みなさんお元気ですか。僕は相変わらずです。
特段変わったことはなく、いや変わったことと言えば画期的に脂肪をまとったくらいです。
変わらないこともひとつの才能。そうでしょうか?いや、それらしく言ってみました。酔ってます。
唐突ですが、「人生を変えた言葉」ってありますか。
ある!ない!そうでしょうね、たぶん答えは二択ですね。
僕はあるんです。じゃないと、今回のブログは終わってしまいます。
かつて僕には、どん底の時代がありました。ちょうど20代半ばの頃です。
10代後半~20代前半にもまぁ諸々ありましたが、その当時はまさに「My heart in 網走」の状態で、
生きてるだけで無期懲役を喰らってるような、なかなかにビター&スパイシーな日々を過ごしていました。
僕にその言葉をくれたのは、本当にひょんなことから知り合った、いくつか年上の女性でした。
互いに「こいつは・・・ヘンだ!」という信号を感じ取ったのか、やたらめったら意気投合し、二人でボロい
焼き鳥屋に呑みにいきました(一応ですが、ヘンな目的じゃないですよ☆)。
話しながら呑むうちに、もうお互いベロベロに酔っ払ってきました。世間でいう「いい塩梅」です。
さんざん思うことやら、過去の傷もさらけ出しました。
今思い返すと、なぜそこまでペラペラ話していたのか疑問ですが、おそらくまともに話を聞いてくれるのが
単純にうれしかったんでしょうね。若かった。
自信というものを、完全に失っていた時期でした。己を否定することで発生した熱エネルギーを、無理やり
翌日の活力にするような、絶望的な生活を送っていました。その頃は脱していたものの、一時期はウイスキーの
ストレートと野菜ジュースのみという固形物いっさいお断りの生活でした。幸い「生きるとは何ぞや」みたいな根源的な
問いを自らに投げかけるようなことはなかったけど、周囲が目に見えて心配するような、正直ひどい状態
だったと記憶しています。
たいがい酔っ払って、彼女は言いました。
「まだ20代半ばでしょう。歳を取るごとに、色んなことが目に見えて変わっていくよ。あんたはね、この先
もっともっとよくなっていくから。私が保証するから」
もしかしたら、別にこれといった特別なことなんてない言葉だったのかもしれないですね。その時は、素直に
「うれしいなぁ」って思いました。今の自分を肯定してもらえる、未来の自分を担保してもらえる、それだけで
自分は少し歩いていける気がしたものです。その後の詳しいことは覚えていませんが、ドロドロに酔っ払って
フラフラで(もちろん別々の場所に)帰りました。
それから、今も、その言葉をよく思い出します。
そのフレーズを妄信するのではなく、自分なりに咀嚼して、理解しているつもりで。
あの時、彼女はなぜ僕にそう言ったのか。単に酔っ払っていたのか。あまりに目の前の男が哀れだったのか。
この際だから、理由はどうでもいいと思っています。発した言葉は、真意という枠を飛び越えたなら、
後は受け取った側の解釈と扱いでどうにでもなる。そこまで穿った考え方はしていませんが、あの時からもう
何年も経った今も、僕はあのフレーズに支えられて今日にたどり着いたように思っています。
一般的に、人は歳を取るごとに成熟していくものですが、当時の僕はそう考える余力すらなかった。
でも、会って間もない友人に、根拠もなく酔っ払っていたとしても、そう言ってもらえる僕は、まだ捨てた
もんじゃないのかな。
そう考えると、いける、まだいける、ちょっと前の俺よりも今の俺のほうがすごいのかも、そんな風に思える。
自分の力で人の人生をどうにかできると思うのは非常に傲慢な考えで、僕は自分のことを棚の上の上のほうに
あげて偉そうに話したりすることもあるけれど、それはあくまで「参考」であって、捉えるほうがどういう
心構えや消化の仕方をするかによって、ひとつの事象の意味が大きく変わるものだと思います。
だから、言葉によってすべてをどうにかしようと思わないほうがいいけれど、言葉の力を過小評価するのも
決してよくはない。即時性を求めるのもどうかと思う。結局、その時必要だと思うことがあるなら、
とにもかくにも投げかけてみるほうがいいのかなぁと思ったりしています。
あのひと言のおかげで、僕は随分と幸せに暮らしています。
彼女とはまたどこかで会えるはずなので、その時は「仕返し」をしてやろうとは決して思わず、ただ彼女の
未来を想いながら話せたなら、それでいいと思うのです。
特段変わったことはなく、いや変わったことと言えば画期的に脂肪をまとったくらいです。
変わらないこともひとつの才能。そうでしょうか?いや、それらしく言ってみました。酔ってます。
唐突ですが、「人生を変えた言葉」ってありますか。
ある!ない!そうでしょうね、たぶん答えは二択ですね。
僕はあるんです。じゃないと、今回のブログは終わってしまいます。
かつて僕には、どん底の時代がありました。ちょうど20代半ばの頃です。
10代後半~20代前半にもまぁ諸々ありましたが、その当時はまさに「My heart in 網走」の状態で、
生きてるだけで無期懲役を喰らってるような、なかなかにビター&スパイシーな日々を過ごしていました。
僕にその言葉をくれたのは、本当にひょんなことから知り合った、いくつか年上の女性でした。
互いに「こいつは・・・ヘンだ!」という信号を感じ取ったのか、やたらめったら意気投合し、二人でボロい
焼き鳥屋に呑みにいきました(一応ですが、ヘンな目的じゃないですよ☆)。
話しながら呑むうちに、もうお互いベロベロに酔っ払ってきました。世間でいう「いい塩梅」です。
さんざん思うことやら、過去の傷もさらけ出しました。
今思い返すと、なぜそこまでペラペラ話していたのか疑問ですが、おそらくまともに話を聞いてくれるのが
単純にうれしかったんでしょうね。若かった。
自信というものを、完全に失っていた時期でした。己を否定することで発生した熱エネルギーを、無理やり
翌日の活力にするような、絶望的な生活を送っていました。その頃は脱していたものの、一時期はウイスキーの
ストレートと野菜ジュースのみという固形物いっさいお断りの生活でした。幸い「生きるとは何ぞや」みたいな根源的な
問いを自らに投げかけるようなことはなかったけど、周囲が目に見えて心配するような、正直ひどい状態
だったと記憶しています。
たいがい酔っ払って、彼女は言いました。
「まだ20代半ばでしょう。歳を取るごとに、色んなことが目に見えて変わっていくよ。あんたはね、この先
もっともっとよくなっていくから。私が保証するから」
もしかしたら、別にこれといった特別なことなんてない言葉だったのかもしれないですね。その時は、素直に
「うれしいなぁ」って思いました。今の自分を肯定してもらえる、未来の自分を担保してもらえる、それだけで
自分は少し歩いていける気がしたものです。その後の詳しいことは覚えていませんが、ドロドロに酔っ払って
フラフラで(もちろん別々の場所に)帰りました。
それから、今も、その言葉をよく思い出します。
そのフレーズを妄信するのではなく、自分なりに咀嚼して、理解しているつもりで。
あの時、彼女はなぜ僕にそう言ったのか。単に酔っ払っていたのか。あまりに目の前の男が哀れだったのか。
この際だから、理由はどうでもいいと思っています。発した言葉は、真意という枠を飛び越えたなら、
後は受け取った側の解釈と扱いでどうにでもなる。そこまで穿った考え方はしていませんが、あの時からもう
何年も経った今も、僕はあのフレーズに支えられて今日にたどり着いたように思っています。
一般的に、人は歳を取るごとに成熟していくものですが、当時の僕はそう考える余力すらなかった。
でも、会って間もない友人に、根拠もなく酔っ払っていたとしても、そう言ってもらえる僕は、まだ捨てた
もんじゃないのかな。
そう考えると、いける、まだいける、ちょっと前の俺よりも今の俺のほうがすごいのかも、そんな風に思える。
自分の力で人の人生をどうにかできると思うのは非常に傲慢な考えで、僕は自分のことを棚の上の上のほうに
あげて偉そうに話したりすることもあるけれど、それはあくまで「参考」であって、捉えるほうがどういう
心構えや消化の仕方をするかによって、ひとつの事象の意味が大きく変わるものだと思います。
だから、言葉によってすべてをどうにかしようと思わないほうがいいけれど、言葉の力を過小評価するのも
決してよくはない。即時性を求めるのもどうかと思う。結局、その時必要だと思うことがあるなら、
とにもかくにも投げかけてみるほうがいいのかなぁと思ったりしています。
あのひと言のおかげで、僕は随分と幸せに暮らしています。
彼女とはまたどこかで会えるはずなので、その時は「仕返し」をしてやろうとは決して思わず、ただ彼女の
未来を想いながら話せたなら、それでいいと思うのです。