思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

短文感想⑤『歯車』

2017-09-22 17:07:43 | 日常
『歯車』は確か佐藤春夫が評価していたはずだが、『蜃気楼』と似た系統の作品だろう。引き続き「無気味」を感じる。度々現れる「歯車」は偏頭痛の前兆だと言われている。また、これは僕自身影響を受けているのだが、ここに描かれる「僕」と語り手の距離が離れているのが一つの特徴だろう。それがまた淡々とした雰囲気を作り出している。
  実際の出来事のように展開していくが、描かれる病的な有様は、錯覚と夢の入り混じった調子となっている。暗い話だが、どのような暗さかというと、ダウナー系とでも書けばいいのだろうか?  ストーリーの不条理さや被害者意識の強い暗さではなく、病的な自身の有様を静かに見つめ続けるような暗さだろう。ダウナー系と書いたのは、僕自身この静かな調子が心地良く思えるからだ。自殺直前の作品とはいえ、この作品の暗さは『人間失格』ともまた異なるように思う。静かな暗さだ。死ぬつもりなんだろうな、そういう前提の心地良い暗さだ。少なくとも構ってちゃんではない。主軸となる時間軸(出来事)を改めて振り返っている書き方だ。
  論文にもあるのだが、梶井基次郎との類似点も認められる。「歯車」の「僕」も丸善へ行き、小説を色々めくるのだが、いずれにも反抗的精神が起こる。また、短編を書き終えた「僕」は精神的強壮剤を求め銀座の本屋へ向かう。また、遠くへ行きたいという願望も梶井作品と重なるものがある。
  「屋根裏の隠者」とのやりとりなどは僕は「僕」側の考えに頷く。また、人通りの多い往来が不快なことや、特に知り合いに会ってしまうと堪えられない点も頷いて読める。だから努めて暗い往来を選び、盗人のように歩くのだ。

  愛読者とのやりとりが現在の芥川龍之介の扱いと重なって可哀想に思う。少なくとも「歯車」における「僕」はこの愛読者に絡まれることを好まず、特に「先生」と呼ばれることが不快でならない。その言葉の裏に嘲る何ものかを感じずにはいられないからだ。僕はどの作家でもそうだが、現在の扱いを知ったら改めて自殺してしまうんじゃないかと思ったりする。もはや商品となった「作家の顔」や「名前」は、むしろ、彼らが抵抗しなければならないものそのものだったんじゃないのか?  しかし、彼らはいつまでも「先生」でいるのだろう。色々なものにその顔や名前を取られて。

  最後に今後参考になりそうな表現をメモがてら抜き出しておく。
“僕は薄明るい外光に電燈の光のまじった中をどこまでも北へ歩いて行った。”
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 短文感想④『蜃気楼』 | トップ | 元来 »

コメントを投稿

日常」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。