中世前期戦国時代の東国と河越合戦

鎌倉府から河越合戦に至る東国の戦乱について

文明十年以降の長尾景春の乱(1)~太田道灌の南武蔵転進と奥三保制圧

2017年08月13日 17時09分59秒 | 文明十年以降の長尾景春の乱

武蔵北部と上野南部周辺図

 文明九年正月十八日、長尾景春の乱が勃発した。
 当時関東では古河公方足利成氏と、幕府方関東管領山内上杉顕定との間に、享徳の乱が戦われていた。
 享徳の乱は享徳三年十二月二十七日(1455年1月24日)に古河公方足利成氏が、当時の関東管領山内上杉憲忠を謀殺した事に端を発した戦乱で、このときから数えれば、乱は文明九年の時点で二十三年目に突入していた。
 享徳の乱はこののち文明十四年に古河公方と室町幕府の間に都鄙和睦が成って終結するので、長尾景春の乱は享徳の乱の末期に起こった叛乱であるという事になる。というよりも当乱の勃発が享徳の乱の終結を促したと言った方が良いかも知れない。

 長尾景春の乱は関東管領山内上杉氏家中の人事を巡った内紛である。
 ただ山内上杉氏は享徳の乱の一方の(事実上の)大将であり、その支配地域・地点は広域にまたがっていたので、長尾景春が各地の傍輩・被官と語らって一斉に蜂起すると、その影響は山内上杉氏内部に留まらず、幕府方全体に及んだ。
 上杉方は乱の勃発により先ず享徳の乱の初期以来長く拠点としていた五十子陣を喪失した。その後は反撃に転じ、文明九年五月には北武蔵の用土原で山内上杉顕定自ら長尾景春の軍勢と戦い、景春の勢力をその本拠地である鉢形城周辺に押し込める事に成功した。
 ところが同年七月に古河公方足利成氏が長尾景春の救援に立ち上がり、西上野の滝にまで進出して張陣すると、今度は上杉方が北上野の白井に押し込められる事態となった。上杉方は被官や配下国衆の相次ぐ離反に加えて古河公方の大軍を迎え、窮鼠と化した感があった。
 ここに至り上杉方は古河公方足利成氏に室町幕府へ成氏の取り成しをする事を条件に停戦する事にした。これは直ぐに容れられて、文明十年正月二日、上杉方と古河公方方の間に和談が成立した。古河公方方の軍勢は上野深く踏み込んで張った陣を焼亡させ、北武蔵の成田陣まで撤収した。

 この停戦によって取り残されたのが長尾景春であった。
 文明十年正月の和談は、飽くまでも関東管領山内上杉顕定と古河公方足利成氏の間に成立したものである。
 恐らく古河公方が上野の滝に陣して管領方と対陣に及んだあたりから、長尾景春は単独の叛乱者ではなく古河公方の臣下に入っていたと思われるが、形式上はそうであっても実際の話として古河公方と関東管領の和談に景春与党は含まれる筈がない。つまり両者の和談というものは応援に出て来た古河公方が景春の闘争の枠外へ立ち去る事になるものであった。
 無論元々古河公方は享徳の乱を終結させる好機と捉えて出張ってきたのであるからこれは当然の話で、寧ろ景春が古河公方参戦という最大最後の好機を活かす事に失敗したと言った方が良かろう。ともあれ本来享徳の乱とは別枠で蜂起した景春には和談は迷惑でしかなかった。そこで景春は反山内上杉顕定の軍事活動を継続するとともに、引き続き古河公方の関与を継続させるべく和談の妨害を目論む事になる。
 こうして長尾景春の乱は最高潮となった文明九年末の対陣が不戦のまま解散したのちも、景春とその傍輩らによって継続していき、概ね鎮圧される文明十二年まで関東の広い範囲で戦われていく。以下文明十年正月の和談以降、乱の終息までを見ていきたいが、今節では一先ず同年四月の太田道灌による奥三保制圧までを区切りとする。

 文明十年正月五日(1478年2月16日)古河公方足利成氏の軍勢は、上野侵攻の拠点であった滝御陣を自焼させ、北武蔵の成田陣へ退いた(古河と伊勢86)。この古河公方の軍勢の撤退する模様は前代未聞であったと道灌状にあるので、相当の狼藉振りがあったという事だろうか。ならばこれは和談の行方にも影響があったかも知れない。しかし結局和談は事実化していく事となり、古河公方方として在陣していた北関東の大名らはそれぞれの在地へ帰還し、上野に在陣していた山内上杉氏の最有力庶家・扇谷上杉氏の軍勢は本拠である河越へ帰還していく。

 文明十年正月二十四日(1478年3月7日)、扇谷上杉定正・扇谷上杉氏家宰太田道灌・その父太田道真は、倉賀野陣より本拠の河越城へ一日懸け(道灌状)で帰還した(古河と伊勢86)。山内上杉顕定からは引き留められたが、道灌は武蔵の安定を第一に考え、道真と相談の上で当主定正以下揃って武蔵への帰還を決めたという(道灌状)。
 倉賀野は現・高崎市倉賀野で、烏川左岸の高崎台地上にある。鎌倉街道上に位置しており(中世東国の道74)、足利成氏が前年に陣した滝より南西三キロ半の位置にある。鎌倉街道は当地から烏川右岸の山名を経て鏑川を渡河し、北武蔵の児玉へ至るので、倉賀野は烏川の渡河点付近の要地であったという事になろう。当陣に扇谷上杉勢が何時ごろからあったのかは知れないが、陣というからには暫く滞在していたものであろうか。

 倉賀野対岸の児玉は景春党(もしくは公方方)の影響力の強い地域である。その南の鉢形は景春の本拠であるから、扇谷勢は本庄台地を東へ迂回して村岡で荒川を渡河し、河越へ帰陣したのではないだろうか。倉賀野から河越までは道なりにすると大体65km程もあり、一日で機動したとすればこれは結構な強行軍であると思う。軍勢は早朝に出陣したとしても河越へ帰陣できたのは日も暮れつつある頃だったのではなかろうか。
 扇谷上杉氏の軍勢が上野から本拠河越へ帰還する場合、どうしても通過しなければならない村岡の渡河点とその一帯はまだまだ景春与党の影響力に侵食されていたし、成田陣など東の公方方にも挟まれた地域であり、情勢が不安定なため、当主の扇谷上杉定正を危険に曝さない為にも、一刻も早く駆け抜けてしまいたかったのだろう。
 古河公方足利成氏も正月二十四日付兵部少輔宛書状写で定正が河越へ打ち通ったと記しているが(遺文古河52)、打ち通ったという言葉からは強引なニュアンスも感じられるので、互いに手を出し合った訳ではないが、完全武装の軍勢が遠くない地域を南下して行ったのであり、それなりの緊迫感があったものと思われる。

 なお扇谷勢が村岡から河越へ南下したとすると、或いは利根川水系を東進する際に利用したかも知れない。
 この場合は文明九年に公方方へ転じた岩松氏の新田荘の動静が鍵となるが、太田道灌は当年(文明十年)夏頃に岩松氏の本拠・金山城を訪ねており、手厚い歓待を受けている(古河と伊勢88)。
 岩松氏は長尾景春の乱へ古河公方が参戦するにあたって関東管領を見限って公方に与したが、山内上杉氏と親しい嫡子・明純を廃嫡までして路線を変更しながらの今回の和談であるから、長尾景春ほどではないかも知れないが、山内上杉氏と支配領域が接している事もあり、岩松氏の困惑も大であったろう。そこで扇谷勢の河越帰還にあたり、利根川水系の安全確保を岩松氏が請け負った可能性もあるのではないだろうか。勿論これは妄想に過ぎないが、岩松氏が山内上杉氏への取り成しを扇谷上杉氏に期待した事については間違いなかろう。

 また扇谷上杉氏の軍勢は古河公方方軍勢の撤収以後二十日間近くも上野にあった事になる。これは長い対陣のあとであるから休養や事後処理に追われての事であろうか。扇谷勢の帰還にあたり関東管領山内上杉上杉顕定は慰留したと道灌状にあるので、和談後の情勢がまだ固定化していない状況では山内上杉氏の手前、直ぐには退散出来なかったのかも知れない。
 しかしこの後の展開を見ると扇谷上杉氏の軍勢は武蔵など各地で矢継ぎ早の戦いに邁進する事になるので、上野の重大危機を乗り越えている間に南関東もかなり騒がしくなっており、危機感は強まっていたものと思われる。


江戸城周辺図

 文明十年正月二十五日(1478年3月8日)、太田道灌は河越に帰還した翌日には早くも、平塚(東京都北区)に要害を構えて立て籠もる豊島勘解由左衛門尉を討つべく膝折へ出陣した。
 勘解由左衛門尉は前年に江古田原合戦において道灌に敗れて弟と練馬・石神井両城を失った人物で、本拠の石神井城を失陥したのちはいずこかへ逃亡していたが、道灌が直ぐに北武蔵へ転戦したせいか、豊島氏は完全に没落した訳ではなく、豊島氏が繁栄した石神井川流域のうち、下流域以東への影響力は温存されていたらしい。
 勘解由左衛門尉が取った平塚城はその石神井川下流右岸縁辺、現在でいう北区上中里平塚神社辺りから南東へ続く台地上に位置していたという(豊島氏242)。
 平塚神社は飛鳥山から南東へ細く伸びる台地上にあり、南西に対して崖が続く。道灌状にもある様に、江戸城を意識した城地の取られ方をしていると考えて良かろう(豊島氏242)。江戸城までは大体六キロ強の位置である。

 対して太田道灌の着陣した膝折は現・朝霞市膝折で、河越往還が直ぐ傍を通っている。
 現在でも膝折の町場は川越街道のやや北に逸れて存在しているが、当時から宿場は今と同じく河越往還からややそれて繁栄していたらしい(地名辞典)。当地は河越から十七キロ強(道なりで18km強)、平塚城の辺りからは十六キロ弱(約16km)とほぼ中間に位置している。河越から膝折だと一日の進軍距離としてはさほどではないが、このときは前日の強行軍もあって自重したものとも考えられる。
 しかしそれ以上に太田道灌にとっては半年振りの南武蔵であるから、偵察や情報収集も慎重に行なった事であろう。また、膝折から河越街道を東に四キロ弱進むと白子郷に出るが、其処は豊島氏一族が繁栄した板橋などの石神井川流域に近い。
 板橋はずっとのちの時代、大永四年に扇谷上杉氏が江戸城を後北条氏に奪われた際、江戸城を退去した扇谷方の軍勢が最後の抵抗を試みた場所で、江戸地域の境目を成していた(扇谷と道灌81)。またもう少し近い時代の例で言うと、長享の乱では永正元年に扇谷上杉氏の河越城を攻撃していた山内上杉氏が、江戸城を責めるべく転進して河越往還を進軍した際、やはり白子郷にて一旦留まっている(古河と伊勢130)。これも江戸城域への侵入を前に境目で一旦軍勢を整えたものと考えられよう。
 この頃はまた地域の事情も違うだろうが、道灌からすれば敵方の豊島氏の(元)勢力圏に進軍する訳であるから、この日は慎重に境目である膝折に留まり、翌日の平塚攻撃を企図したものだったのではないだろうか。

 文明十年正月二十六日(1478年3月9日)、暁のうちに平塚城に拠っていた豊島勘解由左衛門尉は足立郡へ逃亡した。太田道灌はこれを足立郡まで追いかけたが取り逃がし、この日の夜には江戸城に入ったという(古河と伊勢86)。
 この勘解由左衛門尉が逃亡したという足立郡は、実は平塚城の対岸である。足立郡といえば、応永期には同郡沼田郷を本拠としていた豊島左近蔵人道頭という人物がある(扇谷と道灌95)。沼田郷は現在の足立区江北3丁目の辺りで、丁度平塚城の背後に当たっている。更にその先には長尾景春の傍輩・千葉孝胤の支配する領域が広がっており、勘解由左衛門尉がそうした後背地を策源にする大前提のもと、平塚城を取ったのは明らかである。従って道灌が深追いを避けたのも当然の事であったろう。

 翌正月二十七日朝、太田道灌は豊島勘解由左衛門尉を追って丸子に張陣した(道灌状)。
 足立郡に逃亡した勘解由左衛門尉であるが、早くも翌日には武蔵国橘樹郡に移ったらしい。しかし道灌が丸子に張陣したと見るや、勘解由左衛門尉は直ぐに小机城へ籠もった。このとき小机城に入る前の勘解由左衛門尉が、どのあたりに拠っていたのかは不明である。道灌が軍勢を差し向けようとすると小机に籠もったとあるので(道灌状)、最初から同城に籠もっていた訳ではなかった様だ。
 また豊島氏の基盤である石神井川~足立郡南端部を捨てて橘樹郡に出没した理由も分からない。豊島氏が石神井川流域に領域的に行なってきた支配はすっかり崩壊してしまい、武蔵南西部の長尾景春の傍輩・被官を恃まねばならなくなったのであろうか。それならば家督のありかを巡って道灌と激しく対立していた千葉孝胤を頼った方が良いのではないかと思うが、何か千葉氏を頼る事のできない理由が豊島氏にあったという事だろうか。
 なお道灌の陣した丸子は現在の川崎市中原区上丸子の辺りで、多摩川の重要な渡河点であり、江戸城から南西に約十五キロ、ここから小机城までは南西に十キロ程度の距離に位置している。多摩川右岸低地帯に散在する微高地に陣取ったものであろう。

 文明十年二月六日(1478年3月19日)、太田道灌は長尾景春方の拠る小机城の近くへ陣を進めた。
 小机城はのちに後北条氏も地域支配の中心の一つとした重要拠点である。長尾景春の乱に於いては勃発以来ここで初めて名前が出てくるが、道灌は南武蔵・相模での戦いにあって小机城は近さの割には後回しにしていた様子で、景春与党の拠点として簡単に手を出せない程度には既に要害化されていたという事だろう。文明十年の戦いでも小机城責めを道灌は慎重に進めていく。

 さて、当小机保は応永期までは横山荘を支配する長井氏の一族長井次郎入道が領していたものの、次郎入道は上杉禅秀の乱で禅秀方に与したらしく以後はその名が見えなくなったという(戦国期上杉285)。
 なおこの長井次郎入道は、文明十年正月に山内上杉氏が古河公方と停戦を結ぶ際、寺尾入道とともに山内上杉方の使者として派遣された長井左衛門尉の一族でもある。
 それはともかく応永二十三年の上杉禅秀の乱の結果、小机保は鎌倉府の直轄領となったと考えられる。というのも嘉吉二年には、小机保鳥山郷を押領していたとして、大石左衛門尉が鎌倉府奉行人連署奉書にて退転を命じられているからである(大石10)。
 この大石左衛門尉は山内上杉氏重臣である大石氏の一族で(大石9)、永享の乱や結城合戦に際し、兵粮料所として当地を押領したものと考えられる。その後の経緯は不明であるが、小机保の界隈は享徳の乱を経て、事実上山内上杉氏の所領と化していたのではないだろうか。
 当地は長尾景春の乱以降は山内上杉氏家宰・惣社長尾忠景の支配が行なわれているところから察するに、家宰職領として差配されており、従って文明期にあっては白井長尾氏の影響力が強く、長尾景春の乱では景春方の中心地の一つとして機能していたのであろう(関東上杉氏48)。そうした拠点であったからこそ、豊島勘解由左衛門尉も最終的に逃げ込んだのかも知れない。

 また正月二十六日に丸子へ陣を進めた太田道灌が、小机城へ詰めたのは六日である。つまり一週間程度の期間が空白で、その間の動向は不明である。久方振りに本拠へ戻ってきた事で忙殺されたものであろうか。
 尤も二月九日付小山梅犬丸宛足利成氏書状写には、御方の者共が小机要害へ馳せ籠ったところ、正月二十八日に太田道灌が陣を取り寄せてきていると記しており(遺文古河52)、道灌は丸子へ着陣以降も小机攻略へ向けて着々と周辺環境の整備に勤しんでいた様子は伺える。

 文明十年二月七日(1478年3月20日)、長尾景春は板屋に出陣した(遺文古河52)。千葉介孝胤(のりたね)も景春のあとを追い四、五日中には出陣する予定であったという(同上)。
 板屋の位置は不明であるが、景春は次いで現・坂戸市の浅羽に張陣するのでそこへの跳躍場となる地点ではあったろう。ただ景春がそもそもどこから出陣したのかも不明なので、推測は難しい。景春の勢力圏を考えると、出陣した場所は古河公方と同じ成田陣、北武蔵の長井荘の界隈、鉢形周辺であったと思われる。尤も古河公方足利成氏は長尾景春出陣を小山梅犬丸に伝えた上記の書状で、景春が出陣し千葉介も近々出陣すると当御陣(成田陣カ)が非常に無勢になるので(臣下の)片見政弘らに出陣を命じて欲しいと記しており、景春と千葉介は和談を進めようとする古河公方の直ぐ傍に陣していた可能性が高いのかも知れない。そしてこの頃には滝から観音寺原までに供奉していた大小名らはみな帰国してしまっていたものと考えられる。
すると和談に絶対反対する景春・千葉介らが陣する成田で同陣していた古河公方の心労に想いが至るとともに、彼らの目の前を横切った扇谷勢が、一日懸に河越へ急いだのも得心がいこう。

 文明十年三月頃、長尾景春は浅羽に張陣した。景春は被官吉里氏を二宮城へ送り、同城の大石駿河守と合流させた。これは小机城への後詰を企図したものであったという(道灌状)。
 太田道灌の小机責めが始まってから既に一月程度が経過しているが、景春が被官衆を浅羽から二宮へ派遣出来たのだから、この頃はまだ浅羽と二宮城を繋ぐ山麓沿いの南北通路が生きていたという事が分かる。そしてこの南北線から東の小机城へ増援を送ろうとしていたのが確かであれば、景春方の戦略は基本的には文明九年春の時点とそう変わっていないと言えよう。即ち景春方の本拠である秩父から神奈河に至る連絡線を確保して長期対峙態勢を確保しようというものである。
一方で景春方は糟屋-江戸-河越の扇谷上杉氏三角線の切断にも熱心で、この後も度々扇谷上杉氏の連絡線上で戦いが生起していく。結局景春は大きく見れば、蜂起緒戦の五十子陣崩壊の際に山内上杉顕定兄弟を取り逃し上野国へ去られた事で、意図していなかった扇谷上杉氏との抗争に引きずり込まれる事になったとも言える。

 長尾景春が陣した浅羽郷は、埼玉県坂戸市浅羽の辺りと考えられる。
 当地は高麗川流域で、高麗川南縁には低地帯の中に自然堤防が形成され微高地を成していた。恐らくは景春もそうした微高地上に張陣したと考えられる。
 浅羽郷は河越へ東に十一キロ強、鉢形へは北西へ二十三キロ半、二宮城へは南南東へ二十五キロで、かなり河越城へ寄せた距離に位置している。前年に勝呂原へ誘い出されて敗走した矢野兵庫助が張陣していた苦林とは三キロと近い。景春がこの界隈の確保を重視していた事がよく分かる。
 また苦林-浅羽郷を線で結んでみると、丁度河越と越生の中間に引かれている事が分かる。越生は太田道真・道灌父子の影響力の強い地であり、或いは河越と越生を分断する意図もあったのではないだろうか。

 文明十年三月十日(1478年4月21日)、扇谷上杉定正と太田道真は、浅羽郷の長尾景春を攻撃し、これを退散させた。
 景春は成田陣へ後退したが、そこで傍輩・千葉孝胤と相談、再度後詰を果たすべく小机方向へ馬を返して千葉介とともに羽生峯に張陣した(道灌状)。
 この羽生峯の位置はハッキリとはしていないが、則竹雄一氏の記す通り滑川町在で良いのではないだろうか(古河と伊勢87)。具体的には滑川町羽尾であろうと思われる。羽生峯の位置を羽生市と明記するものもあるが(景春204)、羽生は成田陣よりも更に東北東十一キロ半に位置しており、馬を返したにしては逆に小机城より遠退いてしまっている。それだと文意が取れなくなるので、羽生市羽生と考える事は不適当だろう。対して滑川町の羽尾は鉢形城の東南東十七キロ、荒川の渡河点村岡の南九キロ、浅羽郷の北十一キロ半に位置している。当地には市野川を南に配して取った羽尾城址があり、無論当乱との関係は不明であるものの、南面した陣所とし易い場所であった事は間違いなく、妥当であると考える。

 文明十年三月十九日(1478年4月30日)、太田図書助資忠(道灌弟)は、小机より河越城へ帰還した。資忠は太田道灌と同陣して小机攻撃に加わっていたらしいが、羽生峯攻撃の援軍として遣わされたのである。
 翌三月二十日、扇谷上杉定正と資忠は河越城を出撃して羽生峯へ進撃した。これに対し長尾景春と千葉孝胤は一戦も交える事無く退散し、成田陣へ後退した。この結果、景春本隊は小机城への後詰が不可能となった。既に二宮城には吉里氏が先遣されていたが、大石駿河守も、景春の連敗を見ては小机城救援など出来なかったであろう。或いは出陣していたとしても敗報を聞けば引き上げざるを得なかったであろう。

 文明十年四月十日(1478年5月21日)、小机城は没落した。後詰を得られない情勢となったので籠城衆も遂に逃亡したものと思われる。

 小机城が陥落した事で、景春方は久良岐郡-橘樹郡への影響力を喪失したものと思われる。
 しかし道灌状によればこの頃、景春方は相模の「五六ヶ所」に城を構えており、なお勢力を維持していた。その中でも再興された金子掃部助の小沢城が中心であった様だ。他にも磯部城や小磯城などが景春方として蜂起していただろう。これらは鉢形-二宮-小沢・磯部-小磯という乱勃発当初の南北線を少なくとも鉢形-小沢間で再生したものであり、必然的に扇谷上杉氏の支配領域を東西に分断していた。

 そこで太田道灌は速やかに扇谷上杉氏の分国である相模国より景春方を追放したい想いではあったが、先ずは本拠河越がある本国たる武蔵国の静謐を優先し、大石駿河守の二宮城を攻撃すべく出陣した(道灌状)。
 鎌倉府支配期の晩年、扇谷上杉氏は相模国守護であり、守護所のある相模国糟屋が本拠であったが、享徳の乱で長い戦乱期に突入すると、最前線に近い河越に城を築き本拠を推進した。以来二十年、扇谷上杉氏は本拠を武蔵国に進めたままであり、この頃には相模国は分国と認識されていたのだろう。


二宮城と奥三保周辺図 なお奥三保十七ヶ村については橙が日向六ヶ村・紫が日陰七ヶ村・桃が大貫四ヶ村

 二宮城の大石駿河守憲仲は二宮城に拠っていた。
 当城は現在あきる野市二宮神社の辺りにあり、多摩川の右岸に位置し、景春与党の蜂起する小沢城等と秩父を結ぶ南北交通線上にあるとともに、甲斐へも続く秋川流域の東の入り口を成しており、東西南北の往来を扼す交通の要衝であった。
しかし河越よりもかなり北の羽生峯で長尾景春の軍勢が敗れ、孤立無援となった小机城も没落するなど周辺環境が悪化する中で、憲仲の抗戦意欲は随分削がれていたと見え、太田道灌が陣を進めるとともに降伏を促すと、憲仲は降参し、山内上杉顕定の幕下に復した(道灌状)。
 このとき既に景春被官の吉里氏が援軍として同城には入っていた筈だが、或いは降参に先駆けて退去していたのかも知れない。二宮城が降参すると相模国でも磯部城などが相次いで降参し、小沢城も自落、金子掃部助は没落した(道灌状)。恐らくこのときに、江戸と糟屋を結ぶ扇谷上杉氏の東西連絡線を切っていた景春与党の要害は一掃されたものと思われる。景春与党は道灌によれば既に「残党」と記される状態で、奥三保へ後退していった(道灌状)。

 奥三保(おくみほ)は今でいう相模原市北西端部に位置し、山梨県と境を接する。概ね現在の宮ケ瀬湖・津久井湖・道志ダム・相模湖一帯に相当する広域呼称である。時代によって数は前後するが概ね十七くらいの村々によって構成されており、のちの北条氏に支配された時期でも一部の村は武田氏との半済であったなど、甲斐国との関係が深い。今では津久井湖・相模湖などの人工ダムによって景観が変えられているが、中世には無論それらのダムは存在せず、特に相模湖の湖底は交通の結節点であった様だ(明治29年作成地図「上野原」)。
 当地には椚田から現相模湖北岸を通って甲斐へ入る所謂甲州街道や、小山田保から粟飯原郷の辺りを経て津久井湖へ至る東西ルート、厚木・海老名から中津川流域を伝って現相模湖南岸へ至るルートなどが集中し、武蔵・相模・甲斐の三ヶ国を結び付ける交通の重要な通過点となっている。
 また景春与党が再三取り立てた小沢城や磯部城からすると奥三保は戦略的な後背地を成しており、長尾景春方にとっては様々な意味で非常に重要な根源地であったろうと思われる。

 さて二宮城を攻略した太田道灌は、愈々相模国の景春残党を攻撃する。
 重複するがこの前後の経緯を道灌状に見ると、
「小机城は四月十日に没落した。相州には敵城が五~六ある。相州は分国だから速やかに追放したいが、先ずは武蔵国を静謐にして関東管領を迎え入れたいので、大石駿河守の楯籠る二宮に陣を寄せたところ、降参した。すると相州の磯部などの城も降参し、小沢城は自落した。残党は奥三保に楯籠ったが、道灌は村山に陣を寄せ、太田図書助・六郎を二方面より奥三保へ侵攻させた。本間近江守・海老名左衛門尉・甲州加藤その他、彼の国境の者共相談して我が軍に向け陣を寄せてきた。搦手に於いて図書助が手を尽くして勝利を得た。海老名左衛門尉を討ち取ったとの報告が夜中に村山陣に届いたので、未明に出陣し、甲州境を越え、加藤要害へ攻め寄せ退散させ、鶴河などに放火したので、そのまま相州東西は静謐になった」とある。
 これを素直に受け取ると、
太田道灌は文明十年四月十日に小机城を落としたあと、二宮城を攻撃すべく陣を寄せ、降参を受けて村山に陣した。小沢城などは没落した。そこで図書助と六郎両名の先遣隊を奥三保へ二手に分かれて侵攻させたところ、四月十四日に敵の軍勢と激戦になり、搦手の図書助の活躍もあってこれを破った。勝報を得た道灌は合戦の翌日(十五日)未明に出陣し、甲州境を越えて加藤要害を落とした。
 という流れになるのだろう。
 しかし、すると道灌は小机城陥落から相州東西静謐を六日間+α程度で勝ち取った事となり、相当な電撃戦を行なった事になる。その効率の良さはかなりのものだ。そこでこの電撃戦の経緯をもう少し細かく見ていきたい。

 小机城を落とした太田道灌は、複数の攻撃対象から先ず二宮城を優先した。
 小机城攻撃の軍勢は羽生峯の戦いで太田資忠が河越勢への応援に小机から機動するなど、文明十年三月に於いては太田勢の主力を形成していたと見られ、道灌も同陣にあったと思われる。従って道灌は小机城周辺から次の戦場へ転進する事になる。
さて軍議では次の攻撃目標に相模の敵城を選ぶ選択肢もあった様である。
 実は小机から見ると、二宮城は直線距離で約三十五キロ、対して磯部城は直線距離で約二十キロと、磯部城の方が距離は格段に近い。先にこれら相模の敵城群を攻撃する意見が出ても不思議はない。
 道灌は二宮城攻略を優先した理由に当時上野にあった関東管領の迎え入れを挙げているが、これは実際には副次的な要素で、奥三保という後方策源地を放置したまま、ただ磯部城などの諸城を攻撃しても意味がないと考えていた為であろう。恐らく道灌が磯部城などに向けて進撃すれば直ぐに城方は没落しただろうが、没落した敵方は後背地の奥三保に一旦逃げ込んだだけで、道灌方が他の戦場に転進すれば直ぐに山を降りて再び城を取り立てる事になる。
 こうした進退自由の遊撃戦を許してしまうと攻撃方は疲弊する一方なので、交通の要点を押さえるだけのゲリラは後回しにして、先ずは二宮城を責める事にしたのであろう。当地周辺も、長尾景春の乱が勃発した文明九年正月の情勢とは既に変化しており、明らかになっているところでは南に隣接する横山の長井氏は山内上杉氏に帰参済みであり、のちの経緯を見ると檜原筋も上杉方であったと思われるので、二宮城の大石駿河守は概ね孤立しつつあり、攻略対象に選び易かったろう。或いは水面下では何らかの接触があり、道灌は早期帰参の感触を得ていたのかも知れない。

 太田道灌が二宮城攻略に向けて陣を寄せると、同城の大石駿河守は降参した。
 小机から二宮城に迫ったのだから、関戸か丸子かで多摩川の左岸へ渡河し、府中を経て西進したものであろう。仮に関戸を押し渡って府中を経て同城に迫るとして四十キロを越える道のりである。この距離を長陣の軍勢で一挙に寄せるとも思えないので、道灌の軍勢は大石氏の領域との境目辺りで一旦留まり陣を敷いたと思われるのだが、或いはそうした境目へ取り付く前後には大石氏より帰参の意思が示されたものと思われる。
 何しろ小机落城から道灌本隊の奥三保侵攻までは六日しかない。小机陥落が十日、十一日には早くも進発、同日二宮城も降参したという事にしておきたい。太田道灌はそのまま前進して、村山陣を取ったのは翌十二日の事であろうか。

 太田道灌が取った村山陣は、狭山丘陵南麓の山地裾であった。
 村山は長尾景春の与党が蠢動する鉢形―秩父―金子―二宮―小沢という南北線の、金子と二宮の間に位置しており、恐らく二宮城責めの際に当初より当陣は予定されていたと思われる。当地を押さえられると山間の連絡を除いては、景春与党は秩父を中心とする本隊と、相模を中心とする南支隊とに分断される事となる。つまりは所謂どてっ腹にあたっており、景春方としては道灌を排除したいところであっただろうが、この後の奥三保の速やかな制圧のされ方を見ても、もう景春方に余力は残っていなかったとみるべきだろう。

 さて村山陣であるが、同陣の位置には大将山と真福寺の二説があるという(道灌紀行218)。
 大将山は現・武蔵村山市総合運動場の裏手、伊勢神社のある辺りで、村山から二宮までを一望出来る。一方の真福寺は大将山の東一キロほどに位置しており、道灌在陣の伝承があるという(道灌紀行218)。
 材料は限られているのでどちらと言える筈もないが、いずれに陣取ったとしても狭山丘陵の南端で、舌状台地の先端近くという当時の陣取りの利に適った地である事はともに同じで、ある意味どちらでも良かろうとは思う。仮に大将山とした場合、当地は二宮城より北東へ七キロ弱の位置にあり、遠巻きにしても責めるにはやや離れている様にも思われるが、前年に用土原合戦ののち上杉顕定が鉢形城を責める際に陣した甘粕という位置を想起すれば、本陣という意味ではこんなものなのかも知れない。

 この村山陣は二宮城攻略の陣であると考えられるが、一方で奥三保や相模川流域の長尾景春方諸城攻略の起点ともなり得る地であった。

 太田道灌は二宮城攻略に次いで、太田図書助資忠と太田六郎を二手に分けて先遣隊として奥三保へ侵攻させた。
 村山陣に着陣したのが文明十年四月十二日(1478年5月23日)とすると、翌十三日には攻撃を発起したものと思われる。
 この頃、小沢城や磯部城といった相模国の景春与党の諸城は相次いで自落した(道灌状)。これは二宮城の降参を見ての事と思われるが、二宮城の降参に続いたのか、それとも上杉方の村山陣よりの出陣を見てなのかは分からない。しかし村山陣を出て真西に進み秋川渓谷より北迂回ルートで奥三保に侵攻するなら兎も角、河尻から西進するにしても、厚木から北西進するにしても、村山から奥三保へ向かう場合、先遣隊は先ず南下する必要がある訳であり、小沢城以下の景春方諸城に取っては、恐らく二宮城をあっと言う間に平らげた道灌隊が次の獲物とばかりに自城に迫って来ている様には感じられたであろうから、早々に自落して我先に奥三保へ落ちたとしても別段不思議な事でもないと思われる。
 景春方諸城の降参や自落は二宮城陥落と続く上杉方の南下に伴うものと考えて良いのではなかろうか。

 この奥三保への攻勢に対し景春方も反撃に出て、海老名左衛門尉・本間近江守・加藤氏らが陣を寄せてきた(道灌状)。
 道灌状に国境の者共とあるのは恐らく甲相国境の者共という意味で、奥三保に遁走した景春方に甲州の勢力が援軍として加わったものであろう。両軍は四月十四日に衝突し、道灌方は搦手の図書助の尽力もあり勝利、景春方の海老名左衛門尉は討死した。これで奥三保の景春方は組織的な抵抗能力を失ったものと見え、太田道灌本隊の追撃も受け制圧された。

 ところで太田道灌の先遣隊はどの様な侵攻路を取って奥三保に乱入したのであろうか。当時の奥三保への東側からの侵攻ルートとしては複数のものが考えられる。

 先ず村山から直接西進して秋川渓谷を行く北廻りの檜原ルートがある。
 これは所謂古甲州街道の道のりで、二宮を経て真っ直ぐ秋川渓谷に入り、現在の檜原で浅間山の南西麓を巻く感じに西進したのち、南下して甲州に至るものである(地名辞典)。
 この古甲州街道は甲州へ入らず沢井川に沿って佐野川から奥三保へ入る事も出来たものと思われる。佐野川は奥三保十七ヶ村の中でも最も北に位置する村で、ここから直線距離なら吉野まで五キロ弱である。その吉野は現在の相模湖北岸に接する村で、奥三保の中心地の一つである。また佐野川の間道ではなく直接本道上を進めば後日太田道灌に放火された甲斐の鶴河である。この様に村山陣は奥三保へ北から侵入するに適した所にあった。道のりは約50km、ただ山間の道の為、途中比高約700mを登って降りる必要があり険しい。

 その他にも奥三保に侵攻するルートは複数あった。
 最も著名なものとして挙げられるのが、厚木から北西に進み青山を経て、津久井湖西方の三加木(みかげ)村に出るルートである。
 このルートは応永三十三年六月、鎌倉府が甲斐国で抵抗する武田信長を討つべく、一色刑部少輔持家を大将とする軍勢を派遣した際、諸衆は先ず海老名の北に位置する座間に集結し相模川を渡河、奥三保の青山陣を経て都留郡へ侵攻し勝利を収めた事が知られている(地名辞典・山梨県史231)。
 またかなりのちの時代になるが永禄十二年十月に武田氏と北条氏との間で生起した合戦は、三増峠の南麓で行なわれた戦いであるが、合戦場として伝えられている地は、先の青山から東南東へ六キロ強の位置にあり、応永の鎌倉府の軍勢が辿った道と近似している。
 そしてこの厚木―青山―三加木のルートは、厚木を廻らずとも小沢城の辺りからも接続しており、小沢―青山―三加木というルートも想定する事が可能である。小沢城は金子掃部助が二度に渡って取った渡河点を扼する城だが、この様に奥三保との関係の深さには注意が必要である。

 もう一つ奥三保へのルートとして想定出来るのは、相模国東郡の河尻から太井―中村へ直線的に入っていくもので、河尻から暫くは相模川の左岸を行き、今は津久井湖底に沈む荒川村の辺りで右岸へ渡河するものである。これは中世においては記録的には余り見られない侵攻路ではあるけれども、地形的・集落分布的には十分にあり得るものと思われる。
 以上檜原を通る北ルートも含めた四経路の距離を見ると、
大将山―檜原―沢井―吉野が道なりで約50km、
大将山―厚木―青山―吉野が道なりで約75km、
大将山―小沢―青山―吉野が道なりで約55km、
大将山―河尻―太井―吉野が道なりで約40km、
となる。
 このうち太田道灌やその先遣隊が侵攻路としたのは何れであったろうか。

 という訳で肝心の奥三保に対する太田道灌先遣隊の侵攻ルートであるが、先ず上杉方は二手に分かれたとあるので、太田資忠と同名六郎はそれぞれ別のルートを進軍したものであろう。そして景春方の反撃に対して搦手の資忠が尽力したとあるので(道灌状)、景春方は二手に分かれた道灌隊のうち太田六郎の隊の方へ反撃を試みたのである。
 対して搦手の資忠は別方面で攻勢に出て景春方の矛先を鈍らせたものか、それとも戦端が開かれたと知って急ぎ六郎の戦場へ駆け付けたものかは不明だが、二手に分かれた隊は互いにある程度の連携が可能な状態で進軍したという事ではあるので、この点からも四つの進軍ルートの中から北に大きく偏した檜原ルートは排除して良かろう。
 また南ルートの中でも厚木から入るものは距離をかなり大にして旋回しなければならないので、これも排除出来るとすると、二隊は河尻と小沢の二本立てで奥三保を窺ったのではないだろうか。従えば小沢城方面へ進撃する上杉方左翼隊の接近を見て、景春方諸城は自落したとも考えられる。
 そして景春方の反撃はこの時代の戦いの通例を見るに恐らく境目、つまり奥三保への入り口辺りで試みられたと思われるので、河尻から西進する右翼隊に対してであれば現・津久井湖の辺りで相模川を渡河する頃に、小沢から西北進する左翼隊に対してであれば三増峠南麓の古戦場辺りか同峠の西麓辺りで、それぞれ反撃が行なわれたものと考えて良かろうと思う。
 何れの場合でも戦闘状態に入った両軍の戦場へ、道灌先遣隊の残るもう一隊が活性化して影響を及ぼした結果、景春方が支え切れずに崩されてしまったものとみて、大きく間違えてはいないと思われる。

 なおこの戦いで討死した海老名左衛門尉は以前も書いた様に鎌倉府奉行人の海老名氏の一族で(鎌倉府相模武士上183)、古河公方が鎌倉から古河へ移動した際に同行せず、上杉方に与して残留した庶流であろう。そして依智郷を本領とする本間近江守の本間氏と海老名郷を本領とする海老名氏とは、丁度相模川を挟んで隣接した所領を有した同族同士であった。
 その依智郷と海老名郷は磯部城の南約八キロ、小沢城の南南東約十一キロ半の位置にあり、相模川中流域に於ける交通の要所を成していた。
 つまり一連の戦いに登場する海老名・本間両氏、小沢・磯部両城、奥三保などは悉く相模川流域に関連しているものであり、石神井川など他の河川と同様、一見遠隔している様に見える複数の地域が、実際には河川によって深いつながりを有しているものであるという格好の事例であろうと思う。
 余談ではあるがそうした意味では、これら三つの地域は中世の早い時期にはどれも毛利荘に属していたとする事に是非がある様だが(役帳211)、別段何ら違和感無く奥三保までが毛利荘に含まれると考える事も出来ると言えよう。

 こうして上記の如く四月十四日、太田道灌の先遣隊は奥三保地域において景春方と交戦してこれを破った。その捷報は夜のうちに村山の道灌本陣にもたらされた(道灌状)。そこで道灌は直ちに未明のうちに出陣し、甲州境を越え、加藤要害を責めて打ち散らし、鶴河を初めとしてて周辺を放火したので、相模国の東西は静謐となった(道灌状)。

 太田道灌が責めた加藤要害は上野原城址の事であるという(道灌紀行221他)。
 上野原城址は上野原駅の北西約一キロに位置している。城址は丁度桂川が南西方向へ蛇行している為に南に張り出した形になっている河岸段丘上に位置しており、西・南・南東方面は川沿いの崖、東は畝状に南北に伸びる崖、背後に当たる北側は山という要害地形である。
 一見すると段丘平地が広大すぎる様にも見えるが、無論段丘平地の全てが城そのものな筈はなく、奥三保方面と甲斐盆地を結ぶ街道筋を上野原の集落で抱える様にして阻塞し、南隣して要害を構えていたと思われる。実際に明治29年作成地図「上野原」を見ると市街地は数箇所でクランクしており、如何にも街道を抱えた集落という道筋になっていると思える。
ところで正直なところ加藤要害が本当に上野原城の事であるのかは分からない。根拠は無いに等しい。ただ加藤要害の名は道灌状で甲州境の者共の代表として名を挙げられている加藤氏から便宜的に付されている事は確実である。
 その加藤氏は和田義盛の乱で滅んだ古郡氏の跡に入った加藤兵衛尉光資(山梨県史70)の子孫を称してこの一帯に居住していたという(地名辞典)。その他にも加藤氏としては、応永期に上杉禅秀の乱以後激しさを増す旧禅秀与党に対する鎌倉公方足利持氏の討伐に抗し、甲斐国内にあって長く戦い続けた武田信長の与党として登場する加藤入道梵元があり(山梨県史230)、これも上野原の加藤氏の一族であろう。
 また長尾景春の乱よりのちの事になるが、明応三年三月二十六日(1494年5月10日)、武田宗家の兄弟争いで生じた合戦で加藤氏は一族に戦死者を出しており(山梨県史260)、天正期に織田信長によって武田氏が滅ぼされるまで、上野原の加藤氏は深くこの地に根付いていたと言える。上野原城址が即ち加藤要害であるかは兎も角、加藤要害自体は上野原一帯の内には位置していたと考えてよかろう。

 また放火された鶴河は現・上野原市鶴川で、江戸時代には甲州街道の鶴川宿として知られていた。
 鶴川(河川名)の右岸段丘上、丁度上野原の河川崖を挟んだ対岸に位置している。地形を見る限り、最も河川崖が急峻ではない鶴川付近が室町期も江戸時代と変わらず渡河点になっていたものと思われ、この辺りを支配するにあたり鶴川の左岸(上野原)と右岸(鶴河)は対のものとしてあったと考えて良かろう。従って太田道灌が加藤要害を攻略したのち、鶴河の辺りまで放火して廻ったのも当然の軍事行動であったのだろう。
 何れにしても道灌は鶴河辺りを最大進出地点としながら周辺の甲州境の者共を制圧する事に成功し、文明十年正月下旬から大体三ヶ月程度の期間で南武蔵と相模の鎮圧を成し遂げた。

 以上、文明十年正月から四月までの長尾景春の乱の経過を眺めてみた。
 文明十年正月に古河公方足利成氏と関東管領山内上杉上杉顕定との間に和談が成立し、上野国の中原を制していた古河公方方が北武蔵の成田陣まで後退した事により、長尾景春の乱は第三章とも言うべき全く新しい展開を迎える事になった。
 叛乱者である景春は孤立化を防ぐべく和談の既成事実化を妨害しようとしたが、果たせないうちに南武蔵へ転戦した扇谷上杉氏の軍勢との戦いに没頭しなければならなくなった。そしてその戦いは景春方に利あらず、平塚、浅羽、羽尾、小机、二宮、奥三保と相次ぐ敗戦を喫した。こうして景春与党は鉢形を残して概ね関東平野から駆逐されるに至った。

 そこで長尾景春は千葉氏宗家の家督の座を巡って太田道灌とは抜き差しならない関係にある千葉孝胤と協力し、古河公方足利成氏の御陣である成田の傍に陣取って、古河公方が古河へ帰座し本格的な都鄙和睦への外交交渉段階へ移行する事を阻もうとするのだが、こうした目論みも関東管領方の積極的な軍事行動により破催され、行動範囲は愈々秩父の山中に限定されていく。
 ただ古河公方が喉から欲した都鄙の和睦も何ら円滑であった訳ではなく、そこに再び長尾景春が政治力を回復する機会も浮上してくる。
 そうした文明十年夏以降の長尾景春の乱については項を改めて記述したい。


参考文献
 古河公方と伊勢宗瑞   則竹雄一  吉川弘文館 2013 (古河と伊勢)
 戦国遺文古河公方編   佐藤博信編 東京堂出版 2006 (遺文古河)
 豊島氏とその時代    峰岸純夫編 新人物往来社1998 (豊島氏)
 扇谷上杉氏と太田道灌  黒田基樹  磐田書院  2004 (扇谷と道灌)
 戦国期山内上杉氏の研究 黒田基樹  岩田書院  2013 (戦国期上杉)
 長尾景春        黒田基樹編 戎光祥出版 2010 (景春)
 武蔵大石氏       黒田基樹  岩田書院  2010 (大石)
 道灌紀行        尾崎 孝  道灌文庫  2013 (道灌紀行)
 山梨県史通史編2          山梨県   2007 (山梨県史)
 小田原衆所領役帳          東京堂出版 1998 (役帳)
 関東上杉氏の研究    湯山学   岩田書院  2009 (関東上杉氏)
 鎌倉府と相模武士    湯山学   戎光祥出版 2014 (鎌倉府相模武士)


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