経営権を日本が獲得して以来、徐々に拡大してきたことである。
 なお、岸の満洲国赴任は1936年、椎名は岸の部下であった。満洲事変(1931年)の5年後である。

 数行後に、日本の国際連盟脱退、「満蒙の危機を主張」とあるが、歴史の順序がまるで異なっている。
 「満蒙の危機」は昭和初年から宣伝され、1927年成立の田中内閣は、東方会議を開催し、基本政策を決定している。この時の文書が「田中メモランダム」(中国側の偽作説が強いが、わたしは藤井一行氏の本物説を支持する)であり、1928年の満州軍閥張作霖の爆殺事件がある。田中内閣は、その前年の1927年の金融恐慌で成立するが、すぐ山東出兵を行なっている。
 「満蒙の危機」は、この時期から唱えられていた。

 以下は次回に述べるが、この町史の筆者は、「満蒙の危機」を1931年ころから唱えられたように読み取れる文章を書いている。奇奇怪怪というか、支離滅裂である。








 


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