思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

今日の出来事

2017-08-13 01:33:09 | 日常
S藤ときたらたいしたもんだ、この一文でオツベルが浮かんだ君は中々の宮沢賢治好きだろうけど、僕はそうでもない。
  どうも今日は彼に妙に噛み付かれたのだが、彼自身はそのつもりはないと思っているらしい。僕としては、その口ぶりとか、笑みの仕方だとかに悪い印象を受けてしまうので、とりあえず、受け流すなり、それが何故そうなのかを尋ねてみたりしたのだが、とりあえず、彼の文学論としては次のことが挙げられるのだろうか?
1、中村光夫が素晴らしいこと。
2、感覚ではなく理論的である方が良いこと。
3、自然主義は失敗しているということ。
4、自然主義はリアリズムに沿っていること。
2や3も中村光夫を土台としているらしく、僕もそういう人間だということを彼は言いたいらしい。いまいち分かりかねるのは、それを指摘した上で認めさせたいのか、悔い改めろとでも言いたいのかよく分からないのだが、気にしてもしょうがないか。彼の文学論は中村光夫なわけで、僕の文学論は創造していきたいと願うだけで特別何かあるわけでもない。リアリズムは大切だと思うけど、自然主義のリアリズムって、一応客観的描写に努めるというのが根底にあったはずだけど、そういう意味では僕は白樺派の考えの方が近いと思っている。主観的な描写から幻想・幻覚へ入り込むことが面白いと思うけど(それが幻想や幻覚をより現実世界からの飛翔としての効果を強めるんじゃねえの?  と思っている)いかんせんこの話は読む分野の違いでもあるので不毛だ。梶井基次郎にしても芥川龍之介にしても、土台は志賀直哉なんだよね。中村光夫を信仰する人とは犬猿にならざるを得ないと思うんだけど、わざわざ噛み付く必要はどこにもないだろう。といっても、信仰対象が余程素晴らしいものほど、その教えを信じ切ることができるものなので、彼の中では相当中村光夫は素晴らしい批評家なことは分かった。とりあえず、風俗小説論は素晴らしいものらしいので、S藤君に気に入られたければ読んでおくことをすすめる。僕はあまり興味がないので、感想をよろしく頼む。
  当然のことだが、価値観とは人と被らないからこそ価値観と呼ぶのであって、その違いで争うこともあれば、発達もしてきたに違いないのだろうが、ともかく僕が求めるのは、その思考の末にたどり着いた結論であって、引用を聞きたいわけではない。読むことで理解が深まるのは違いないが、読まないことによる余地も残されているということ。訓練された鳥を飼うのと、野生の鳥を手懐けるのとでは、少し勝手が違う。未熟だとしても過程の話が面白いのであって、引用された理論を持ち出されては、僕自身それを頷きはするものの、それで君の意見はどうなんだね?  と尋ねたくなる。批評家がどう言おうと、小説家がどう言おうと知ったことではない。僕は今、君と話している以上、君の意見を求める。それが無いなら無いで仕方がないが、それならそれで批評家の意見として心に留めておくといい。
  こう言ってはなんだが、何故好みの作品だけを読まず、噛み付くのだろうか?  自分が優位であることを伝えたいのは分かるし、よく読んだ知識を蓄えた方が偉いと思うのも勝手だが、意外と受け答えに神経を使っていることは分かってもらいたい。そうではないと否定してもらってもいいが、人は自分と他人を合わせて「自分」となる。君ならよく分かるはずだ。
  どうも愚痴っぽくなっていけない。本来は頷いてさえいればいい話だが、どうも一方的に気を使わされた気分なので書かせてもらった。単純な話だが、S藤君との話の合わなさというのは、互いの知識に対する定義が噛み合わないこと(それは僕が自分の作品のことを伝えることが苦手なせいなのだが)の他に、読者と作者の関係にも似ているかもしれない。彼が小説を書かない理由は、確かあまりにも誰だったかの小説が上手いので書く気がなくなったとか言ってた気がするのだが、その精神性の違いが大きいのだろう。小説書きなよ。評論読むからさ。
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