思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

自己嫌悪

2017-09-07 01:22:22 | 日常
自己嫌悪をしたことはあるだろうか?  誰しも一度はあるだろうと思いたいところだが、それはどんなものだろうか。
  恋人はとにかくこの自己嫌悪が激しい方だが、身勝手な自己嫌悪は結局エゴの押し付けでしかないことを昔の女性に教えられたことがある。それは今思えばそうなのだと思えることだから良いのだが、当時の僕もまた、この身勝手な自己嫌悪に陥りやすかったのだ。
  快も不快も、その根本にはそれを感じる肉体の存在が必要不可欠で、そうなるとあらゆる感情は自分が存在するから発生するものだと考えることもできる。それが自己嫌悪の時の考え方なのだが、問題はその自己嫌悪から逃れられないでいると面倒くさいということだ。
  17ぐらいの頃は、かれこれ二年間それで苦しんでいた。療法は結局その当時の恋人と別れることだったのだが、やっぱり精神の安定には不安定の原因を切り離す必要がある。
  自殺について考えたこともある。もちろんそれは特別なことではない。誰しも色々なことに面倒くさがって死にたいと願うこともある。それが無い人は余程逞しいか余程の愚か者だ。それにしても、痛みは恐ろしいものだ。死ぬことを望んだとして、それを実際に行えた人は中々勇気がある。僕も何度かそんな機会はあったが、痛みを受け入れる気にはなれなかった。
  自己嫌悪は他人を優しくするとは言い切れないと思ったが、それは自己嫌悪のあり方の違いなのかもしれないとも考えた。つまり、ルサンチマン的な自己嫌悪と、ただただ怠惰な自己嫌悪とでは、全く勝手が違うのかもしれない。嫉妬心から生まれる自己嫌悪は、もしかすればそれを跳ね除けるだけの可能性もあるのかもしれないが、同時に攻撃的な性格になりそうな気もする。怠惰な自己嫌悪とは、結局人を責めるだけの自信もない臆病者の思考でしかなく、他人がどうだろうと解決される類ではない。どちらも自分の問題だが、他人と比較することで満たされるか、されないかの違いがあるように思うのだ。もちろん能力があれば、前者の方が解決はしやすいだろう。
  昔は恨み辛みで自殺してやろうと考えたこともあったが、今思えばくだらないことだ。そんなものは何の解決にもならないし、その怨みや辛みの対象に何ら影響も与えない。今再び死を望むとすれば、それはただ疲れ果てたからだろう。
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