中世前期戦国時代の東国と河越合戦

鎌倉府から河越合戦に至る東国の戦乱について

文明九年の長尾景春の乱(2)~五十子陣崩壊と用土原合戦

2016年10月19日 11時19分21秒 | 文明九年の長尾景春の乱


 ※文明九年の長尾景春の乱(1)はこちらです



 明けて文明九年正月十八日、長尾景春は五十子陣を襲撃した。
 五十子陣を襲われた上杉方は自陣を焼亡させつつ利根川を渡って上野に避退した。
 具体的には関東管領山内上杉顕定、越後上杉定昌(顕定の実兄)、扇谷上杉定正、岩松家純・明純父子らは未明に五十子陣を慌しく放棄したのち、横瀬から舟で武士城そばの河原へ先ず下がった。
 武士城で退路が分かれ、新田荘の岩松家純は金山城へ真っ直ぐ帰還した様だ。一方の顕定ら上杉方主力は家純の嫡男・岩松明純を伴い富塚城から今村城を経て(松陰)、最終的には山内上杉顕定は阿内(河内)へ、越後上杉定昌は白井へ、扇谷上杉定正は細井へ、岩松家純は金山城へ、それぞれ後退した(古河と伊勢78)。
 岩松氏はこのときを限りに上杉方から距離を置き、古河公方足利成氏方に転じていく。また退却中、岩松父子は既に上杉氏への対応、或いは距離感を巡って疎隔があったと思われ、それが文明九年五月の岩松氏家中の騒動へ繋がっていったと考えられる(松陰)。

 越後上杉定昌が張陣した白井は、長尾景春が白井長尾氏と称される様に景春の由緒があった界隈で、越後から見ると関東平野の入り口に当たり、山内上杉氏と越後上杉氏の連携の要となる地点であった。阿内と細井はいずれも利根川左岸(関東平野155)、東西南北にめぐらされた水陸交通の結節点にあたる場所で(関東平野159)、一旦放棄した形になった武蔵北部への反攻を行なうにあたり、確保しておかなければならない要地である。
 尤も上野国にあっても景春の傍輩被官が蜂起していたから、上杉方は当面は上野国内の整備に追われたであろう。顕定は阿内にはそのまま、用土原で景春との決戦に出る直前の五月まで在陣していたという(顕定69)。

 長尾景春による五十子襲撃は山内上杉顕定にとっては相当の衝撃があったのではなかろうか。それは景春の叛乱が長い時間をかけて熟成し実行に及んだものであるのに対し、顕定らが余りにも無防備に陣を攻撃され、潰走している事からも窺える。つまり顕定は景春との間に深刻な利害の衝突を抱えながらもその実力行使に至る可能性は軽視していたのであり、それはまた景春の叔父で家宰職を継承した惣社長尾忠景にも言える事であろうと思う。
 ではこの時代は長尾景春の乱の様な事態を想定できない様なものであったのだろうか。

 長尾景春の乱は景春による主家山内上杉氏に対する下克上行為である。景春が太田道灌に語ったところを信じれば、彼は家宰の座を欲する余りに、当主の山内上杉顕定と、その実兄・越後上杉定昌の殺害を狙って乱を起こしたのであり、これは所謂巷間耳にするところの大義名分なき下克上としては典型的なものである様に思われる。特に景春は背後に権威を借りる事無く蜂起したので、戦国の先駆けと認識する向きもある様だ。
 では同時代にこの様な乱は存在しなかったのであろうか。
 そこで鎌倉府の歴史を見ると、先ず直近で江の島合戦がある。これは景春の祖父・白井長尾景仲と道灌の父・太田道真が、当時は鎌倉公方であった(古河公方)足利成氏を殺害すべく軍勢を催し襲撃した事件で、江の島界隈で合戦に及んだ挙句敗退し、これは享徳の乱勃発への道標となった(景仲139)。実行者の二人がそのまま首謀者であったかどうかはともかく、この事件は当時の京都幕府の意向とは無関係であったと思われ、背後に権威が控えていたとは考え難い。恐らくは純粋に利権の相克から起こった事件であったと思われる。
 それ以前には前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方を襲った上杉禅秀の乱がある。これは上杉禅秀が険悪であった当時の鎌倉公方足利持氏を武力排除しようとした大規模な軍事クーデターであるが、
禅秀は持氏の叔父である足利満隆を擁立していたので、権威を無碍にしての挙兵ではない(持氏時代11)。
 それよりも当乱に性質が近いと思われるのは京都に起こった嘉吉の乱の方で、室町将軍を殺害した赤松満祐には背後関係もなく、その後の経過を見ても殺害意思だけで将軍殺害を為したと思われる。
 著名な例を挙げてみたが、この様に大義名分のない下克上的な襲撃事件は過去にない訳ではなく、決して長尾景春の乱だけが特異な事件であった訳ではないと思われる。但し当乱に異質性があるとすれば、広範囲に多数の与党が蜂起した事であろう。恐らくはこれが当乱に周到さの印象を持たせているのだろうし、また初動で景春が顕定兄弟を取り逃した事と、決起が結局失敗に終わった事により、景春が一体どの様な青写真を描いていたのかが分からない為、却って当乱が空想の余地を残し、こののちの戦国時代の様相と相俟って、先駆的なイメージをもたらす事になったのではなかろうか。
 しかし当乱については決起当初の背後に権威を持たない(とされる)下克上的な気配よりも、この時代における人々の心性の方に理解の軸足を置いた方が分かり易いのではないかと思われる。
 中世においては人々は強烈な自尊心や名誉意識を持ち、屈辱を感じやすい一方で、怒りを胸の内に隠したまま時節の到来を待ち耐え忍んだという(喧嘩30)。こうした宿意は何も家臣だけが持つものではなく、当然主人も持つものであり、この時代における討伐事件には全てを純政治的に解釈してよいか迷うものもある。
 例えば鎌倉公方足利持氏が上杉禅秀の乱ののち、禅秀方であった大名国人を執拗に繰り返し討伐したが、それら全てを政治的に理知的に解釈してよいかは迷うところである。また享徳の乱の引鉄となった関東管領山内上杉憲忠謀殺事件も、(古河公方)足利成氏が憲忠を殺害するにあたり、事後の政治体制構築をどこまで構想していたのかは判然としない。当時の鎌倉府は公方方と管領方に真っ二つに割れていたから関係の修復は難しかったろうと思われるが、それにしても取り敢えず対手方のトップである関東管領を殺害するというのは大胆である。勿論こうした討伐・謀殺事件の全てを心性で理解してしまおうとは思わないが、のちの太田道灌謀殺事件といい、取り敢えず政敵を片付けてしまうという感覚が、この時代に色濃くあったという点だけは踏まえておいて問題ないものと思われる(中世東国論5212)
 そこで初めに戻って何故上杉方が景春の襲撃にいい様にされたかについてであるが、これは結局のところ分からないとしか言いようがない。両上杉氏にとり決して想定不能の事態ではなかった筈である。
 ただ強いて言えば当主の顕定がまだ若干二十歳であった事(顕定66)、扇谷上杉定正も家督を継承したばかりであった事、山内上杉氏の家宰が正に騒動の渦中にあった事、扇谷上杉氏の家宰も道灌に代替わりして間がなく、且つ元々白井長尾氏に近く警戒された事、などが重なり、享徳の乱を戦っている最中であるという現実も加わって、事態への直視を怠ってしまった事が原因の一つとして挙げられるのではないだろうか。
 いずれにしても景春は叛乱を起こして以後、一度たりとも山内上杉氏のもとに帰参していない。ここに中世人の強烈な心性を見出す事は難しくないものと思われる。

 さて、五十子陣の崩壊を受けて、西関東は動揺した。
 一方、江戸城で出仕を倦怠していた太田道灌は、江戸から対長尾景春の反攻に出る事になる。
 当時南部武蔵と相模で景春方であった主な傍輩は、石神井郷の豊島兄弟、葛西の大石石見守、二宮の大石駿河守憲仲、毛呂の毛呂三河守、大森成頼などであった。また相模国には海老名氏・本間氏らの名前も挙がっている(古河と伊勢81)。
 豊島氏は石神井川流域一帯に大きく勢力を広げた有力国人で、享徳の乱では上杉方として各地を転戦し、その過程で山内上杉氏の家宰であった白井長尾氏との繋がりを強めていた(豊島氏212)。
 大石石見守氏は山内上杉氏累代の重臣大石氏の一族で、守護代を務めた事もある有力庶家である(大石氏14)。大石駿河守憲仲は大石石見守氏の庶流で、父・重仲は足利荘の代官職であった(大石氏16)。
 毛呂三河守は毛呂郷を根拠とする国人、大森成頼は箱根東西山麓に勢力を持つ国人である。これら傍輩衆は乱の結果、豊島氏は滅亡、大石石見守と大森成頼は扇谷上杉氏に従属して、結局山内上杉氏からは離反したままになっている。
 また相模の海老名氏は本間氏とともに一族で、海老名氏は鎌倉府では奉行人を務め、鎌倉公方足利持氏が破滅した永享の乱でも多くが討死している。その後は古河公方に従ったと思われるが、一部は上杉氏などの被官として残ったものであろうか。海老名氏はその名からしても海老名郷が発祥であるには違いなかろうが、この時期に海老名郷がどの様な支配であったかは分からない。本間氏は海老名郷の相模川対岸にある依智(えち)郷を本貫とする相模武士である。こちらも海老名氏同様よく分からないが、同族として上杉氏の被官であったものであろうか(鎌倉府相模武士158)。

 これら景春党が点在した南部武蔵と相模は基本的には扇谷上杉氏による支配が行なわれていた地域であるが、神奈河や六浦などを代表に経済的に重要な地点は一部を山内上杉氏や長尾氏が押さえていた(港湾都市13)。また上記の大石氏らは山内上杉氏の被官であり、扇谷上杉氏の勢力圏内といえども両上杉氏の支配はまだら模様に混ざり合って行なわれていたのである。
 また神奈河などの山内上杉氏らの経済基盤には代官が置かれていたが、この代官には恐らく山内上杉氏の家宰職の推薦で人選されていたものもあったと思われ、従って景春ではなく惣社長尾忠景に家宰職が移ると失職する可能性がある人々でもあった(景春34)。そこで自身の権益を死守するためにも景春が叛乱を起こすにあたり積極的に後押ししたと思われる。また傍輩中にも白井長尾氏が家宰であればこそ利益を得られている人々が少なくなかったであろう。そうした傍輩被官は二、三千と言われていたから、規模の大小は問わず各地に幅広く存在していたものと思われる。
 道灌と武蔵相模の上杉方は先ずそれら景春与党の掃討戦を行なう必要があった。なおそう考えてみると、前年(文明八年)に道灌が駿河へ出陣する際、糟屋で軍勢を催してから足柄峠を越えるまでに余りにも時間が掛かっているというのも、点在する長尾景春の傍輩・被官とのいさかいが絶えず、軍勢催促に手間取ったからとも考えられる。
 そして文明八年秋に江戸城に留まり出仕を倦怠した件も同じ文脈で考えられもすると思うのだが、あれだけ反論に躍起な道灌状でそこに触れないのだから、矢張りこれは単なる倦怠だったのだろう。



 太田道灌ら上杉方の反攻は文明九年三月に開始された。
 先ず道灌は江戸-河越の往来を遮断する豊島兄弟の石神井・練馬両城の攻撃を計画した。そのために相模の軍勢を密かに呼び寄せていたのだが、同年三月十四日(1477年5月6日)に大雨のせいで相模川の渡河が困難となり、この攻撃は中止された(道灌状)。
 そこで文明九年三月十八日(1477年5月10日)、相模の上杉方は先ずは景春方の溝呂木要害を自落させ、次いで小磯要害を攻撃した。同要害は景春被官越後五郎四郎が守っており、攻撃を受け終日防戦に努めたが、夜に入って同氏は降参し、城を明け渡したという(大草紙)。
 上杉方は次いで小沢(こさわ)要害に攻めかかったが、守りが堅く落とせなかった(古河と伊勢81)。

 このうち溝呂木要害は正確な位置は不明だが、厚木市の相模川沿いに伝承が残っているという(道灌紀行限)。溝呂木の地名は上野にあり、長尾景春被官の溝呂木氏が籠もったから溝呂木要害と称された、という推測もある(神奈河城郭111)。また溝呂木要害を磯部城に比定する考えもある(神奈河城郭111)。
 溝呂木氏が溝呂木要害に籠もったというのは、この周辺に溝呂木地名が存在しない事からも恐らく間違っていないだろう。ただこのとき道灌が最も速やかな攻略を企図した練馬・石神井両城への攻撃を諦めたほどの増水があったのであるから、降参した溝呂木要害は相模川右岸にあったのではないかと思う。このとき攻撃はしたものの責め落とせなかった小沢要害も同右岸に位置しており、
相模勢の攻撃範囲は増水の影響で相模川右岸に限られていたと考える方が自然ではないだろうか。従って相模川左岸に位置する磯部城=溝呂木要害説は可能性が低いのではないかと考えたい。

 一方で上杉方に攻略された小磯要害は現大磯町在、東海道を扼した大磯丘陵南突端部に位置しており、いかにも東西交通の要衝を押さえたという感がある。
 この大磯丘陵は海道を押さえている上に周辺の制高点でもあるため度々合戦に登場し、主に西から東への侵出を窺う際に取り立てられた。例えば永享の乱では幕軍の大将四条上杉持房が、小田原周辺で鎌倉府方に勝利したのち東進し、八幡林(平塚市八幡)に陣した木戸持季に対抗して大磯の高麗寺に陣している(持氏時代124)。またのちの永正の乱でも伊勢宗瑞が相模国西郡から中郡を攻略すべく高麗寺に要害を取り立てている(古河と伊勢236)。何れも北東向きに陣した事例だが、大磯丘陵を制する事が東西交通上、肝要であった事がよく分かる。
 また南北の視点で見ても、大磯丘陵の北側は相模国中郡の中枢部に面しており、当時守護所があったと思われる糟屋も近い。こののち大磯丘陵の北に位置する実田に相模守護代が軍事拠点を構えた事を考えても(武蔵上田12)、相模川の渡河点を押さえるのと同じく東西北への要衝として小磯要害は重要であったと思われる。但し小磯要害の位置付け自体は攻撃的なものというよりは防禦的なものであったろう。

 また上杉方が攻略できなかった小沢要害は現愛甲郡愛川町にあり、相模川の渡河点を押さえる城である。のちに攻防戦が展開される磯部城も小沢要害に近く、大山街道の渡河点を押さえており(神奈川城郭111)、小沢要害・磯部城・溝呂木要害と、いずれも渡河点乃至河畔の要害である事に注意したい。
 景春方は作戦上積極的に渡河点を押さえにかかっているとも言えるが、元々渡河点や交通の要衝などに権益を持つ景春系の被官衆が在郷で要害を構えて蜂起した、という考え方もありえなくはないと思われる。更には文明六年から続いてた景春方による通行妨害の延長戦としてもおかしくはなかろう。

 景春方の小沢要害を落とせなかった上杉方は、要害の近くに張陣し、圧力を掛けたものと思われる。小沢要害は金子掃部助が守将であったという(古河と伊勢82)。
 この金子氏は恐らくは北に三十一キロの金子郷を本領とする山内上杉氏被官であろう(即ち長尾景春の傍輩)。金子掃部助が小沢要害の守将を務めていたのは「在所」とある以上は当地に居住していたからだろう(道灌状)。小沢要害は渡河点を押さえる要所なので、当地に何らかの権益を有していたのではなかろうか。
 また景春方が秩父・日野谷や奥三保を後背地にこの叛乱を起こしたという観点からすると、鉢形-金子-二宮城-七国峠-小沢要害(乃至は磯部城)-小机城-神奈河 というラインは攻防における重要線であったと思われる。中でも小沢要害(または磯部城)は山間地と神奈河を結ぶ重要渡河点を防禦しており、或いは景春は有力な傍輩である金子氏を小沢要害防衛に送り込んだと考える事もできるかも知れないが、在所という表現に鑑みれば、結果的にそうなっただけと考える方が自然であるとも思われる。
 いずれにしても四城は何れも当時相模国守護所のあったと思われる糟屋に近く、まるで半包囲している様にさえ見える。この様な入り混じった支配が長年行なわれていたとすれば、両上杉の間に諍いはつきものであったろうし、またそれがのちの長享の乱の原因の一つを成していた事は間違いないところであろう。

 景春方は攻撃に曝されている小沢要害の後詰に動いたという。
 先ず横山に陣していた長尾景春被官吉里氏は、武蔵府中の小山田上杉氏(扇谷上杉氏の一族)を蹴散らしてから相模に乱入している(古河と伊勢82)。
 横山は現在の八王子市横山である。横山の西南西五キロ半には長井氏の椚田城が、南南東五キロ半には南北交通の要である七国峠が位置しており、軍勢の集結と府中への進撃起点にはもってこいの場所である。
 そして当地は長尾景春の傍輩・椚田城の長井広房の所領であった(戦国期上杉286)。従って吉里氏の軍勢に景春方として長井氏の軍勢が加わっていた事は確実である。横山の北北西八キロ強には大石氏の二宮城も位置しており、吉里氏らは横山から北東へ進み後世の合戦場である立河原あたりから多摩川左岸に進出、長井氏らの軍勢に加えて大石氏らの軍勢も糾合しながら府中を攻略し、南へ転じて関戸で再び多摩川を右岸へ渡河、南下して小山田保を蹂躙しながら相模国(小沢城カ)へ向かったと思われる。小山田保内の中心地大泉寺に位置する小山田城が落城したというのはこのときの事であろう(地名辞典)。
 また横山の北には小宮郷があり、東西に細く秋川渓谷まで小宮氏の支配が及んでいた。しかし戦いになった様子はないから、長井氏とともに小宮氏もこの時点では景春与党であったと思われる。

 武蔵府中を攻略した軍勢とは別に、長尾景春被官矢野兵庫助が率いる軍勢は鎌倉街道上道(東国の道74)の苦林に陣して河越を睨んだ(古河と伊勢82)。
 苦林は河越の北西十四キロの位置にあり、河越への圧力としては距離があるが、縦の線で見ると前出の金子郷とほぼ南北一線に並んでおり、鎌倉街道を押さえつつ、山裾の南北交通線をも保護したものと見てもよいかも知れない。
 苦林の南西五キロ半には毛呂氏の毛呂山城があり、景春党の勢力範囲を思えば毛呂氏は景春与党であったと見られるので、苦林陣には参陣していた可能性もある。
 またこの頃の北武蔵の動静は知れないが、景春は上田上野介が在郷していた小川にも攻撃を仕掛けたのではないだろうか。小川は鉢形から南への連絡線を脅威するに相応しい位置にあり、放置するとは考え難い。
 これら景春与党の武蔵府中攻撃や苦林張陣は、小沢要害へ援軍を送るための連絡線を確保するための軍事行動でもあり、ひいては山間部から神奈河までの連携を確かなものにするための作戦展開であったと思われるが、景春方の軍事行動はこの段階まで膨張したのちは以後縮小を余儀なくされていくから、結局は小沢要害への後詰は実現しなかったと解釈してもよいかも知れない。

 文明九年四月十日(1477年5月31日)、勝呂原合戦が生起した。
 これは苦林に張陣していた景春被官矢野兵庫助が上杉方河越衆に敗れたものであった(古河と伊勢83)。河越には上田入道と太田図書助が入っていたというから(道灌状)、この河越衆とは彼らの事を指すと考えて良いだろう。
 なお上田入道は先に小河に在郷していたという上田上野介の父で、既に家督は息子に譲っていたが太田道灌の父・太田道真と同じく、なお活躍していた存在である(武蔵上田氏11)。
 太田図書助は太田道灌の弟で、実名は資忠である。資忠は道灌とともに各地を転戦した歴戦の勇者であり、道灌の兵も添えられていた(道灌状)。
 矢野兵庫助は河越を討って出た河越衆に誘われて合戦に及び敗走したというが、勝呂原とは坂戸市の勝郷一帯の事であろうから、概ね河越と苦林の中間で合戦した事となり、なるほど矢野兵庫助が誘い出されたというのも頷ける(苦林から勝呂へは大体七キロ半)。矢野兵庫助はこれで苦林陣も維持できなくなったと思われ、これはこのあと直ぐ、四月十八日(6月8日)の小沢要害の陥落につながった可能性がある。また道灌の江戸城周辺の戦いに及ぼした影響も甚大であったろう。

 文明九年四月十三日(1477年6月3日)、江古田原合戦が生起した(道灌状)。
 当合戦は太田道灌と長尾景春傍輩の豊島兄弟が戦ったものである。
 長尾景春の乱において豊島兄弟が拠っていたのは石神井城と練馬城であった。両城は巷間よく言われている通り江戸城と河越城を結ぶ街道を阻塞する形で取られており、太田道灌としては江戸城の対城と認識しており、無視しがたい至近の敵であった(道灌状)。
 豊島氏は現豊島区豊島を根源に石神井川に沿って繁栄した一族であり、交通の要衝だから両城を取ったのか、本領であるから取ったのかというと、勿論両方なのではあろうが、本質的には後者であったのではないかと思う。在郷国人とはそういうもので、飽くまで自領の防衛が本懐であり、
参陣を要請されて遠征し、某かの軍事指揮下に入っている状態ならともかく、単独で忠節に励む場合、大名的な戦略的要点というだけでは要害を築いて籠もらないものと思われる。
 そもそも豊島氏が拠った石神井城などは「外城」をも持ち規模が大きい。練馬城も単純な構造ではあるが規模は非常に大きい(豊島氏238)。従って城は享徳の乱以来の戦時の要請もあって拡張されたものであり、長尾景春の乱の勃発に伴い急遽拡張された様な規模のものとは、当時の人的資源動員力を思えば考え難かろう。
 要するに道灌からすれば両城は江戸城への対城に見えたのは確かであろうが、それが当乱に向けての戦略眼から構築されたものではなく、飽くまでも過去の経緯から結果としてその様になったものと考える方が自然である。

 すると長尾景春の乱における景春与党の軍事指揮権は一体どうなっていたのだろうか。後世の視点で見ると、決起軍の大将は景春なのであるし、景春が当然全般指導を行なっていたものと思ってしまうが、本当にそうなのであろうか。
 これまで見たように、小沢城の金子掃部助も、石神井・練馬城の豊島兄弟も、いずれも在所の籠城である。二宮城の大石氏も私は位置からして武蔵国府の攻撃には加わったのではないかと思うが、その後の動静は不明で、結局最終的には二宮城に籠もったまま降参している。
 葛西の大石石見守は東から江戸城を牽制できる絶好の位置にありながら消息不明であった。北武蔵の安保氏も景春与党乃至は古河公方方であった事は確かと思うが動静は定かでない。傍輩で活動が知られるのは用土原合戦で戦死した上州一揆の長野氏くらいなものである。
 一方で景春被官の行動はこの時期の吉里氏・矢野氏・越後氏が知られ、吉里氏などは乱を通じて名前が見られる。越後氏はともかく、武蔵府中を攻略した吉里氏といい、苦林に張陣した矢野氏といい、在地という事は考えられず、従って両者は景春の命令に基づいて行動していたと考えて良さそうである。また景春自身、こののち乱の終息までひっきりなしに広範囲に出没が伝えられる。
 要するに景春与党の中で能動的なのは飽くまで景春自身とその被官衆だけなのであり、数多の傍輩どもは基本的には在所が戦場になった場合に名が出てくるのみである。
 もとより景春と特に南武蔵・相模の傍輩の間には距離もあり、そう連携が取れる環境もなかったろうが、景春には傍輩に在所で蜂起してもらう程度の立場、或いは建前しか無かったのではなかろうか、とも思える。
 取り敢えずここでは景春党の活動が全般に余りにも不活発である事を指摘しておきたい。
 私はこれまでは景春党は敵中に点在しているから能動化できなかったと考えてしまっていたが、古河公方とも連携可能な葛西大石氏やそれなりに面的蜂起できていた武蔵山麓部でも不活発であるのは、それだけでは説明できないのであり、景春与党の不活発はより向き合って考えていくべきだろう。
 なお豊島兄弟が太田道灌と執拗に激戦に及んだのは、両者の境が接している事に理由があると思う。事実道灌は乱の後には豊島氏の領地を概ね接収しているのであり、そもそも乱に関係なく両者はいざこざを抱えた関係だったのではなかろうか。
 また椚田の長井氏も七国峠の南に粟飯原郷を所領する関係で小山田上杉氏とは境界が接しており(戦国期上杉286)、横山を起点に軍事行動が展開されるなど積極的関与が窺えるが、その点も道灌と豊島氏との関係と同様に考える事が出来ると思われる。

 その豊島兄弟は石神井城に兄・豊島勘解由左衛門尉が、練馬城に弟・豊島平右衛門尉が入っていた。太田道灌に平右衛門尉の守る練馬城を攻撃されると堅く防いだが、道灌が城近辺に放火して引き上げると見るや、豊島兄弟は両城より出撃して道灌を追撃した。
 道灌はその様を見るや反転したので江古田原にて合戦に至り、豊島氏は平右衛門尉・赤塚氏・板橋氏など十数人討死の敗北を喫した(道灌状)。豊島氏は弟の平右衛門尉を失った上、赤塚氏や板橋氏など豊島氏の有力な一族をも失ったのである。これは惨敗と言え、江古田原合戦で負った打撃は二度と回復する事はなかったものと思われる。
 一方、練馬城攻めから一旦引いて江古田原で合戦に及んだ道灌の手管は、のちの下総臼井城をめぐる攻防でも再現されるもので、道灌の十八番の戦法であったのかも知れない。
 兄・豊島勘解由左衛門尉は敗退して石神井城に籠もったが、翌四月十四日、道灌に追撃されると降参を申し入れた。但しこの和睦交渉は結局長引き、同月十八日に一旦城の破却を条件に成立するものの、豊島勘解由左衛門尉は破却を渋って引き伸ばしたようで、二十八日になり結局石神井城は道灌の攻撃を再度受け、同日中に外曲輪が陥落、豊島勘解由左衛門尉は二十八日の夜には没落し、落城した(道灌状)。
 なお練馬城も石神井城の落城に前後して破却されたものと思われる。これで江戸と河越の連絡線は回復し、道灌も行動の自由を得、景春方は防戦一方の様相を呈していく。

この石神井城の攻防戦は確かに江古田原の合戦を受けたものとしては長引いたものと思う。ただそもそも十三日の練馬城攻撃自体が勝呂原合戦の勝報を受けたものであると思われ、十八日の和睦の一旦成立が小沢城の陥落と同日である事を考えれば、道灌は既に当地攻防戦の緊急性が薄れたと考えたものだろうか。
 武蔵国府から小山田保を経て相模へ乱入した筈の吉里氏らの景春方も、この時点で既に動静は全く不明であるが、或いは小沢城攻撃の上杉方に散らされたのであろうか。
 いずれにしても石神井城の陥落を受けて戦場が北武蔵へ移動した様に、上杉方はこの時点で概ね南武蔵・相模における景春与党の排除に成功しており、慌てていなかったとものと思われる。
それ故に西股総生氏が指摘する様に戦後処理を睨んだ攻略も可能だったという事であろう(東国部将)。
 付け加えれば道灌は後年の下総臼井城攻撃に際しても窮鼠を責める事は避けており、城責めには慎重である。また北武蔵への転戦を前に自軍の消耗を避けたかったという事も考えられるかも知れない。

 文明九年五月十三日(1477年7月2日)、太田道灌は北武蔵へ出陣した。
 相模と南武蔵の情勢が安定してきたので、愈々上野に避退したままの上杉方主力との合流を企図したものである。この頃には山内上杉氏家宰・惣社長尾忠景の軍勢も北武蔵の清水河畔まで南下している。対して長尾景春も梅沢要害・五十子に張陣して南北合流を果たそうとする上杉方に対抗した(古河と伊勢83)。

 先ず太田道灌の進出した北武蔵であるが、正確な位置は分からない。
 道灌は用土原合戦に際し、次郎丸より打ち上がったとあるので、次郎丸という地名がどこかで関係する事は間違いない。ただ次郎丸の場所探しは煩雑を極めるのであとで別に考える事とし、先ずは道灌が用土原合戦に向けて行動を開始する前の、江戸から北武蔵に前進した際の駐屯地を、仮に「北武蔵陣」と大らかに規定しながら考えてみたい。
 結論から言うと、江戸を発った道灌は、岡部~深谷~別府の間あたりに先ずは陣したのではなかろうか。
 長尾景春が鉢形城を取った事で、この頃に道灌が荒川を渡河しようとすると塚田は使えない。すると村岡を渡河点とする事になると思われる。別府は村岡の北西八キロに位置している。当地は東に古河公方の最重要基盤である太田荘、北に景春色が濃い長井荘、長井荘の更に北には去就が不明となった岩松氏の新田荘と、敵性の強い地域に囲まれているが、南部武蔵-上野間の連絡路を思えば失う事のできない大切な地である。
 但し別府は流石に東に偏しており、道灌はもう少し自軍と敵軍に近く陣したろう。そこで別府から西七キロにある岡部も候補となる。当地から五十子までは北西に四キロ半と至近である。中山道も通った交通の要地であり、古戦場でもあり、軍勢が陣するに相応しい地であったと思われる。
 また岡部の東三キロには深谷もある。当地には庁鼻和上杉氏がかつて築いた古城もあり、中山道も通り、軍勢が駐屯するに適した地であったと思われる。距離的にも深谷は五十子の東南東七キロと違和感のない距離である(別府からは西に四キロ半)。
 道灌が陣した場所は上杉方本隊が御陣を置いた場所からそう離れていなかったと思われる。これは道灌が忠景と作戦を打ち合わせをしている事、そもそも連携の必要から間違いなかろうし、さりとて太田道真などと面会していないと思われる点から同陣もしていなかったと考えられるからである。
 用土原合戦に際しては、道灌に追随した上杉本隊は(安全のため)道灌隊の通ったあとを追ったと思われるので、道灌の北武蔵陣を経由して南下した可能性が高く、すると別府を通って用土に前進するのでは迂遠に過ぎる。はっきりとした事は無論言えないが、ここでは道灌は岡部~深谷の間に北武蔵陣を置いたものとしておきたい。


画像は五十子と五十子北の乱流地帯。青線十字の中心が梅沢要害。画像右下から左へ二本流れている川のうち上が清水川、下が小山川。

 一方の惣社長尾忠景が張陣した清水川は小山川の支流で、小山川と利根川の中間を概ね東西に流れる。家宰の惣社長尾忠景は山内上杉顕定と同陣していただろうから、在陣していた阿内から那波荘を経て北武蔵に渡ったものであろうか。
 この清水河畔の陣は「大河」を背後にし、「岡」を前にした陣であったという(道灌状)。背中の「大河」は利根川であり、眼前の「岡」は恐らく五十子も含めた本庄台地の事であろう。この辺りは梅沢-五十子の線に沿って北西-東南に涯が形成されており、上杉方はその崖下側(即ち北側)に布陣していたものと思われ、位置的には横瀬郷の辺りであったろうと思われる。
 横瀬郷には利根川を利用するにあたっての船着場などもあり、機動や補給に適していた(松陰)。また同陣には山内上杉顕定自身も着陣しており、上杉方の並々ならぬ攻勢意欲が感じられる。これは太田道灌の北上と足並みを揃えていたものであろうか。但し惣社長尾忠景ら上杉方の先鋒衆が何時ごろに同地へ進んだものかはハッキリしない。

 上杉方に対して長尾景春は五十子と梅沢要害に張陣した。
 そのうち梅沢要害は現在の本庄市日の出三丁目の辺りとされており(道灌紀行)、五十子の西北西一キロ強の位置と、ほぼ隣接している。梅沢要害は西から東方へ突き出た舌状台地の突端を取ったものと思われ、北・東・南の三方は崖という天然の要害であり、その防禦姿勢が北方と東方を睨んでいるのは明らかである。
 五十子-梅沢要害の景春方の陣取りは、南下してきた惣社長尾忠景の軍勢に対応している様に見える。従って或いはこの両軍はもう少し以前から対陣していたのかも知れない。

 太田道灌と惣社長尾忠景は両上杉の家宰同士として事後の軍事行動について打ち合わせたが、惣社長尾忠景は梅沢要害の北側からの攻撃が困難である事を主張したという(道灌状)。
 対して道灌は要害攻撃ではなく、景春の釣り出し作戦を考えていた。即ち上杉方が五十子-鉢形の連絡線を切る動きに出れば、景春方は五十子を維持できないから、必ず同地を棄てて鉢形との連絡線を維持し得る地点まで移動する筈だ、上杉方はそこを捉えて野戦に持ち込んでしまえばよい、というものであった(道灌状)。道灌状を何処まで信じるかはともかく、これも道灌の城責めにおける常套戦術の再現と言える。

 文明九年五月十四日(1477年7月3日)、用土原合戦が生起した。
 道灌はこの日、考えを実行に移すべく惣社長尾忠景には相談せずに北武蔵陣を出陣する(道灌状)。なお道灌は早暁に出陣した(道灌状)が、これは夏至に近い頃であるし午前四時くらいと思われる。仮に道灌が岡部~深谷界隈に陣していたとすると、用土までは遠くとも約九キロ(道なりで10km強)の距離であるから、足元の見難さはあったにしても大体二~三時間もあれば用土原に進出できたであろう。

 この太田道灌の行動に惣社長尾忠景は含むところもあった様だが、山内上杉顕定も惣社長尾忠景も、このまま陣所を維持する事が難しい事は承知していたらしく、次郎丸へ打ち上がりつつ御旗を遣わされたという(道灌状)。

 ここは用土原合戦を理解するに当たり示唆に富んでいると思われるので、細かく見ていきたい。
 先ず陣所を維持する事が難しい、という点であるが、これはどういうことであろうか。
 一つには季節的に大雨の事が考えられる。本庄台地の北は急激な崖を経て河畔低地となっており、乱流地帯であった。従って増水の危険は常にあり、またそうなった場合に例え自然堤防上の陣所は維持できても補給を満たせない危険はあろう。
 二つには岩松氏の動向で、利根川対岸の新田荘を根拠とする岩松氏は隣接する淵名荘・那波荘にも強い影響力を有していた。岩松氏は先の五十子陣崩壊の時点までは上杉方の有力国衆であったが、この五月現在、不気味に中立を維持していた。上杉氏陣営中には岩松氏離反の雑説もあった筈である。
 山内上杉顕定が御陣とした清水河畔の陣所がどこか正確には分からないが、河向うは概ね岩松氏の影響下にあり、利根川対岸とはいえ背後と水上補給路を扼されているだけに、その動向は要注意であった。岩松氏は実際に数ヵ月後には上杉方に敵対する事になるが、清水河畔の陣は岩松氏の与同または中立を前提にしており、岩松氏の去就次第では顕定自身さえ重大局面に晒される可能性があったのである。従って当時、上杉方はかなりの熱意で岩松氏工作を進めており、それが功を奏してもいたが、やはり位置的に落ち着く事の出来ない陣所ではあったろうと思う。
 要するに清水河畔の陣は元々長く陣するべき場所でもなかったという事だろう。という事は矢張り惣社長尾忠景と長尾景春が少し前から同地で対陣していたという事も無かったろう。

 次いで問題の次郎丸であるが、ここで改めてその位置を考えてみたい。
 次郎丸を比定する場合、太田道灌の北武蔵陣をあてる考えと、用土原の一角に次郎丸をあてる考えと、二通り考えられると思う。前者の場合は岡部~深谷あたりに位置し、山内上杉顕定は同陣を経て用土へ向かったという解釈になる。
 後者の場合は道灌が北武蔵陣を発ち軍事機動した先が次郎丸であり、そこへ先ず着陣した道灌に引き続き、顕定ら上杉本隊が着陣したという解釈になる。
 私はどちらでもありえるのではないかと思うが、現在の用土駅北西に次郎平という地名が残されている事から(道灌紀行限)、後者で良いのだろうと思う。
 この「~丸」という地名は城郭の一部にも用いられるので、私は或いは深谷城か、岡部原の古陣辺りにその地を求める事ができるのではないかと考えていたのだが、ふと各地の「~丸」地名を抽出してみる事にしてから、この考えは捨てる事にした。
 各県の丸地名を見てみると、実際には城郭と関係ないところに「~丸」と名のつく事が多い。
 例えば近くでは丹沢山系には「~丸」と名のつく山が多いが、どれも円形の裾形をしている。これは丸をそのままの意味で地名に当て嵌めた例であろう。
 また低地にある「~丸」地名には誰々が開拓した土地、という意味合いで使われている事も少なくない。私は主に富山県で「~丸」地名を抽出してみた際、殆どが駄々広い田地で、かつ近世までしか遡る事のできない地名が殆どであった事に気付いた(地名辞典)。これは人名、というよりも人の手の入った土地である事を指す「丸」なのであろうと思う(開拓して付けられたと思しき~丸地名には開拓者と地名が一致しない場合が多い)。
 そして全国には「~丸」どころか「~朗丸」地名も多く存在する。特に福岡県に多数存在することで有名であるが、実は問題の用土原に近い埼玉県嵐山町にも太郎丸地名が現存する。こうした「~朗丸」地名は「張」「原」が転じたもので(地名語源辞典)西日本を中心に全国に点在する様だ。
 それらの地名を抽出してみると、多くは山脚が平地(低地)に転ずるところに位置し、扇状地や冠水地など、中世的な開発に適した土地に名付けられている。それは福岡県でも埼玉県嵐山町でも要件は同じで、恐らく「~朗丸」地名の最も基本的な地形であろうと思われる。
 これを踏まえて用土原における次郎丸地名を考えてみると、次郎平として地名の伝承がある用土駅北西の場所は、丁度山脚から平地に転ずるところであり、急傾斜を抉りながら平地に水が溢出する地形そのものである事から、「~朗丸」地形に相応しい。
 具体的には用土駅北西の小栗あたりと考えても良いのではないだろうか。
 ここは私は上杉方が陣するには西に偏しているのではないかとも考えていたのだが、思えば景春方がどのような経路で鉢形城へ遁入するかが不明である以上、小栗付近に陣を取れば針ヶ谷・四方田・児玉の何れのルートを取られたとしても対応可能な訳で、敵の退路を断って野戦に持ち込んだ上杉方としては絶好の位置であったのかも知れない。
 要するに先発した道灌に続いて、山内上杉顕定も、主力を率いて用土の次郎丸まで進出したという事であろう。

 最後の御旗については意味を掴み難いが、結果的に先陣となった太田道灌の元に逸早く御旗を寄越したという事であろうか。これは恐らく道灌の独断専行を総大将である山内上杉顕定が認めましたよ、という合図でもあったろうと思う。
 なお付言するとこの用土原合戦では道灌が先陣を務める形となったが、当時、帰参した者が先陣を務めるのは一般的な事であり、別段道灌は離反した経歴を持つ訳でもないが、山内上杉氏の冷たい視線は感じていたと思われるので、長尾景春との決戦に及ぶにあたり、自らが先陣を務めてみせるべきであるという強い決意を秘めていた可能性は大いにあると思われる。
 そこで惣社長尾忠景に相談せず出撃したというのも、戦術的な問題以前の、一種の抜け駆け行為であった可能性もある。
 と言うのも惣社長尾忠景が梅沢要害を北から攻撃する事はできないという意見と、道灌の実際にとった機動作戦は何ら競合していないのであり、また清水河畔の陣を長くは維持できないという点についても両者は意見を共有しているのであるから、恐らくは上杉方が機動作戦を展開する事に関しては最低限の合意が為されていたと考えられる。
 となると道灌状で道灌が惣社長尾忠景に相談せず出撃したというのは飽くまで時機の事であり、またその決行の時機について判断の相違があったとしても、精々一日二日の事であったろう。或いは道灌が先手を務めるべく敢えて発起日を詰めなかったと考えても良いかも知れない。
 以上、用土原合戦で道灌が忠景に相談せず秘密裏に用土原へ向けて出撃した事については、飽くまでも日時についてのみの秘密性であり、それは道灌の先鋒を務めるべき事に対する並々ならぬ自負、もしくは気負いというものから評価してもよいと思う。またそれでこそ上杉本隊が道灌出撃後、道灌隊を素早く追随し得た事の説明が可能になるのではないだろうか。

 五月十四日早暁に開始された上杉方の軍事機動を前にして、景春方は道灌の予測通り、梅沢要害と五十子陣を引き払い、鉢形城方面へ後退を始めた。しかし機動戦においては上杉方の方が完全に主導権を握っており、景春方が後退を終えるよりも前に、山内上杉顕定自身も用土原まで進出する事ができた。
 ここで顕定は馬を返したというから南方へ(鉢形方向へ)向いていた軍勢の向きを、景春方を邀撃すべく北方へ(五十子方向へ)向け直したという事だろう。道灌はこのとき山内上杉顕定の眼前で各手を催したというから、先陣として前線の采配を任されていた(道灌状)。
 そして両軍は用土原あたりで激突し、景春方は敗れて富田へ張陣した。

 戦いは激戦であった様で、上杉方は山内上杉氏の重臣大石源左衛門尉が討死、景春方は上州一揆の長野左衛門尉為業が討死している(古河と伊勢83)。
 大石源左衛門尉は幾つかの大石氏の分流のうち惣領家とされる遠江大石氏の当主である(武蔵大石11)。長野左衛門尉為業は上州一揆の旗本、つまり上州一揆の大将とされる人物である(戦国期山内220)。
 但し上州一揆は分裂したばかりか勢力の多くが上杉方に与していたと思われる。文明三年(当合戦の六年前)には長野為業は、将軍足利義政より小幡右衛門尉とともに感状を与えられており、という事は両者はともに上州一揆の中心人物として発給されたものであると思われるので、分裂した上杉方の上州一揆は小幡右衛門尉が大将であったかも知れない(室町・戦国期上野164)。

 用土原合戦自体の経過はこれ以上に詳しくは分からないが、幾つかの特記すべきポイントはある。

 先ず第一に戦いの生起する経緯そのものが激戦となる要素を含んでいた事である。
 合戦は根拠地に後退しようとする景春方の頭を上杉方が押さえる形で起こった。従って敵を突破すべき景春方は死に物狂いに上杉方へ襲い掛かったものと思われ、結果として両軍の主要人物が討死するほどの激戦になったものと思われる。

 第二に当合戦が、松陰私語では針谷原合戦と呼ばれている事である。
 針谷原は深谷市岡部町針ヶ谷周辺と思われるが、位置的には、五十子の南南東五キロ強、小山川と清水川の合流点からは南西七キロ、深谷城からは西南西六キロ、用土の北北東四キロ弱の位置にあり、四地点に丁度囲まれている。
 景春方が上杉方の動きを見て機動する際、単純に鉢形に逃げ込む事だけを考えれば、五十子からは西方に退き児玉あたりから山間を鉢形に落ちるルートもあると思われるが、このときの景春方の行動を見るに、決してただ後退したのではなく合戦を覚悟したものと思われ、それならば五十子の東で小山川を押し渡り、南下して上杉方を追撃したとしても不思議ではない。
 そして当時の合戦では自陣のあった場所を合戦名に取る場合が少なくないので、用土原で馬を返した上杉方に対し針谷原側から戦闘に入った景春方(公方方)である松陰が、後日の著述で当合戦を針谷原合戦と呼んだのは不思議ではないと思われる。
 また用土と針ヶ谷は地点で言えば四キロ程度離れているが、原野としての地形的には連続しており、土地の者でもない軍勢にとり、用土原と針谷原の間には明瞭な境界もなかったろう。

 第三に敗れた景春方が富田に張陣した事である。
 富田は鉢形城の東南東四キロ弱、荒川の右岸に位置しており、渡河点を扼する要地である。言うまでもなく上杉方が布陣した用土原よりもずっと南、鉢形城の傍というべき地であり、従って景春方は大きな犠牲も出したろうが、本拠地への帰還は果たしたという事になる。特に景春方が渡河に成功している点には注意するべきである。渡河を援護する後詰が有力であったか、上杉方が追撃する余力がなかったか、いずれかであったのだろう。
 そして鉢形城は北側を荒川の形成する峻険な崖に防備されており、攻撃するには荒川右岸に出る必要がある。そこで景春方は上杉方の荒川渡河を阻止する必要から富田に張陣したと思われ、こうした点は文明十年に鉢形城を支えきれずに日野谷に没落した際の状況とは全く異なる。
 景春方は用土原の激戦で大きな打撃は被っただろうが、根拠地防衛自体には支障がなかったと言えよう。そしてこののち、長尾景春は古河公方の攻勢に伴い公方の軍勢に合流している。

 富田に張陣した景春方に対して、上杉方は鉢形城を攻略すべく甘粕に張陣した(古河と伊勢84)。
 甘粕は用土よりもさらに北西二キロ強の位置にある丘陵先端の地である。鉢形城からは直線距離ですら六キロ半もあるから、恐らくここは本陣で、用土辺りから一帯が上杉方の陣所だったのではなかろうか。
 しかしこの甘粕陣も長くは続かない。長尾景春の要請を受けた古河公方足利成氏が、大挙して上野国に侵攻したからである。古河公方が東方から参戦すると、とてもではないが上杉方には北武蔵を支える力は無く、戦場はふたたび北上して上野における攻防が焦点となる。
 それら文明九年七月以降の、公方参戦後の戦況については節を改めて記述したい。

 最後に実力行使から用土原合戦に至るまでの乱について簡単にまとめてみたい。

 長尾景春の乱は景春方の五十子襲撃で始まった。
 この襲撃は奇襲に成功したものであったと思われ、景春は山内上杉顕定らの首脳を取り逃しはしたものの、乱の初動を制する事には成功した。景春に与同する傍輩被官が西関東各地で蜂起し、上杉方は対応に大童になったと思われる。しかし景春方の軍事行動は一部の手勢を除くと積極性を欠いており、初動後の好機に戦果を拡大できなかった。
 対する上杉方は混乱から立ち直ると効果的に各地で反撃に転じ、景春方を随所に敗走させた。やがて戦雲が北武蔵に移ると上杉方と景春方の主力同士の間で用土原合戦が生起し、互いに大きな打撃を与えながらも決勝には至らず、戦線は膠着した。
 用土原合戦の終わった時点で、両軍ともに目的を達成できていない事には注意したい。

 上杉方はこの頃、最終的には勿論長尾景春の帰参乃至殺害を目指していたものと思われる。
 短期的に見れば、少なくとも南北に分断された上杉方勢力の再合流を目的としていたろう。具体的には鉢形城を陥落させ、上野武蔵間の自由交通を回復させ、景春与党を排除ないし帰参させ、扇谷上杉定正が五十子なき今、一旦河越に帰還するというのが当面の目標であったと思われる。
 一方の景春は山内上杉顕定と越後上杉定昌兄弟を討ち取る事が究極の目的であったが、自軍の連携も半ば不可能になった状況で、短期的な目的は喪失気味であったのではないかと思われる。
 そこで景春は恐らくは古河公方への働きかけを強めたであろう。そして待望の古河公方参戦が二ヵ月後には実現する事になるのである。これを以て長尾景春の乱は新段階に入り、乱の性質もまた変化する事になる。
 即ち長尾景春の乱は一旦享徳の乱に吸収され、景春は乱の主役から脇役へ廻る。しかし長尾景春の乱は享徳の乱の性格をも変化させており、やがて景春は再び戦乱の一方の主役に再び躍り出る事になるのである。


参考文献
 関東平野の中世     簗瀬大輔  高志書院  2015年(関東平野)
 古河公方と伊勢宗瑞   則竹雄一  吉川弘文館 2013 (古河と伊勢)
 上杉顕定        森田真一  戎光祥出版 2014 (顕定)
 長尾景仲        黒田基樹  戎光祥出版 2015 (景仲)
 足利持氏とその時代   黒田基樹編 戎光祥出版 2016 (持氏時代)
 喧嘩両成敗の誕生    清水克行  吉川弘文館 2006 (喧嘩)
 関東足利氏と東国社会  佐藤博信編 岩田書院  2012 (中世東国論5)
 武蔵大石氏       黒田基樹編 岩田書院  2010 (武蔵大石)
 豊島氏とその時代    峰岸純夫編 新人物往来社1998 (豊島氏)
 鎌倉府と相模武士    湯山学   戎光祥出版 2014 (鎌倉府相模武士)
 中世南関東の港湾都市と流通盛本昌広 岩田書院  2010年(港湾都市)
 長尾景春        黒田基樹編 戎光祥出版 2010 (景春)
 道灌紀行は限りなく   尾崎孝   個人サイト様   (道灌紀行限)
 神奈川中世城郭図鑑   西股総生他 戎光祥出版 2015 (神奈川城郭)
 武蔵上田氏       黒田基樹編 岩田書院  2010 (武蔵上田氏)
 戦国期山内上杉氏の研究 黒田基樹  岩田書院  2013 (戦国期山内)
 角川日本地名大辞典         角川書店     (地名辞典)
 道灌紀行        尾崎 孝  道灌文庫  2013年(道灌紀行)
 地名用語語源辞典    楠原祐介  東京堂出版 1983 (地名語源辞典)
 室町戦国期上野の地域社会久保田順一 岩田書院  2006年(室町戦国期上野)
 中世東国の道と城館   齋藤慎一  東京大学出 2010 (東国の道)
 東国武将たちの戦国史  西股総生  河出書房新 2015 (東国武将)

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