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石井のSF書評 第15回「星界小品集」

2006-10-15 22:12:18 | 石井のSF書評
プロシア(現ポーランド)の作家、挿絵画家。本書は想像上の、異星生物の珍奇な生活や社会を題材とした短編集であるが、SFというよりもむしろ奇想文学に類する作品であると感じる。同じ時代、すでにH・G・ウェルズの「宇宙戦争」が刊行されており、科学小説というジャンルはできていたにも関わらず、それらとは、袂を分かち、宇宙や異星人を題材にしているにも関わらず、科学的知識と呼べるような素材はまったく介さない作風は「宇宙文学」と称される。私としては、シェーアバルトは宇宙や異星人という題材にテーマをこめて何かを語るのではなく、言葉遊びの一部として宇宙や異星人をとりあげているに過ぎないと感じる。また、各短編も、戯曲のとある一幕といった感覚で、それ自体でストーリーが完結しておらず、評価をくだしがたい作品だと感じた。

原題:「Astrale Novelletten」1912
著者:パウル・シェーアバルト(1863-1915)

(C)工作舎

石井のSF書評 第14回「ニュー・アトランティス」

2006-09-13 11:46:41 | 石井のSF書評
17世紀イギリスの神学者、哲学者、法律家、フランシス・ベーコンの描くユートピア物語。
太平洋に浮かぶ孤島、「ベンサレムの島」に漂着した主人公はそこで、「サロモンの家」という、あらゆる知識、技術を集約したアカデミーを中心とし、キリスト教の教義にのっとったて貞淑な国民を持つ理想国家の姿をみる。
「サロモンの家」は、ベーコがとなえる、「知識は力である」という信念にのっとった、学術研究組織の理想像であり、ベーコン自身、政府の要職を辞した後、パブリックスクールの名門、イートン校の学長をつとめたことから、本書を学術研究組織の実際の青写真として描いているといえる。
「サロモンの家」のしくみで重要なことは、発明、技術、発見の中で、それを世に出すべきかどうか、真に人類社会の発展に寄与するかどうかを審議することであり、場合によっては、それを政府にすら明かさないというものである。
つまりは発明を行なう科学者は、自らの行ないを戒める(ベーコンに言わせれば、信仰心を持つ)ことで、悪徳を助長するような発明、人類の脅威となるような発明を自粛し、真の科学の発展が促進される。というものである。ここでいう「科学の発展」という概念自体、単に、より豊かになりたいという、利己的な欲望によるものではなく、「神」がこの世界を創りたもうた御技をより理解することによって、さらに「神」の偉大さを知るという目的のために行なわれるものであり、根底に大きく「信仰」という概念が存在している。
このように科学のありかたと、宗教との関係を唱えたものとして、本書は大変興味深いのだが、残念ながら未完の作品である。

原題:「NEW ATLANTIS」1627
著者:フランシス・ベーコン(1561-1624)

(C)岩波書店

石井のSF書評 第13回「世界の複数性についての対話」

2006-09-12 18:25:48 | 石井のSF書評
著者は、17世紀フランスの著述家。本書をSFに分類することができるかには考える余地があるが、当時最先端の天文学を中心とした科学的知識に根ざして書かれた作品であり、原題においても充分に読み応えのある作品であるため、紹介する。
内容は、天文学者の主人公が、サロンに集まる貴族の御婦人方に、最新の天文学の知識をもとに太陽系のありようを、科学的知識の基礎がない人にもわかるように、七夜にわたって、説きあかしていく物語である。
火星や水星、はては土星にいたるまで太陽系の星々にそれぞれ異なった「人類」が存在している証拠を、推理と考察によって明らかにしていく。そのあざやかな思考実験が平易な文章で語られ、まるでおとぎ話のような世界をつくりだしている。
出版当時、サロンを席巻し、ベストセラーとなった。
ジャンルとしては、「複数世界論」(地球以外にも生命、文明が存在し、宇宙は人間を中心としてなりたっているわけではないとする思想体系。哲学、宗教などにも関連づけられる)に分類される本書であるが、読み物として大変優れている。

原題:「」1686年
著者:ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル(1657-1757)

(C)工作舍

石井のSF書評 第12回「顧みれば」

2006-09-11 13:59:34 | 石井のSF書評
ロシア人の作家、ザミャーチンの描いた、共産主義社会を批判したアンチユートピア小説。
1920の発刊以来ソ連時代は本国では発禁になっていた。(ロシア革命でロマノフ王朝がたおれたのが1917年、レーニンがソ連を建国したのが192年)
政治、経済、社会のあらゆることが政府によって統制された近未来社会。セックスに関しても「ピンク・チケット」という券を、政府が決めた日に各自に支給し、政府の決めた相手とおこなう。その中で、主人公「D-503」の男女関係を通して、全体主義国家の陰鬱さがえがかれている。
ジョージ・オーウェルの「1984」と並び称される、アンチユートピア小説の傑作として名高い本書であるが、お決まりの全体主義社会の構図があまりにもありふれたものにうつってしまい、(むしろこの本が源流に近い場所にあるのだが)現在の視点で見ても色あせない、独自の世界観や設定を読み取ることができなかった。
全体主義社会の中の男女の関係を主軸に物語が展開していく本書であるが、ジョージ・ルーカスが学生時代に作った映画の長編であり、商業デビュー作である、「THX-1138」(1971年公開)にイメージが近いと感じた。

原題:「Мy」1920
著者:エフゲニー・ザミャーチン(1884-1937)

(C)岩波書店

石井のSF書評 第11回「顧みれば」

2006-09-06 17:31:10 | 石井のSF書評
1887年のある朝、目覚めると、そこは2000年の世界になっているという設定ではじまるユートピア小説。
2000年のアメリカは、全体主義におちいることなく、理想的な社会主義を実現している。人々がまったく不平をもたずに、ある程度の自由裁量はあるとはいえ、決められた労働を決められた分量、おこない、それで社会全体が満足しつつ経済が還流するという、夢物語。20世紀以前に描かれたユートピア物語はまったくもって理想論だけでなりたつような物語が多く見られるが、本書では、最後にこれはすべて主人公が見た「夢」であることが判明する、まさしく「夢物語」であることを体現している。
本書で語られる2000年におけるボストンの生活では、クレジットカードや、今日の有線放送やインターネットにあたるような、電話を利用した音楽の配信サービスのような事柄が登場しており、豊かな生活と科学技術の発展が共存している様がえがかれている。20世紀以前に書かれたユートピア小説でこのように、科学技術を肯定するユートピア作品はまれであるといえる。これに反して、ウィリアム・モリスが本書の刊行された2年後に出版した「ユートピアだより」では、科学技術をいっさい排除したことによってなしとげられた、美しい芸術家たちのユートピアの姿が描かれており、モリスは、「ユートピアだより」をベラミーの書いた本書に対する反論として書いたという説もある。
また、本書は、大ベストセラーであり、19世紀当時のアメリカにおいて発刊後数年にして百万部以上を売り上げている。

原題「Looking Backward」1888
著者:エドワード・ベラミー(1850-1898)
(C)岩波書店

石井のSF書評 第10回「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」

2006-09-04 18:43:00 | 石井のSF書評
第3次世界大戦後の放射能灰が降り注ぐ世界を舞台にした作品。限りなく人間に近く、「フォークトカンプフ感情移入度測定法」※という、対面での問答によってしか、人間ではないことを判別することのできないアンドロイド、「レプリカント」と、人間を殺害し続ける彼らを追う人間の刑事、デッカードを通して、「人間とはなにか」という問いかけをおこなっている。人間とアンドロイドの比較や精神、意識、アイデンティティーの問題に関しては、アイザック・アシモフをはじめとするロボットSFの先駆者たちが繰り返し描いてきたテーマだが、本作は小説よりも1982年公開の映画「ブレードランナー」がSF界に与えた影響が大きい。アジアンテイストを多分に盛り込んだ無国籍風な町並みと人々、「漢字」の使用、この作品により80年代には、「ブレードランナー」と世界観を共有してしまっているようなサイバーパンクSFが多数描かれた。特に、シドミードのデザインしたスピナー、タイレル社社屋などは、のちに続く多くの作品にまったくそのままの姿で模倣されている例をよく見かける。「近未来=ブレードランナーの世界」という図式まで作り上げてしまったのではなかろうかと思わせる、世界中にカルト的心棒者を有する傑作。
※質問をする人間の判定員と、隔絶した場所に、回答をする機械と本物の人間を用意し、問答を繰り返した結果、判定員が、どちらが本物の人間であるか区別がつかなかった場合、その機械は「思考」している。
とする、計算機科学の父アラン・チューリングが1950年に提唱した「チューリング・テスト」と呼ばれる理論が、この、人間とアンドロイドを識別する際に、質問の応答と表情の変化などをもとに、「人間の判定員」が判断をくだす、「フォークトカンプフ感情移入度測定法」の、アイディアの起源であると感じる。

原題:「Do Androids Dream of Electric Sheep?」1968
著者:フィリップ・K・ディック(1928-1982)

(C)早川書房

石井のSF書評 第9回「グレイベアド」

2006-09-03 21:07:47 | 石井のSF書評
遠未来の地球の姿をえがいたSF「地球の長い午後」で知られる、オールディスの近未来SF。
放射能の影響により、人間に子供がうまれなくなってより50年後の世界を描いている。
世界の平均年齢は70歳にたっしており、一番若い者でも50歳をすぎている。主人公はほぼ最後にうまれた世代の、50歳代なかばのひげ面の男。老醜をさらし、生にしがみつく人々の狂気をひたすらに暗く描写していくが、最後に、放射能の影響をうけず、人知れず山野で繁殖していた人類のうちのひとり、シャモイという少女が発見され、主人公の夫婦に保護されるという、希望を提示したかたちでおわっている。
この作品の中で、主人公が「最後の世代」にあたる自分たちが、下に続く世代がいないがために、死ぬまで、社会的には「若者」としていられる立場を幸運であるとしている点が興味深かった。
人類に子供がうまれなくなるということをメインテーマとしてあつかったSFは、あまり多くはないと思うが、(諸星大二郎の漫画「ティラノサウルス号の生還」1973年など)本書はそのさきがけではないかと思う。

原題:「GLAYBEARD」1964
著者:ブライアン・W・オールディス(1925~)

(C)創元SF文庫

石井のSF書評 第8回「地球の長い午後」

2006-09-01 18:21:57 | 石井のSF書評
SFのオールタイムズベストには必ずといっていいほどランクインしてくる名作。
著者は、映画「A.I.」の原作「スーパートイズ」の作者としても知られている。

太陽が膨張し、なおかつ地球は自転周期の変化によって永遠に 太陽に片面を向けてめぐり、太陽に向いた面は温暖化効果によって巨大な植物の繁茂する世界となった遠未来が舞台。
人類は文明を失い、体格も小さくなりながらも巨大植物の幹や枝のはざまでほそぼとと生き続けており、補食性の植物の脅威におびえながらくらしている。空にむかって網をはり、月にまでわたる、全長数kmの巨大なクモのような動く植物、「ツナワタリ」、人間の脳に寄生し、高い知能を持って人間を意のままにあやつるキノコ「アミガサタケ」これらの異様な生物たちは、すべてかつて生物の進化がアメーバのような単純なものから、脊椎動物と無脊椎動物に分かれ、ついで魚類、両生類、は虫類、鳥類、ほ乳類と、細分化しながら進化していった過程を逆にたどっており、自由に動きまわり、動物と区別のつかない植物たち、人間か動物か区別のつかないさまざまな獣人たちが登場する。
この流れは、宇宙がビッグバンにはじまり、拡張を続け、ある時点から収縮してもとの無の状態に戻るとする宇宙論にも通ずるものであり、また大乗仏教の語る宇宙観、成劫(形成=ビッグバン)・住劫(拡張)・壊劫(収縮)・空劫(無)という四劫とも同じであり、すべては流転し巡り続けるという考えにねざしたものである。
この世界観は、のちに多くの後に続く作品に影響をあたえ、特に椎名誠はSFの中で最高の作品と称し、
「アドバード」、「武装島田倉庫」「みるなの木」「水域」等、オールディスの世界観を踏襲したような作品を複数執筆している。
また、近年では、週刊モーニングに不定期連載している菅原雅雪の漫画「暁星紀」は、世界観から登場する生物にいたるまでの多くを本書になぞらえており、「暁星紀」は本書のコミックス版だと評されることも多い。



原題:「HOTHOUSE」(1962)
著者:ブライアン・W・オールディス(1925~)

石井のSF書評 第7回「ユートピア」

2006-08-31 22:36:51 | 石井のSF書評
16世紀、イギリスの作家、トマス・モアの描いた、数あるユートピア物語の先駆け。ユートピアはトマス・モアの造語であり、ギリシア語のoutopos(ouは否定、toposは場所)を語源にしている。これは「どこにもない場所」という意味であり、トマス・モアは架空の理想郷としてユートピア国を描いた。
本書では、ユートピア国の、政治、風俗、文化、教育、経済などについてことこまかに書かれているが、内容は、「成功した社会主義」といえるものである。
ユートピア国では社会の構成員全体で、生産と配分を共有することにより、需要と供給が常に最善の状態で保たれているがゆえに、無駄な生産、労働の必要がなく、豊かな社会が滞りなく営まれている。だが、ここに描かれている、ユートピア国の国民は、美徳のかたまりのような人々で、奢らず、怠けず、欲をかかず、ただひたむきに生産にはげみ、日々の暮らしを送ることそのものに喜びを感じるという、まったくもって理想的な社会主義の構成員として描かれており、トマス・モアの論じる、様々な無駄がなく、競争のない、経済活動などの成り立ちは、この理想的な人々の「善の特質」に、最終的にはゆだねられているにすぎず、現在の観点から読んでいくと、まったくの夢物語としてうつらざるを得ない。
本書ではじめて示された、架空の国家の姿を通して、現実の社会を風刺するという手法は「ユートピア文学」というひとつのジャンルとして確立され、「アンチ・ユートピア(ディストピア)文学」も含め、現在にいたるまで、数多くの物語が描かれている。

原題:「Utopia」(1516)
著者:トマス・モア(1478-1535)

(C)岩波書店

石井のSF書評 第6回「ユートピアだより」

2006-08-30 22:10:09 | 石井のSF書評
詩人、工芸家、装丁作家、装飾デザイナーとして有名なウィリアム・モリスのユートピア物語。
ウィリアム・モリス本人を思わせる主人公が、ある朝目を覚ますと、そこは200年後(21世紀)のロンドンであり、そこは人々が喜びのもとに労働を行う、工芸家、芸術家たちのユートピアであった。機械産業文明は捨て去られ、工芸家の手による、手作りの建築物や工芸品のみに価値があるとされ、19世紀当時にすでに、工場排水によってよどみきっていたテムズ川の流れは澄んだものになっていた。
その世界における社会の成り立ちは「成功した社会主義」といえるもので、そこにはもはや、通貨は存在せず、驚くべきことにお互いがお互いに必要なものを提供しあうことによって(物々交換の意ではなく、人々は必要なものを必要なときに必要なだけ、わけてもらえるという構造)人々の生活は成り立っていた。それは、人々が、野良仕事であれば野良仕事、学問であれば学問と、それぞれに好きなことを好きなときに好きなだけ働いているだけで、社会活動が滞りなく営まれているという、SFというよりも、むしろ夢物語、ファンタジーと考えたほうが良い社会構成である。
その社会で人々は都市部に集中してあくせくと働くのではなく、農村部に適度に散らばって済み、各々が中世の農村のような生活をしており、現在のアメリカ、ペンシルバニア州やオハイオ州に暮らす、アーミッシュたちの生活を想起させる。
本書は手工芸を愛する、工芸家としてのウィリアム・モリスが、イギリスの機械万能主義への批判をこめて描かれているが、結末が主人公が「夢を見ていたと感じる」ことから、モリスの夢想がまさに夢物語にすぎないというアイロニーとなっていると感じる。

原題:「News from Nowhere」(1890)
著者:ウィリアム・モリス(1834-1896)
(C)岩波書店