キュヴェ タカ/cuvee taka 「酔哲湘南日記」

新鮮な山海の恵みを肴に酒を吞み、読書、映画・音楽鑑賞、散歩と湘南スローライフを愉しんでいる。 

大陸国家の台頭

2017年05月27日 | Weblog
晩はメインをなめろうにしてバゲットとカンパーニュを薄く切りカリカリに焼いて塗って食べたが、二宮であがった小ぶりの鯵は最高でした。
空豆、豚焼き肉サラダ、娘が作った野菜スープで、ジャカイモ、人参、玉葱を煮込んでミキサーにかけ、豆乳、牛乳、昼に焼いて食べた鶏の脚でとったスープで味を整えたが、美味かった。
奥さまが作るとクリームを入れ、その味に支配されるので、無しにしてもらったので素材の味わいが楽しめて
が良かった。
ワインはサボアとカタロニアの白を飲んだが、サボアは熟成して蜂蜜の風味が出ていた。

飲みながら美の壺を観て騒いでいたが、8時から碌な番組がなく、内田吐夢の飢餓海峡を観た。
伴順三郎は他人の足を引っ張ったりする悪い評判を聞いていたが、東北出身者に多いので、そんなこともあるだろうなとは思っていたが、それでもオーバーアクションナシなら田舎のオッサンをやらせたら独特の味わいがあっていいね。
水上勉の小説も持っているし、DVDも10年も前に知人からいただいたが、今まで放置していた。
これからは詰まらんテレビ番組を観ていないで好きな映画を観て暮らしましょうかね。

10時からは鎌倉の代書屋のドラマ、ポッポちゃんを観る。
ポッポちゃん役の女優もいいし、名前は知らないが男爵役の役者もいいね、隣のバーバラ婦人の江波杏子は年でいけません、やっぱり任侠映画のあねごじゃないとね。
同じくポッポちゃんの祖母役の倍賞美津子も、昔のイメージが壊れちゃっていけません。
江波杏子も倍賞美津子もきっと痩せすぎなんだろうね、首に浮かんだ筋を観るとどうもいけません。
しかし、鎌倉にこんな代書屋があったらいいね、いや、こういった地縁関係はお話の中だけなんだろうけど、実際に構築できれば楽しく生きられるんだけどね。

会社組織でいえば、年功序列、終身雇用という日本に馴染んだ制度をアングロサクソンのローカルルールであるグローバリズムという言葉に騙されて台無しにしてしまったわけだが、同じように強固な地縁血縁で結ばれた社会を個人主義で破壊してしまって、そこから生まれた社会矛盾を大慌てで繕っても、結局はは繕いきれない。
閉塞感の強い村落共同体にガス抜きとしてあった、祭り、盆踊り、歌垣、筆おろし、若衆宿、夜這い、旅芸人の受け入れなどにも思いをはせることが大切だと思う。
巨大なマスコミに操作されてポピュリズムの大きな息苦しさの中で暮らしている現代は、村落共同体で馴染んだ右へ倣えの心性が息づいているわけで、西洋由来の個人主義が本質的に機能していないことを表している。
西洋優秀東洋劣等という考えを捨て、日本にあった社会制度をもう一度考え直して構築することが求められているが、隣国である支那、朝鮮の異様さを飛ばして、その先の東南アジアン諸国の文化研究が必要なのであるんだけど、そこの研究をしても学会で認められないという点が駄目なんだよね。
明治維新から随分経過して西洋に対するコンプレックスから一見抜け出したように見えて、実はがんじがらめになっているんだ。
英米が内向きの政策をとっているのは、彼らのローカルルール=グローバリズムが機能しなくなったからなんだが、未だにグローバリズムを声高に叫んでいる日本政府は、既に梯子が外されていることに気付かないようである。

朝、川本三郎「成瀬巳喜男 映画の面影」新潮選書を読了する。
川本三郎のファンなのだが、読みたくて買ってあったのに3年も放置してすっかり忘れていたが、本の山が崩れて出てきた。
この人の書いたものは優しい、人に寄り添う優しさはもちろんだが、風景に対しての愛情が凄い。
だから、散歩エッセイのようなものでもしみじみと日本はいいなあと、何気ない街の路地を歩いてみたくなる。
成瀬巳喜男も路地に対する愛着があり、丹念に描く。
永井荷風が発見して文学に持ち込んだ何気ない街と露地を、成瀬巳喜男は映画という映像で表した。
築地川周辺の街の様子は特に丹念に何度も映画に収めている。
川本は永井荷風から続く、同系統の林芙美子、成瀬巳喜男が好きで、それぞれの人達に対する評論を残している。

また、戦争未亡人を何度も描く、そしてその未亡人は強い、女性の尊厳に対しての尊敬があり、男性原理より女性原理を大切にする。
したがって男はだらしない、女から金を借りたり、うろうろしているだけだ。
思えば戦争を遂行した男たちの責任逃れは酷かった、そんな戦後の時代を日本の女はたくましく生き抜いたという感じを強く持っていたのだろう。
暗い題材の映画の中にも必ずユーモアを持ち込んだ、成瀬はそういった市井の厳しい環境の女たちに対する応援としてのユーモアを織り込んだのであろうか、残念ながら成瀬の映画を1本も観ていないので何とも言えないが、ユーモアの効果は暗い逆境の中で最も発揮される。

もう一つ著者が繰り返し書いているのは成瀬の現実的な金銭感覚であり、細かな金銭授受を映像の中に取り込んでいる。
江戸っ子の感覚としては金のことを細かく言うのは一番野暮なことだが、その野暮をあえて撮っている。
きれいごとを描くなというライバル監督たちへの当てこすり、批判であるのだろうか。

著者が成瀬の映画を好んでみるようになったのは1980年代、40歳を過ぎてから自分も若くないと意識するようになってから、静逸なモノクロ、スタンダードの世界に引き付けられた。
黒澤明は大仰過ぎた。
小津安二郎は立派すぎる。
溝口健二は女性の描き方に抵抗があった。
木下惠介は好きな作品とそうでない作品の差が大きかった。

1980年代はバブル期で、そんな時代に違和感を覚えるようになった時、成瀬の映画に浸ることはささやかな慰藉であり、救いになった。
春日太一が「仲代達也が語る日本映画黄金時代」で、仲代が成瀬から「つまらんテクニックは使わなくていい、なるたけ静かに演技してね。立っているだけでいいからね。黒澤君とこでやってるみたいな、ああいう大げさな芝居しないで」と云われている。

成瀬の映画の中では市井の慎ましい暮らしが哀惜をこめて描かれてゆく。
戦後の昭和20年代30年代の日本の社会にはまだ他者に対する思いやりが消えていなかった。
それは、戦後の日本人が、戦争に生き残ったことの重みを感じていて、戦争で死んでいった者への敬虔な気持ちを持っていたからだと思う。
自分の暮らしの背後には、無数の死者がいる。
その思いがあるから、成瀬映画には慎ましさがあるのではないか。
死を賭してまで護ろうとした倫理的価値に意味がなかったものの哀しみ、その「哀しみ」があるからこそ成瀬映画の女優たちはあんなにも美しかった。

酒を扱う仕事をしていたが、この本で「野あがり酒」という言葉を初めて知った。
野良仕事の後に飲む酒の事だが、中々感じのある言葉だ。
大学生時代近所の植木屋でアルバイトをしたが、庭木を剪定する仕事などはなく、工事現場の石垣を積んだり、ダムの庭園の工事をしたりの力仕事であった。
夕方仕事を終えて、親方の家に集まりお茶を飲むが、時々茶碗酒を振舞われ、これが滅法旨かった。
「野あがり酒」というのも、デスクワークの後の酒とは違い、あの身体に染みわたる旨さを持った格別の酒に違いない。





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