思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

利己主義

2017-07-16 00:36:54 | 日常
前の記事で利己主義について書いたから、もう少し書いてみよう。僕はボランティアが嫌いだ。いや、嫌いとは言わないが、すすんで参加するやつを褒めるような気にはなれない。参加者が求めているものは物理的報酬ではなく、精神的報酬でしかないからだ。
  分かりやすく書くと、金を得る代わりに感謝を得たいということだ。それの何が悪いわけでもない。だからといって、金を得ないことより偉いわけでもない。どちらにしたって、自分の為に行うことでしかない。
  あらゆる行為は結局は自分の為にならざるを得ないのではないか?  そう考えたこともあるし、未だにその考えは変わらない。ただ、少し例外もある。たとえば、盲目の老婆が雪道を引っかかり横断歩道を渡れなかったとする。その時、咄嗟に助けようとするのは、利己主義とは言いがたいものがある。もちろん、お前がいい顔したいから助けたんだろう?  と考えられなくもないが、咄嗟であることが重要だ。ほとんど無意識に身体が動き出すのは、利己主義を超えた何かなのかもしれない。

さて、小説を書く理由にそんな無意識があるとは到底思えない僕には、結局突き詰めると、自分の為以上のものはないと思うのだ。もちろん、それは小説を書くことだけではなく、あらゆる目的がそこに集約されることだろう。突き詰めた結果、改めて何故書く必要があるのかを考えなければならない。それは自分の何を満たすのか、それが大切だ。
  他人の為と言いのけるより、自分の為と言いのける方が律儀で、その理由がより素直な方が小説は書けると思う。自分を認めてやらないことには、ずっと煩悩ではないけど、一つの悪い癖に縛られ続けはしないだろうか。そんなことを人の小説を読む時に感じることがある。
  少なくとも、人の為なんて思うより、素直に自分の為と受け入れた方が賢いものだ。その他人はあくまでも自分の分身に過ぎないか、承認欲求を満たすものでしかないんじゃないか?
  もちろん、書く理由と、その作風は一緒にしてはいけない。何よりしなければならないことは、自分の作風を確立させること。個性を持たせられないと、書く理由が満たされもしないのだ。自分だけの文学の確立。修行とか、鍛錬とか、そんなことを繰り返した果てに見つける自分だけの個性を獲得すること。僕はそれが快感なんだけど、未だにその個性はやっぱり元の影響を強く受けているように思う。
  くれぐれも社会や人の為だなんて思って書かない方が良い。独りよがりに理由をつけても、分かっている人は冷笑するだけだ。プロレタリアートならともかく、と書こうと思ったけど、政治も所詮くだらないからいいか。どうせ死ぬんだぜ。だからこそ、この人生の中に、自分の納得できる本当に良いものを、一つでも作り上げたいんじゃないのかね。打ち上げ花火か、線香花火か、いずれにしたって、消えていくものさ。芸術はその輝きを求めるものではないのかね。
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