中世前期戦国時代の東国と河越合戦

鎌倉府から河越合戦に至る東国の戦乱について

文明九年の長尾景春の乱(1)~勃発まで

2016年10月08日 12時28分34秒 | 文明九年の長尾景春の乱

 文明九年正月十八日(1477年2月10日)、長尾景春の乱が勃発した。
 不穏な動きを見せていた山内上杉氏重臣の白井長尾景春が、主君である山内上杉顕定に対し、遂に武力行使に踏み切ったのである。享徳の乱の最中の事であり、五十子に在陣していた山内上杉氏以下の上杉方諸将は、この攻撃に不意を衝かれ、一斉に陣を棄てると三々五々利根川を渡って北へと敗走した。
 上杉方が支配していた西関東各地では、景春に与同する二、三千もの傍輩(ほうばい)・被官が蜂起し、関東西部の広域にわたる上杉方の連絡網は寸断された。
景春は見事に初動を制したのである。

 当時、長尾景春の主家である山内上杉氏は享徳の乱を戦っていた。叛乱を起こされた山内上杉氏は享徳の乱の当時、上野・武蔵・伊豆の守護であり、関東管領職を家職とし、関東の政治機構においてはナンバー2の地位にあった。
 基本的に室町幕府は東国の支配を鎌倉に本拠を置く鎌倉府に委ねており、鎌倉には足利将軍の一族(二代将軍義詮の弟・基氏の系統)が鎌倉公方として御座し君臨していた。鎌倉府はこの鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の両者が協力する事で、関八州に伊豆・甲斐を加えた十カ国を支配する体制であった。

 しかし享徳三年暮に鎌倉公方足利成氏によって先々代の関東管領山内上杉憲忠が謀殺されると、成氏も上杉方もともに軍勢を催して、永い戦乱に突入した。これが享徳の乱である。
 乱の初期に鎌倉公方足利成氏は、古河に移座して拠点とし、古河公方を称した。一方の山内上杉氏は殺害された管領・憲忠の後継を立てるとともに幕府に支援を要請、幕府は古河公方足利成氏の弁明にも関わらずこれを朝敵と定めて続々と幕軍を下し、更には古河公方に替わる新しい東国の支配者として伊豆に将軍の御連枝・堀越公方足利政知を下向させた。
 堀越公方の存在は古河公方にすれば自身の全否定につながるから、戦乱は妥協点を欠いていた。やがて上杉方は北武蔵の交通の要衝・五十子を本陣と定め西関東を、古河公方はその名の通り古河に本陣を置いて東関東を、それぞれ支配しながら一進一退の攻防を二十年以上にも及んで続ける事となった。

 白井長尾景春はその享徳の乱の一方の大将である山内上杉氏の重臣である。父は長尾景信で、祖父長尾景仲から二代続けて山内上杉氏家宰職にあった。
 家宰とは大名家臣団のトップとされる地位で、大きな権限を有する。中でも特に大きなものは軍事指揮権や税の徴収、傍輩の進退権にまつわるものなど多岐に渡り、要するに武士の根幹に関わる問題を扱う事の許された職務であった。それだけに家宰職は山内上杉氏筆頭被官である長尾一族から選ばれるのが通例であった。

 山内上杉氏の重臣たちは、文明五年六月二十三日(1473年7月27日)に家宰白井長尾景信が死去すると、翌文明六年になって後任に長尾一族の最長老・惣社(そうじゃ)長尾忠景を選んだ。これは山内上杉氏重臣の寺尾礼春(らいしゅん)が主導した人事であったという。
 寺尾礼春は伊豆守護代も務めた宿老であるとともに、家臣団の中でも長老格である(顕定66)。当時山内上杉家の当主・顕定はまだ二十歳そこそこであったので、家宰職の決定には家臣団の総意というものがより大きなウェイトを占めたものと思われる。

 その長尾忠景は当時五十歳代、歴代の家宰職と比べても長老というに相応しい年齢である(戦国期山内152)。また惣社長尾氏自体も忠景先代の養父・忠政の代に長く家宰職を務めた系統であった。惣社長尾忠景は先代家宰職である白井長尾景信(景春の父)の弟であり、惣社長尾氏先代の忠政の子が早世した事によって惣社長尾氏に養子として入ったものである。従って景春からすると忠景は叔父にあたっていた事になる。

 長尾景春は家宰職を自分ではなく叔父の惣社長尾忠景が継承するという決定に、猛反発した。既に父・景信とともに戦地に赴き活躍していた景春は、家宰職継承を確信していたという事だろうか(顕定67)。
 だが、そもそも山内上杉氏の家宰職は、別段世襲の役という訳ではなかった。これまで家宰職には、
 ・長尾氏惣領家(但馬守家)の当主
 ・長尾氏惣領家の有力庶家
 ・武蔵国守護代にある長尾氏長老
が就任していた(景仲190)。
 寧ろ傍流である景春の祖父・白井長尾景仲と父・景信が二代にわたって世襲していた事が異例である。そして祖父・景仲の家宰職を父・景信が継承した事についても世襲すべくして世襲になった訳ではなく、たまたま白井長尾景信が家宰職を継承すべき条件が整っていたからに過ぎない(景仲191)。
 景春の場合は長尾氏惣領家ではなく、武蔵国守護代でもなく、三十一歳(景春28)と長老というに相応しい年齢でもなかったのであるから、家宰職を継承できなかったのは寧ろ当然の事であったと言えよう。と言うよりも叔父の惣社長尾忠景の方が武蔵国守護代で長老格なのであるから、条件を明瞭に満たしていたのである。

 それでも景春には惣社長尾忠景の家宰職就任はどうしても受け入れられないものであった様だ。
 父・長尾景信の死の翌年、文明六年に惣社長尾忠景が家宰職を継承すると、直ぐに上杉方の本陣である五十子陣中に景春党の雑説(謀反の噂)が生じ、また実際に五十子への補給路を景春の被官が妨害して兵糧の搬入に難儀するようになった(古河と伊勢77)。
 五十子陣には大軍が駐留しており、路地を塞がれれば干上がるのは当然である。

 文明七年になると、長尾景春は姻族である太田道灌に度々相談している(道灌状)。
 道灌はこのとき扇谷上杉氏の家宰であった。
 扇谷上杉氏は山内上杉氏の有力な一族であり、両上杉とも称される存在である。山内上杉氏が上野・武蔵(そして伊豆)を中心に勢力を持っていたのに対し、扇谷上杉氏は相模と南部武蔵に勢力を持ち、互いに南北協調して対古河公方の戦線を張っていた。道灌はその扇谷上杉氏の中で強大な権力を振るう家宰職にあり、また武勇においても当乱の経緯を見る限り既にその名は関東中に鳴り響いていたと考えてよいと思われる。そこで景春が姻戚関係を梃子に、味方に付けたい、或いはせめて中立を保って欲しいと考えたのも無理はない。
 それに元来、江戸太田氏と白井長尾氏は享徳の乱が勃発する以前からの盟友関係であったと考えるべきである。戦乱に突入するきっかけの一つとなった古河公方襲撃事件は景春の祖父である白井長尾景仲と、道灌の父である太田道真の共謀事件であり、その後も太田氏と白井長尾氏は両上杉の家宰として、屡々共同作戦を展開する関係にあったから、血縁に限らず強固な協調関係にあったのは当然と思われる。
 従って景春が道灌を恃みにしたのはある意味では自然な事であったろう。

 その太田道灌は先年(文明六年)以来江戸にあり、上杉方の本陣である五十子陣には参陣していなかった。関東管領である山内上杉氏の当主顕定は実兄の越後上杉定昌とともに五十子にあり、一方で道灌は離れた江戸にあったのであるから、長尾景春にとっては好都合であったろう。
 しかしこの年(文明七年)になり、道灌は五十子へ向けて江戸を発ち北上した。道灌が五十子陣に入ってしまうと、与同してもらうどころか中立を保ってももらえなくなる可能性が高い。
 そこで景春は江戸から五十子陣に向かう途中で道灌に再三使者を飛ばし、遂には直接会談し、五十子陣には入らぬ様に、これから起こる事を傍観する様に要請したのである。だが景春は結局説得に失敗し、道灌は五十子陣に入って上杉方本隊と合流した(道灌状)。

 なお長尾景春の乱は、文明五年六月に父で家宰であった白井長尾景信が死去して険悪化してから、実際に景春が蜂起する文明九年の正月まで、足掛け四年にも渡って事態が進展していく。
 この間、文明五年十一月の古河公方方五十子陣への大攻勢があり、その防戦中に扇谷上杉氏当主・上杉政真が戦死し、上杉定正が家督を継承、文明七年に太田道灌が江戸より五十子陣に入り、文明八年には駿河今川氏の家督継承問題勃発に伴い太田道灌が駿河に遠征、同年六月、長尾景春が鉢形城を取り立て敵対の姿勢を明らかにし、文明九年正月に長尾景春がとうとう実際に挙兵、と、数々の事件が生起しながら叛乱の機運が高まっていっている。
 鳥渡今の感覚からするとかなりのんびりというか、悠長な展開であり、長尾景春の乱は決起に至る道程が決して一本道ではなかった事が窺える。いずれにしても山内上杉顕定と家宰惣社長尾忠景が、景春が挙兵する可能性について極めて無頓着であった事だけは指摘できると思う。

 さて前述の通り、文明七年の江戸から五十子陣への道中で、太田道灌は実際に長尾景春と直接会談した。道灌状によると上田上野介が在郷する小河(おがわ)に飯塚から早朝に景春がやって来たという。景春はその際に山内上杉顕定とその実兄上杉定昌を取り逃す事のない計画を立てていると表明している(道灌状)。
 これは明瞭に決起の告白であるから道灌は切迫した空気を感じたろう。

 ところで上田上野介は扇谷上杉氏の重臣で、度々築城や合戦に従事して功績を挙げている一族である(武蔵上田氏11)。その本拠が比企郡小川であったとみえ、道灌状では上田上野介は在陣ではなく「在郷」と表現されている。
 小川は長尾景春がのちに取り立てる鉢形城からは南東に八キロ半(道なりで10km前後)、景春の勢力圏と境が接しており、或いは境界をめぐるいざこざから在郷せざるを得なかったのではなかろうか。
 また小川は鎌倉街道上道が当地付近(奈良梨=小川の北東三キロ半)を通る交通の要衝で(中世東国の道74)、後世に関東三戦と称される激戦地となった須賀谷原も南東五キロ強(道なりで7km)の位置にある。景春は五十子の路地を塞いでいたというが、当然鎌倉街道も妨害されており、それも上田上野介が在郷する理由だったろう。

 一方で長尾景春がいたという飯塚は、現在で言うところの埼玉県深谷市武蔵野である(古河と伊勢77)。
 のちの鉢形城からは東北東に四キロ弱、二年後に景春と太田道灌が激突する用土の南一キロ半、五十子本陣からは南南西十キロ半に位置する交通の要衝で、鉢形から荒川左岸へ渡河した直ぐの地点にあり、当地も鎌倉街道上道の至近にあると言って差し支えない位置にある。
 景春の勢力基盤である秩父・日野谷から見ると丁度五十子へ向けて槍の様に突き出した穂先にあり、まだ鉢形城が存在しない文明七年時点、景春はこの飯塚と荒川対岸の富田・塚田あたりをともに確保する事で、鎌倉街道上道上の荒川渡河点を支配下に置いていたのではないだろうか。
 ここを妨げられると五十子-河越、五十子-武蔵府中などの交通は著しく妨げられるから、上杉方としてはまだ叛意が明らかではないとはいえ、厄介な妨害線であったろう。
 ただし後の道灌の仲介振りを見るに、景春は普段は五十子で山内上杉顕定らと同陣している様子なので(道灌状)、このときは道灌北上の報に接した事で、臨時に飯塚に進出していたと考えるべきなのだろう。
 それにしても主君と同陣しながら被官・傍輩に路地を塞がせ兵糧責めに出るというのは、大胆というか大らかであるというか、不可思議な感じであるとは思う。

 文明七年、長尾景春の要請を無視して北上し、五十子陣に入った太田道灌は、景春の叛意を山内上杉顕定に告げ、その対応を迫求めたが相手にされなかった。そこで道灌は、景春と、景春の主君である関東管領山内上杉顕定の仲介に立つ事を希望した(景春30)。
 五十子陣には山内上杉顕定とともに顕定の実兄であり右腕である上杉定昌や、太田道灌の父で先代扇谷上杉氏家宰職である太田道真らが在陣しており、道灌が仲介するにあたって彼らは協力者となりうる存在であった。
 道灌は父・道真らの助力もあって山内上杉顕定に景春との仲介者となる事を許される。但し道灌自身の景春との姻戚関係を解消してから仲介する事が条件であった(道灌状)。具体的には道灌の妻が景春の祖父・景仲の娘であったので(道灌33)、これを離縁したという事であると思われる。
 これは中人(仲介者)となるにあたって客観性を担保させるためのものと思われるが、この後の道灌の生涯を見れば、山内上杉顕定周辺からは既に警戒されていた様にも思われる。

 こうして太田道灌は長尾景春との仲介に当たったが、結局失敗した。
 仲介自体がどの様な条件を提示しながら行なわれたのかはよく分からない。先ず文明六年十二月二十一日(1475年2月6日)付け道灌の寺尾礼春宛書状では、
 ・惣社長尾忠景の家宰職就任を祝し、
 ・景春を武蔵守護代に任命すべき事、
 ・景春を五十子から退去させるべき事、
 ・山内上杉氏と扇谷上杉氏の間に隔意がある様な雑説を封ずる為に誓詞を交わすべき事、
などを礼春に伝えている(景春303)。
 但しこの書状は道灌の五十子参陣前のものであり、道灌も五十子陣の実情に疎かったと思われるので、実際に参陣してからもこの構想で仲介に望んでいたのかはハッキリしない。
 道灌は参陣すると、山内上杉氏と扇谷上杉氏の起請文の交換には成功した(道灌状)。しかし他の仲裁は少しも進展しなかったものと思われる。

 ところで景春を任命すべきとある武蔵守護代についてであるが、武蔵守護代職は山内上杉氏被官中にあっては家宰職に次ぐナンバー2にあたる地位であり(戦国期山内155)、当時は惣社長尾忠景が長年にわたり武蔵守護代を務めており、それは忠景が家宰職に就任してからも引き続き兼帯されていた。
 家宰職と武蔵守護代を兼帯する事はない訳ではないが、事例に乏しい(武蔵大石氏26)。
 そもそも山内上杉氏が武蔵守護職を家職化したのは、ライバルであった犬懸上杉氏が上杉禅秀の乱(応永二十三年)で、東国の政治中枢から排除されたのちの事であるから、その期間は精々五十年余りでありそう長い事でもない。が、それ以前の家職化する前の武蔵守護期も含めても、平時戦時を問わず家宰職と武蔵守護代職の兼帯はそう見られないのであるから、やはり惣社長尾忠景が両職を兼帯したのは異例であると言ってよいと思われる(戦国期山内155)。
 問題はどうしてそうなったかで、景春が飽くまで家宰職を望み、武蔵守護代への就任を拒絶したから、と考える事も可能だが、惣社長尾忠景自身が武蔵守護代職を手放す気がなかったとも考えられよう。
 黒田基樹氏はこれを景春を自らに次ぐ政治的地位につかせたくなかったからと指摘されているが(戦国期山内155)、加えて惣社長尾忠景自身の基盤が武蔵守護代職にあったからとも思われる。というのも同氏は景春の祖父・長尾景仲が家宰職であった享徳の乱の勃発当初から、既に二十年以上にも渡って武蔵守護代を務めており、景春の白井長尾氏が傍輩被官二、三千人を蜂起させえるほどの権益を父・祖父の家宰職時代に培えたと同様、(規模は違うとしても)惣社長尾忠景もまた、長年の守護代職で相応の権益を保持していただろうからである。
 しかも景春が敵対の姿勢を顕にしている訳であるから、家宰職としての権益を確実なものにするまでは、それまでの地盤も手放せなかったものと思われる。
 従って武蔵守護代職という役職から見るに、惣社長尾忠景には妥協の意思は全くなかったろう。

 太田道灌が考えていた長尾景春の五十子退去については、この時点では実現しなかった様だが、翌文明八年には結局退去している(古河と伊勢79)。
 道灌は景春を五十子から追った方が状況が落ち着くと考えた様子だが(景春33)、山内上杉顕定周辺はむしろ同陣に留めて説得を続ける腹積もりであったか、或いは既に問題が収束に向かいつつあるものと誤認していたか、であったものと思われる。
 これは結果から見れば誰の見込みも甘くて、景春がいざ五十子を退去し鉢形に城を取ると、戦雲は一挙に迫った(松陰)。
 そもそも出仕先を所払いして根拠地に帰還するというのは、誤解を恐れず言えば「謀反の作法」そのものの様な行為である。直近の例を引いても永享の乱の勃発期に於ける関東管領山内上杉憲実の上野下向であるとか、嘉吉の乱で将軍謀殺に成功した赤松満祐の領国播磨下向など、謀反を起こす(起こした)党派が自身の根拠に引っ込む行為は屡々見られる。
 これは自身の領国に下向する事で戦の準備を成すという事も勿論あろうが、それ以上に、「主人への出仕先から引き上げる=被官としての責務を放棄する」という行為そのものが、叛乱を起こしますよ、という意思の明確な表明になっているという部分もあると思われる。
 従って道灌の真意は知れないが、一応は五十子陣に出仕して享徳の乱を戦っている最中である景春に、陣からの退去を命じるべきであるとするのは矢張り甘く見ているとされても仕方なかろうと思う。但し景春も道灌が同陣している間は退去せず、道灌不在に乗じて退去した事には注意すべきである。

 尤も太田道灌が長尾景春を五十子より退去させるべきと考えていたのは、寺尾礼春に書状を送った文明六年末、つまり五十子参陣以前の事であって、実際に景春と会談し、五十子参陣を果たしたあとの道灌の考えではないとも言える。
 道灌は参陣後には景春の討伐を主張したり、家宰惣社長尾忠景の放逐を進言したりする事で、父・太田道真の怒りを買ったり無視されたりしているので(道灌状)、参陣後は五十子陣の状況の想像以上の悪化振りに考えを改めていた可能性もある。いずれにしても仲裁が全く功を奏さなかったのは間違いないところであった。

 ところで長尾景春の五十子陣払いを根拠地への退去と書いたけれども、景春にとって鉢形は根拠地と言っていい場所なのであろうか。
 本来的には景春は白井長尾氏の嫡男であるから、根拠地は上野国白井保の辺りになるのだろう。しかし白井は享徳の乱勃発以来、山内上杉氏と越後上杉氏の重要な結節点であり続けており、越後上杉氏の軍勢の橋頭堡としての機能を担っていたと思われる。
 また二代続いて家宰職を務めた白井長尾氏は前線に張り付きであったろうから、根拠地が前線に近い惣社長尾氏や、直接強入部して根拠地を最前線においた足利長尾氏よりも、白井を根拠地として支配する実効性・土着性は希薄であったと思われる。それよりも白井長尾氏は、家宰職の職分としての権益に依拠していたのではないだろうか。
 ましてや叛意を持った景春にとり上杉氏の強い影響力下にある白井は到底拠るべき地ではありえなかったろう。

 一方で鉢形を出口とする瓢箪とも見える秩父地域は長尾景春の影響力の発揮し易い地域であった様だ。秩父に強い影響力を有する安保氏が景春党であったし、秩父には白井長尾氏と近い犬懸長尾氏(足利長尾氏の庶流)が広く所領を有していた(景春190)。
 この様に景春与党が充満する秩父・日野谷は、景春に取っては拠るべき地であり、従って叛意を明確にすべく五十子を退去した景春が鉢形へ落ちたのも、この流れから理解できよう。言うなれば鉢形は「景春与党の」根拠地であった。

 文明八年二月、駿河の守護大名今川義忠が遠江遠征の帰りに土民の襲撃に遭い討死した。
 早速嫡子龍王丸(のちの氏義)と一族小鹿五郎範満の間に家督争いが起こり、今川家中は動揺した(享徳の乱119)。
 小鹿範満は扇谷上杉氏の女を母に持つ小鹿範頼の息子である(遠江・駿河の中世40)。扇谷上杉氏の当代である定正からするとかなり遠い血縁関係ではあるが、恐らくは小鹿範満からの要請もあったと思われ、扇谷上杉定正の名代として太田道灌が小鹿氏支援のために駿河に派遣された(古河と伊勢78)。

 またこのときは伊豆堀越に本拠を置く堀越公方足利政知も、執事犬懸上杉政憲の軍勢を駿河府中に派遣して、太田道灌と同陣させている(古河と伊勢78)。
 伊豆は元々山内上杉氏の守護管国であり、公方と管領の相互補完関係もあって、堀越公方と山内上杉氏はそれなりに円満であったらしく(東国政策126)、或いは道灌の駿河出陣は堀越公方-山内上杉氏の線からの要請もあったかも知れない。またその場合は長尾景春の不穏な動きと関連して、信用の置けない道灌を関東から排除したいという山内上杉氏側の思惑もあったかも知れない。
 しかし何より堀越公方執事犬懸上杉政憲に取って小鹿範満は外孫であった(関東上杉257)。
 幕軍として享徳の乱を戦っていた今川氏-堀越公方執事犬懸上杉氏-扇谷上杉氏は、支配領域が駿河-伊豆-相模と東海道沿いに連続しており、享徳の乱を戦い続けるに当たり密接な政治的連帯を必要として婚姻関係を結んでいたものと思われる。それが駿河国守護今川義忠の思いがけない討死によって、再び活きてきたものであろう。

 ともあれ文明八年三月より、太田道灌は小鹿範満を支援すべく駿河に向けて江戸を出陣した。
 但し足柄峠を越えて伊豆・駿河に入ったのは六月になってからの様である(道灌状)。その間、相模の守護所の置かれていた道灌謀殺の舞台でもある糟屋で軍勢を整えていたというが、三月に江戸を出て足柄峠を六月に越えるというのは余りにも余りな遅延振りであるから、何かスムーズにいかない事情があったと考えられる。
 長尾景春の仲介になお力を注いでいたか、景春党の妨害に面して軍勢催促が難儀したか、同陣すべき堀越公方との調整に手間取ったか、理由はいくつか考えられる。

 同じ文明八年六月、長尾景春は五十子陣を退去、鉢形城を取り立てて同城に移った(古河と伊勢79)。
 この行動が太田道灌の留守を狙ったものなのか、それとも交渉の結果なのかは不明である。道灌が景春の五十子退去を提案していたとすれば、結末はどうあれ道灌の交渉が実ったものであると考える事も可能である。その場合は道灌の足柄越えが遅延したのはやはり景春との兼ね合いであったという事になる。
 しかし素直に、武勇の知れた道灌が足柄峠を越したのを確認してから、鉢形城へ退去したものと考えるべきであろう。

 尤も長尾景春が鉢形城に移ってから実際に蜂起するまではまだ半年の時間がある。
 この間の五十子や鉢形周辺における上杉方・景春方、双方の動きは不明であるが、少なくとも景春は傍輩被官の取りまとめに忙殺されていたであろう。五十子周辺の路地妨害も引き続き行なわれていた筈である。
 一方の上杉方は、景春の帰順説得に努めていたと考える事もできるし、退去されたまま放っておいたと考える事も可能である。
 いずれにしても翌年(文明九年)正月の五十子陣崩壊の「さま」を見る限り、路地妨害一つをとっても上杉方が積極的な対抗策を打ち出していた形跡は見受けられない。永享の乱の際に関東管領上杉憲実が根拠地上野に引き下がった際、鎌倉公方足利持氏が半月ほどで追討の兵を挙げた直近の例を見ても(持氏時代115)、山内上杉顕定の反応は乏しいと言ってよいと思う。古河公方という軍事的正面の脅威がある以上、動くに動けなかったのだろうか。

 このとき長尾景春が取った鉢形城は日野谷の出口に築かれた城で、のちには山内上杉顕定も当城を本拠としている。
 城地は荒川水運と鎌倉街道上道を押さえる交通の要衝である。景春は当城を根拠に南北に長い上杉方の支配領域を分断しようとした。実際にこののちの太田道灌の軍事行動を見ても、鉢形城に近い塚田あたりの渡河は不可能になっていた様だ。
 但し荒川の渡河は塚田の東方にも昔から重要性の高い渡河点として村岡があり可能で(東国の道80)、武蔵南部と上野の南北連絡線は、この時点ではまだ完全に分断された訳ではない。
 しかし景春の乱勃発から半年以上ののちに古河公方が景春方として能動化すると成田郷に陣を取った。この成田陣は村岡に近く、ここに上杉方領域は北武蔵-上野の北部と南武蔵-相模の南北に分断される事となる。
 ともあれ文明八年に景春は鉢形城を取る事で、上杉方の連絡網の寸断を図りつつ、秩父の山際に自身の勢力の南北連絡線を設定し、効果的な蜂起を目論んだ。

 こうして緊張が高まった文明八年の夏には今川騒動は落ち着いた。
 家督は今川龍王丸が継ぐが、成人するまでは小鹿範満が名代となるという、一種の折衷案である。太田道灌はひとまず小鹿範満の有利に騒動を収めた功績を挙げて、九月には堀越御所に寄って歓待され、十月に江戸に帰城した(道灌状)。
 ここで道灌は五十子陣へ直ぐには出仕しなかった。
 道灌は道灌状にてそうした倦怠の理由を山内上杉顕定やその家宰惣社長尾忠景の配慮のなさに求めているが、時期が時期だけに長尾景春との関係を取り沙汰されても致し方なかろう。道灌状は長尾景春の乱における自身の活躍ぶりを極めて出色のものとして強調しているが、景春の雑説が出てから一貫して疑いの視線を向けられていた事に対する弁明の必要からの強調とも取れると思われる。
 いずれにしても文明八年は緊張が高まるだけ高まる中で暮れた。

 ここまでをまとめると、長尾景春の乱は山内上杉氏家宰職を巡る対立から起こったものであった。
 乱は文明五年の山内上杉氏家宰白井長尾景信の死に端を発した。景信の嫡子・景春は自身が家宰職を継承する心積もりであったと思われる。が、文明六年に山内上杉氏家中の合議で後継は惣社長尾忠景と決まった。景春はこの決定に不満を募らせ、被官をして路次を妨害し、五十子陣を兵糧責めにした。
 文明七年には景春の再三の申し入れを振り切って五十子に参陣した太田道灌が、山内上杉顕定と景春の仲介を買って出たが、成果もなく、道灌自身も不興を買った。
 文明八年には道灌は今川騒動のために駿河へ出陣した。この間に景春は五十子を陣払いし、文明八年六月に鉢形城を取り立てた。

 そして翌文明九年正月十八日に長尾景春は五十子陣を急襲するのである。
 「長尾景春の乱」は正確にはこの五十子陣襲撃をもって始まったと考えられる。そこで次項目では実際に乱が勃発した文明九年正月から記述したい。


参考文献
 上杉顕定        森田真一  戎光祥出版 2014 (顕定)
 戦国期山内上杉氏の研究 黒田基樹  岩田書院  2013 (戦国期山内)
 長尾景仲        黒田基樹  戎光祥出版 2015 (景仲)
 古河公方と伊勢宗瑞   則竹雄一  吉川弘文館 2013 (古河と伊勢)
 武蔵上田氏       黒田基樹編 岩田書院  2010 (武蔵上田氏)
 長尾景春        黒田基樹編 戎光祥出版 2010 (景春)
 図説太田道灌      黒田基樹  同上    2009 (道灌)
 武蔵大石氏       黒田基樹  岩田書院  2010 (武蔵大石)
 享徳の乱と太田道灌   山田邦明  吉川弘文館 2015 (享徳の乱)
 今川氏と遠江・駿河の中世大塚勲   岩田書院  2008 (遠江・駿河の中世)
 室町幕府の東国政策   杉山一弥  思文閣出版 2014 (東国政策)
 関東上杉氏の研究    湯山学   岩田書院  2009 (関東上杉)
 中世東国の道と城館   齋藤慎一  東京大学出 2010 (東国の道)
 足利持氏とその時代   黒田基樹編 戎光祥出版 2016 (持氏時代)

(以上平成二十八年十月八日公開)


上杉顕定 (中世武士選書24)
クリエーター情報なし
戎光祥出版


戦国期山内上杉氏の研究 (中世史研究叢書 24)
クリエーター情報なし
岩田書院


長尾景仲 (中世武士選書26)
クリエーター情報なし
戎光祥出版


古河公方と伊勢宗瑞 (動乱の東国史)
クリエーター情報なし
吉川弘文館


武蔵上田氏 (論集 戦国大名と国衆)
クリエーター情報なし
岩田書院


長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)
クリエーター情報なし
戎光祥出版


図説 太田道潅―江戸東京を切り開いた悲劇の名将
クリエーター情報なし
戎光祥出版


論集戦国大名と国衆 1 武蔵大石氏
クリエーター情報なし
岩田書院


享徳の乱と太田道灌 (敗者の日本史 8)
クリエーター情報なし
吉川弘文館


今川氏と遠江・駿河の中世 (岩田選書 地域の中世)
クリエーター情報なし
岩田書院


室町幕府の東国政策
クリエーター情報なし
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