思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

完成

2017-10-10 13:53:24 | 文章
時間がかかった。といっても二ヶ月ぐらいだろうか?  三十枚ほどのものを一つ書き上げた。こうするという予定通りにはならないのが面白いところだが、もう少し整えてみる必要はあるだろう。それが終わったら次の作品だ。
  次は並行して二つのものを書くつもりだ。一つは放置していた膜の話を。もう一つはおかしな話を。どちらにしても、今回終えたものからは文体を大きくずらしてみたいところだ。

五島軒

2017-10-10 07:55:27 | 文章
何時ぞやに書いたエッセイだ。エッセイとはいえ、整える為には嘘が必要なんだなぁと改めて思った。僕は別にカレーの注ぎ方に何の拘りもないのだ。



  いつから神を信じなくなったのだろう。もうそれがあまりにも当然となっているせいで、そんなことを考えることが新鮮だ。初めは多分、親との確執とか、周囲との倫理観の違いとか、そんなところから祈ることに疑問を抱いたのだろう。
  僕は小学生から中学生まで侍者をしていた。侍者とは法衣を着て、ミサの時、神父の手伝いをする役職だ。そういえば、少なくとも、侍者をしている最中から他の信者を不思議な気持ちで見つめるようになっていた。なぜ人は神を信じるのだろう? そんな疑問は信者に尋ねられるものでもない。
  あれから十年ぐらい、その頃の思い出を異文化として受け止めてきたが、今思うとそれ以上に大切な何かがあったような気もする。
幼い頃は、教会の鐘が鳴らす十二時の合図に喜び、昼御飯は何を食べるのかと楽しみにしていた。まだ元気だった祖父と五島軒のカレーを食べに行くからだ。祖父はよくフランスカレーを頼んでいたように思う。白いテーブルクロスの上で対面する銀のスプーンと、六つに仕切られたガラス製の薬味入れ。その薬味入れには小さなトング、福神漬け、紅生姜、乾燥玉ねぎ、ピーナッツが入っている。祖父はカレーが来るまでの間、ピーナッツをつまんでいる。僕は銀やガラスが反射させていく光の方向を目で追っていく。
  カレーは魔法のランプのような容器に入れられて出てくる。それを平らに盛られたご飯の上に注いでいく。僕はかけることそれ自体が楽しみで、その注ぎ具合に自分なりの美学を求めていた。祖父の注ぎ具合は、中々上手なものだった。それはきっと、祖父に何か拘りがあったからではなく、何も考えず、ただカレーを食べたくてかけたからだろう。僕は一度も自分の納得できる盛り付けを出来た試しがない。
  一昨年、久方ぶりに五島軒へ行った。僕はその時も上手くカレーをかけられなかった。一緒に来ていた友人は上手いと言ってきたが、その言葉が何故だか、僕の性には合わなかった。その頃はもう神なんてすっかり信じてもいなかった。だか、僅かに何かを信じているような、そんな気がわだかまりとなっていた。
  最近、それが明確となって、説明することができるようになってきた。それを表立って書くのは恥ずかしいので止すが、あのカレーの注ぎ具合から、僕はもう神を信じず、何か別のものを信じていたのかもしれない。また、五島軒へ行きたい。今度こそ、僕が納得させる盛り付けをしてみたいものだ。