101号室から

アホだったり、おセンチになったり。
どうでもいい日記(のようなエッセイのような)です。
お暇な時にどうぞどうぞ。

君たちはもっと強くなる(by安西先生)

2011年07月20日 | Weblog
みなさんお元気ですか。僕は相変わらずです。
特段変わったことはなく、いや変わったことと言えば画期的に脂肪をまとったくらいです。
変わらないこともひとつの才能。そうでしょうか?いや、それらしく言ってみました。酔ってます。

唐突ですが、「人生を変えた言葉」ってありますか。
ある!ない!そうでしょうね、たぶん答えは二択ですね。
僕はあるんです。じゃないと、今回のブログは終わってしまいます。

かつて僕には、どん底の時代がありました。ちょうど20代半ばの頃です。
10代後半~20代前半にもまぁ諸々ありましたが、その当時はまさに「My heart in 網走」の状態で、
生きてるだけで無期懲役を喰らってるような、なかなかにビター&スパイシーな日々を過ごしていました。

僕にその言葉をくれたのは、本当にひょんなことから知り合った、いくつか年上の女性でした。
互いに「こいつは・・・ヘンだ!」という信号を感じ取ったのか、やたらめったら意気投合し、二人でボロい
焼き鳥屋に呑みにいきました(一応ですが、ヘンな目的じゃないですよ☆)。
話しながら呑むうちに、もうお互いベロベロに酔っ払ってきました。世間でいう「いい塩梅」です。
さんざん思うことやら、過去の傷もさらけ出しました。
今思い返すと、なぜそこまでペラペラ話していたのか疑問ですが、おそらくまともに話を聞いてくれるのが
単純にうれしかったんでしょうね。若かった。
自信というものを、完全に失っていた時期でした。己を否定することで発生した熱エネルギーを、無理やり
翌日の活力にするような、絶望的な生活を送っていました。その頃は脱していたものの、一時期はウイスキーの
ストレートと野菜ジュースのみという固形物いっさいお断りの生活でした。幸い「生きるとは何ぞや」みたいな根源的な
問いを自らに投げかけるようなことはなかったけど、周囲が目に見えて心配するような、正直ひどい状態
だったと記憶しています。
たいがい酔っ払って、彼女は言いました。

「まだ20代半ばでしょう。歳を取るごとに、色んなことが目に見えて変わっていくよ。あんたはね、この先
もっともっとよくなっていくから。私が保証するから」

もしかしたら、別にこれといった特別なことなんてない言葉だったのかもしれないですね。その時は、素直に
「うれしいなぁ」って思いました。今の自分を肯定してもらえる、未来の自分を担保してもらえる、それだけで
自分は少し歩いていける気がしたものです。その後の詳しいことは覚えていませんが、ドロドロに酔っ払って
フラフラで(もちろん別々の場所に)帰りました。

それから、今も、その言葉をよく思い出します。
そのフレーズを妄信するのではなく、自分なりに咀嚼して、理解しているつもりで。
あの時、彼女はなぜ僕にそう言ったのか。単に酔っ払っていたのか。あまりに目の前の男が哀れだったのか。
この際だから、理由はどうでもいいと思っています。発した言葉は、真意という枠を飛び越えたなら、
後は受け取った側の解釈と扱いでどうにでもなる。そこまで穿った考え方はしていませんが、あの時からもう
何年も経った今も、僕はあのフレーズに支えられて今日にたどり着いたように思っています。
一般的に、人は歳を取るごとに成熟していくものですが、当時の僕はそう考える余力すらなかった。
でも、会って間もない友人に、根拠もなく酔っ払っていたとしても、そう言ってもらえる僕は、まだ捨てた
もんじゃないのかな。
そう考えると、いける、まだいける、ちょっと前の俺よりも今の俺のほうがすごいのかも、そんな風に思える。

自分の力で人の人生をどうにかできると思うのは非常に傲慢な考えで、僕は自分のことを棚の上の上のほうに
あげて偉そうに話したりすることもあるけれど、それはあくまで「参考」であって、捉えるほうがどういう
心構えや消化の仕方をするかによって、ひとつの事象の意味が大きく変わるものだと思います。
だから、言葉によってすべてをどうにかしようと思わないほうがいいけれど、言葉の力を過小評価するのも
決してよくはない。即時性を求めるのもどうかと思う。結局、その時必要だと思うことがあるなら、
とにもかくにも投げかけてみるほうがいいのかなぁと思ったりしています。

あのひと言のおかげで、僕は随分と幸せに暮らしています。
彼女とはまたどこかで会えるはずなので、その時は「仕返し」をしてやろうとは決して思わず、ただ彼女の
未来を想いながら話せたなら、それでいいと思うのです。

信じられない人

2011年07月13日 | Weblog
どうもお久しぶりです。カツオです。って、僕がかつて鬼の勢いでブログを更新しまくる、所謂「鬼更ブ野郎」
だったことをご記憶の方って、もうどれくらいいるんだろうか?すっかり有名人気分だな。
もう誰も期待しちゃいないけど、鮭の、いや酒の勢いと、何となくとしか言いようのない気分で更新してみます。

会社帰りに、最寄り(実は最寄りといえるほど最寄ってない)の駅で改札をくぐり抜けたところ、壁を背に立つ一人の女性が
目に入った。とてもうれしそうな、ニコニコとした笑顔で、人々を眺めていた。
反射的に「あぁ、この人は恋人か、もしくはとても好きな人を待っているんだ」と思った。別に好みじゃねえし、ついでに
先方からの僕も驚くほど願い下げなんだろうけど、とにかくその笑顔は素敵だった。
恥ずかしい話だけど、ブログ書こうかなと久々に思ったのは、彼女の笑顔が発端である。いやほんと恥ずかしい。
「彼女は実はヤクの売人を待っていて、ブツを受け取るなり120秒以内にキメてやろうという崇高な思想がつい表に出ておりました」
という事情があったのだとしても、僕が見たあの笑顔は嘘(というか夢)ではないのだから、まぁこれはこれでいい。

それはともかく。

僕は運命の悪戯で、とある会社で広報関連の仕事をしている。仲良しの同僚から「お前を広報に回すとは世も末だ」とさんざん
罵倒されながらも、粛々と仕事をこなす従順かつ平凡なサラリーマンである。今年32歳になる。
そんな僕が日々もっとも苦しめられるのが、他でもないマスコミ、つまり新聞社やテレビ局の方々である。
彼らは基本的に、こちらの都合を斟酌しない。言葉には出さないが、彼らは自らを正義あるいは真実と誤認しているフシがあり、
その意図にそぐわないものをすべて悪と捉える傾向にある。
先日も電話を取ると、ウチが超間接的に関係している裁判モドキの結果が出たらしく
「とりあえず君んとこのコメントを寄越せ」
というご依頼をいただいた。
「事情はわかりませんが、とりあえず死刑で結構です。うんこブリブリ」
と言ってやることはできたが、それでは(たぶん)私を信じて暮らす妻子、あるいはご先祖さまに申し訳が立たない。
一応その件は上が対応すると申し合わせてあったので、
「えーとぉ、課長はぁー、ただいまテレビ会議中って感じでぇー、改めて折り返すみたいなぁー」
という懇切丁寧かつフレキシブルな対応を試みた。すると相手は
「すぐ出られないの?んじゃあんたがコメントくれよ。無理なんだろ?じゃ課長出しなさいよ」
ときた。なるほど・・・僕はこんな時のために用意している『呪いの言葉・ベストセレクション108』の中から、初夏に相応しい
涼しげなフレーズを探してやろうかと思ったが、すんでのところで踏みとどまった。
ちなみにマスコミ業界の常識を説明しておくと、朝刊の〆切は2時、同様に夕刊は14時。僕が電話を受けたのは15時。
「い、急ぐ意味ねえ!」まぁ、その後のことは書くに値しない。
付け加えると、今書いたエピソードはまだマシなほうである。

繰り返すが、彼らは人の都合を斟酌しない。ほしい時にほしいものがもらえないと暴れだす、割と幼児的な方が多い。
ガストに入って「目玉焼きハンバーグを30秒以内で。あとドリンクバーはタダでつけて」とオーダーするようなことを、
何の疑いもなくやる人種である。あっ、僕は彼らから代金をもらっていないが・・・
あまりこういう場で人を悪し様に言いたくはないが、そういった外道的仕事を経て賜ったお給金で生活している家族も同罪と
言い切ってしまいたい。「君のパパはねぇ、報道の自由とか知る権利とかを振りかざして、色んな人を泣かせてお金を稼いで
いるんだよ。そのオモチャも靴も買ってもらったんだろ?」と、幼稚園年中くらいの彼の次男あたりを4時間くらい太陽の当たらない
密室で追いつめてやりたいなぁと夢想することすらある(実際の家族構成は知らないし、知りたくもない)。

うーん愚痴になってしまっているが、ついでにもう一つ。
「●●が××で△△・・・ということでいいですよね?」と、己が書きたい記事の内容に沿った誘導尋問はザラである。
ひとこと「うん☆」と言ってしまえば、100%そいつが言ったこととして記事が出る。
仮に報道内容が間違っていても、彼らは絶対に謝罪しない。記事の内容で人の人生がメチャクチャになっても、何の痛みも感じない。
そういう風に、すべてができている。みなさん、新聞は信用に足るメディアだと思ったら大間違いで、マスコミが流している情報が
真実だとは思わない方がいいですよ。

ああ!結局こんな内容になってもた!これも酒のせいやで!!あきまへん!!
ええと、ま、次はもう少しマシな内容で更新します。
僕ですか?それなりに元気です。

この溝掃除

2011年03月29日 | Weblog
【今回の内容には、大変お下品な表現が多く含まれています】

現在我が家の生活の大半を支配している、通称「社長」「ジャイアント・ピラルク」こと2ヶ月の息子。彼の性別がわかった時、ウチの奥さんはこう言った。
「ポコ●ン生えとった」唖然とする僕。彼女はさらに「後は任せた」と念押しすると、爽やかに微笑んだ。
彼女はその真意としては「んなもん毎日管理したことねーし、成長の過程で教えるべきことはお前やれよ」ということだったようだ。
確かに我が家の男性は僕と、まだ羊水の中でプカプカ遊泳している息子のみ。ごく自然な流れである・・・と言えるだろう。

さて産後。2ヶ月ほど前のことである。
実家で静養しつつ1ヶ月検診を待つ奥さんに、3年ぶりに新生児と対峙する様子を聞いてみると、こう返事が来た。
「奴が放出したウ●コの処理をするにあたり、例の袋のシワの間に入り込んだのを拭くのが何とも言えん気分だ」
例の袋。直接的な表現は避けるが、披露宴での下品な挨拶に含まれるアレだ。あるいはドッジボールとサッカーボールが1つずつ・・・
いやこの際だからお楽しみ袋、ラッキーバッグでもいい。要は男性ならば誰もが親しむアレのことである。
僕はその答えに一通り爆笑した後、我に返って考えた。
「待てよ・・・ということは、俺様もいずれはその世話を?冗談じゃない、アイダホの荒くれメークインと呼ばれたこの俺が?」
愕然とした。なんて笑ってる場合じゃない。

しかし現実は甘くない。子ども2人を擁する今、我が家では僕という無能を絵に描いたような男であっても、子猫の手よりはレンタル需要があるのだ。
「おーよしよし」息子の股間をご開帳。やはり・・・事件は自宅でも起きているし、容疑者はオムツ全体を支配下に入れている。
「ジーザス・・・」僕は頭を抱えると、息子の両足を片手でまとめて持ち上げる。乳児のウン●は柔らかいので、背中の辺まで達していることが
ままあるのだ。息子はまるで連立方程式にお手上げのような憂鬱な顔でこちらを見ている。「切ないよな、わかるよわかる」一人ごち、背中&ケツ肉の
エリアをゴーストバスター。いよいよ問題の部分だ。「ふむぅ・・・」正直言うと、例のお楽しみ袋、成人男性のアレよりはかなりツルッとしていて
シワがない。その申し訳程度の溝を掃除するわけだが、何というか確かにやるせない。
想像してほしい。仕事から帰り、シャツすら脱いでいない31歳のサラリーマンが、星一徹のような表情で乳児の股間を覗き込みながら懊悩しているのだ。
これをシュールと言わず何と言えばいいのだ。そうでなければカオスだ。ふと見ると、息子は天井を見上げて何やらニヤニヤしている。
「なぜこの状況で笑えるんだ・・・」つぶやきながら僕は、例の溝を丁寧に美しく磨く。誓う、いつか手数料を請求してやろうと。

ご報告

2011年01月20日 | Weblog
ごぶさたしてます。カツオです。

1月14日(金)8:55、第二子となる長男が誕生しました。
かなり大変な出産でしたが、母子ともに健康。何と体重は3630グラム。でかすぎ。

産まれる前から決めていたのですが、名前は「友生(ともき)」としました。
まぁ読んで字のごとく、親としての願いを込めて。

こういう話、どのタイミングでどう報告したらいいのかわからないままで
(呑み会とかで、そういう話題が出たならまだしも)、
自分からホイホイ言いふらすものでもないので、突然のご報告になってしまった
方も多いかと思います。
この場を借りてお詫びします。
すんませんでした。これまでお知らせしてなかったことに、何ひとつ他意はありません。

2児のパパという、自分でも愕然とする肩書きがつきましたが、結局これからも
相変わらずやっていきたいと思います。どうぞよろしく。



泡沫という名の娯楽

2010年03月03日 | Weblog
最近仕事ばっかりの単調な生活だが、唯一充実しているのが昼休みの時間帯である。
前にも書いたかもしれないが、僕とその周辺の変な人々は、入社間もない頃から「ジャンケンで負けた人間が全員ぶんのジュースをおごる」というシステムを採用し、一緒にお昼を食べたら老若男女を問わず半強制で参加させている。負けたのが例え新入社員でも上司でも遠慮なくむしり取るのがモットーだが、たかだか数百円のことなので、今のところ問題は起きていない。なんて書いてはいるが、何ヶ月か前、8人の戦争に敗北して1,000円以上を支払ったのは他でもない僕ではあるが。

それはともかく、ここ最近その流れに変化が起きつつある。
基本的に僕は同期の436、それに後輩ツカっちゃんと主に昼食を食べる。必然的にジャンケンもその面子ですることが多いのだが、僕は彼らの悪ノリを甘く見ていたようなのだ。
勝とうが負けようが、お金を払う云々の違いがあるだけで、本来どの飲み物を選ぶかは自由なはずである。しかし退屈を何より嫌う彼らは、それさえもよしとしなかった。
「436さん、アレやばそうですよ」「ほんまや・・・これはひどい・・・よし、これ買おう。カツオもこれで」「いや俺は珈琲を・・・」「うるさい。これ3つ」「案外これはこれで楽しいですよ」
そう、彼らは「明らかにマズそうな飲み物」に執着しはじめたのである。

おそらく、その先駆けと言えるのはペプシコーラシリーズであると思われる。ご存知の方もいるだろうが、かの有名なペプシコーラには(おそらく期間限定発売だろうが)『ブルーペプシ』『しそペプシ』『あずきペプシ』『きゅうりペプシ』などの種類が存在する。突如コンビニに出現するそれらは、総じて悪意に満ちた色と味で僕らを困惑させ、恐怖のどん底にたたき落としてきた。簡単に言えば買うのが悪いわけだが、そこは恐いもの見たさという理屈で説明がつく。お化け屋敷に入るがごとく、僕らはレジで入場料を支払い、おどかされて泣き叫んでいるわけだ。バカという他ない。
そしてこのシリーズが業界でどういう評判を呼んでいるのか、最近奇妙な飲料がたびたび発表されている。当然のごとく僕らは飛びつく。

「まさか小魚まで飲み物になろうとは・・・」それはグッピー。有名なクッピーラムネもドリンクになった。しかも乳酸菌入り。駄菓子の味しかしない。
「よくこんな企画にOKが出たな・・・」その名も『なんちゃってコーラ』。コーラの味はひとつもせず、色は赤、パッケージはタバスコ。めざすものが見えない。
「どうしてこんなイタズラを?」かの有名な『ライフガード』にカフェインを大量に投入したブラックバージョン。飲むとライフガードにコーヒーを入れた味がする。泣きそうになった。
「もうすべてが詐欺のようだ」紙パックに入ってヨーグルトも混ぜた『まろやかコーラ』。もちろん無炭酸。業界にはコーラ神話でもあるというのだろうか。ひとことで言えば不愉快だ。
・・・とにかく世の中はすごい飲み物で溢れている。僕は勝手にこれらを「泡沫飲料」と呼んでいる。すぐに消えてしまう。まるで泡沫(うたかた)のように・・・

長くなってしまったが、最後にこれぞ白眉と言えるものを紹介しよう。
『チョコレートスパークリング』
気を抜くと一瞬だまされそうになるが、明らかに共存しえない、それこそユダヤとイスラーム級のダメミスマッチを無理矢理融合し、50センチ四方のブタ箱に放り込んだ極悪飲料である。ちなみに色は透明。パッケージにはスパークリングの爽やかなイメージに、板チョコの破片が浮遊する爽快かつ世紀末的な絵柄がプリントされている。
ひと口飲んでみよう。シュワシュワと弾ける炭酸、そこから鼻に抜けてくる甘ったるいチョコの香り、そしてチョコ味が同時に喉にも襲いかかる。そう、炭酸とチョコ、どちらも「忠実すぎるほどに」よくできているがゆえに、言語道断な大事故につながっているのである。英語圏の方であれば間違いなく「ンハアアァァーー!ガッデンンム!!」と絶叫すること請け合いだ。
僕らは昼休みにこれを試飲し、処刑台に送られるかのごとく頭を垂れて職場へと戻った。436はその日21時近くまで残業したのに飲みきれなかったらしい。僕は・・・4時間くらいかけてゆっくり飲んだ。一度ご賞味いただきたい代物である。

世の中には、数えきれないほどの宇宙が存在する。
どうだろう。あなたもひとつ、冒険に出掛けてはいかがだろうか。

イヒン

2010年02月24日 | Weblog
皆さん、色々とご心配ありがとうございます。
強がりじゃなく、僕は至って元気です。いただいているコメントにも、ちゃんとしっかりコメントしますんで。
ね、ありがとね。

さて、僕の起床は7時30分くらいである。会社への所要時間は車で15分、自転車で20分、徒歩+地下鉄なら30分と少し。
だからこその世の中ナメてんのか的起床時間だが、飯食ったりヒゲ剃ったりしてると案外時間はない。
クローゼットの前で、寝起きのおつむ様に鞭をくれながら、一応シャツとスーツとネクタイと外套の組み合わせを考える。所要時間わずか4秒。最近、その選択肢が増えたことで、所要時間は7秒になった。

親父の遺品を引き取ったからである。もらいものらしいネクタイ1本、コートが2着。スーツは少し直して後日届くらしい。あ、あと腕時計が1つ。亡くなる直前までつけていたもの、だと思う。

「遺品」と書くと複雑だ。
まるで故人の魂だかが乗り移ってるように思われることもあるだろう。僕のように近親の者だからいいものの、こういう品々は他人にお譲りするのは難しい。それはわかっていたつもりなので、可能な限り実家から持ち帰った。使えるものは粉末になるまで使う、という僕の主義もあってだが、やはり処分するのは忍びないから。

なんせ60代半ばの男が使っていたものだから、そこはかとない「ダンディ路線」が見え隠れする。
僕は30になったばかり。「この10年が、男として勝負ですたい!ばってん!」と日々思う男にとって、使いどころを間違えてはいけない代物ばかりだ。しかし「この服、ママが昔着てたものを直したものなんです」なんつって笑ううら若い娘さんをテレビで見かけることもある。流行は回っている。うまく使ってレトロ趣味を前面に出すべきだ。方法がわからん。

「これはいいものよ」母親がそう言っていたバーバリーのロングコート(黄土色)を羽織る。懐にマグナムと手榴弾でも入っているかのように重い。んむむ。家を出る時間が迫っている。これで行くかと鏡の前に立つ。いつもより5歳は老けて見える。しかし別に、何というか、悪くない気がする。
駅まで早足で歩く。赤信号で立ち止まり、ポケットに手をつっこむ。
冬の朝特有の、澄んだ空気があたり一面に満ちている。誰もが1.2倍速で動いている中で、自分だけが急いでいないように思える。

このコートを着て、親父は何を思って仕事に向かっていたのか。
職場で、居酒屋で、これを脱ぎながらどんなことを話していたのか。
母親や僕の顔は、どんなふうに思い出されていたのか。

そんなことを考えると、言いようのない気持ちにとらわれる。
それは悲しみや寂しさといった、負の感情ではなかった。
あと10年彼が長生きしたとしても、それを聴くことはなかったと思う。
なぜなら、僕はそのコートの存在を知らなかったから。
晩年の彼が身につけることのなかった、そのやたら重いコートは、「遺品」としてでしか、僕のもとに来なかった。はずだ。
それならどうせ、思うことは同じだ。ただタイミングが違うだけ。

僕は親父のように生きられない。親父も僕のように振る舞えなかったはずだ。
それでいいじゃない?だからいいんじゃない?
そう思うと、笑いたくなった。遺品も、これはこれでいいもんだ。

来月は納骨。
形は違えど、ずっと付き合いは続く。

何か、たまに書いたら親父の話ばかりですんません。
僕は元気です。呑みにいきましょう。

近況報告2010.2.16

2010年02月16日 | Weblog
ども、ご無沙汰しております。・・・出だしも芸がなくなってきた。
ご無沙汰は事実だから書いてしまうけど、高飛車に出られるほどの文豪ではないのだから、どうしても・・・。
なんて考えてしまうあたりが哀しい。

先日、亡父の四十九日の法要を無事に終えた。あとは、大きな行事は来月の納骨を残すのみ。
人が一人いなくなるというのは、とても大きなことで、世帯主だどうだと言わずとも、長く生きたほどに後の手続きがややこしい。まるで、その人の足跡をいちから検証でもしていくような・・・名義変更やら相続やら、とにかくややこしかった、ようだ(母親がほとんどそちらにかかっていたからだけど)。僕は言われたとおり書類を役所から取ってきて、ハンコを押しただけだったけど。

父が亡くなってから、とてもたくさんの人に励ましの言葉をいただいた。中には妙な打算丸出しの方もおられたが、たいていの方が純粋に父を悼み、僕を労ってくれた。本当にうれしかった。
・・・近親者が亡くなった時に、どういう顔をしていいのかわからない。変な話だけど、この1ヶ月半、そればかり考えていた。いや、おかしな話だけど。

父は癌だった。手術、再発、転移など、判明から亡くなるまでの2年でさまざまなプロセスを踏んできた。
そのたびに、僕ら(今は遺族となるのか)は覚悟を決めてきた。アップロードというとわかりやすいんだろうか、その段階において情報というか考え方を修正しながら同じ時間を過ごしてきた。
だから、というわけではないけれど、最期を迎えた瞬間「・・・これでよかったんだ」と思った。
「お疲れさま」って月並みな言葉だけど、それしか思わなかった。涙は出たけれど、泣き崩れることはなかった。それは薄情と取られても仕方ないほど、何だか呆気ない現象で、僕は逝去から1ヶ月半経った今も、泣けて泣けて仕方ないという経験がない。どうなんだろう。
「死んでもいいやと思うくらい仲が悪かった」わけじゃない。僕は欠点だらけの父親が大好きだった。この先何十年だって、一緒に酒呑んでバカ話していたかった。
「遺産がほしかった」のなら、ひとつ残らず母親が持っていったこの現状が証明してくれるけど、何も気にしてなかった。どのくらいの額かも知らない。

たった一人の父親だから、世間様がどう思おうと僕は哀しくてしょうがないのに、涙が出ない。

それがどうにも座りが悪くて、慰めの言葉をもらうたび「案外大丈夫ですよ」「元気に笑うのが供養ですから」と話しながら、どうにも複雑な気持ちになっている。そんな30歳の冬です。

父親の持っていなかったセンチメンタルな部分を携えて、「?」マークに囲まれながら今日も生きてます。
こんなブログでごめんなさいねー。


2010年の年明けと報告

2010年01月17日 | Weblog
あけまして果てしなく時はすぎ、おめでとうを言うに遅すぎる。
どうも、カツオです。

必殺のブログ放置してました。新年早々。んでね、酔ってます。
ごめんなさい。
こんなこと書こうかどうしようか、ずっと迷ってはいたのだけれど、やっぱりこれなしには今年前に進めないので。
何か辛気くさくなるけどご容赦ください。

昨年12月30日、父が永眠しました。

享年66歳。「平均寿命」が80歳近い日本においては、若いと言われてもおかしくないと思います。
病気の判明から2年。今はただ「がんばったね。お疲れさん」と言ってあげたい。
その他の詳細は割愛します。書いてるくせにね。

とにかく不器用で、愛情表現がド下手な人でした。
昔は競馬に競艇、パチンコに麻雀、食い逃げに万引き、とにかく悪い人だったようです。
そんな父親と、生真面目な母親と両方の性質を持って生まれた僕は、彼に「俺は反面教師やぞ」と言われ育ちました。
何かあるたびに衝突して、何度もケンカしたのですが、亡くなった今だから言うわけではなく、ほとんど僕が間違ってました。

成人してから何度も呑み明かし、男同士の絆が深まったように思えました。
仕事を辞めたいと漏らす僕を、誰よりも引き止めて諭してくれたのは、自身がリストラに遭って、プライドまでズタボロになった経験からでしょうか。
おかげさまで、僕はこうして飯を食えています。

お前みたいな甘ったれた奴は、世の中渡って行けねぇんだって叱ってくれたらよかったのに。
どうやって自分がここまでたどり着いたか、延々と話してくれたらよかったのに。
どれだけ女性にモテたのか、めんどくさいけど話してくれてよかったのに。
自慢話も愚痴も文句も、全部聞こうと思ってたのに。
時間は無限にあるようで、実は笑っちゃうほど少なかった。 僕もどこまで生きられるんだろう。ね。

うだうだ書いてると、ずっとそのまま書き続けてしまいそうな気がします。
だからこの辺で。

もしこの文章を読む人がいたら、ひとつだけお願いがあります。


どんな親御さんであっても、一度面と向かって話をしてください。
話題は何でもいいから、正面から、目を見て、その方の子供として、話をしてください。
それで、たいていのことはわかります。
「親孝行」は、形はどうあれ、それからしてください。


僕は、結局のところ、昨年通りバカ丸出しでいきますんで。
どうぞよろしく。

チーム・グリーンラベルの栄光(前編)

2009年11月27日 | Weblog
「先輩ッ!この上着を脱いだら、僕の本気をお見せしますよ!」
練習中、ボールとバットが50センチも離れていた後輩Tは、そう言うと紫のジャンパーを脱ぎ捨てた。全身オレンジ、背中には大きく「亀」の文字。紛れもなく漫画「ドラ○ンボール」で主人公が着ていた、あの胴着である。
「だーっはっはっはっは!!かめはめ波を撃つ前にボールを前に飛ばせアホ!」
周囲で起こる大爆笑を眺めながら、悦に入るT。爽やかな休日の朝の、何気なく下らない光景である。

僕の勤める大学には、関係の諸学校も含めた教職員のソフトボール大会がある。もちろん参加は任意だが、僕ら「極めて残念な2002年度採用の4人」はひょんなことからチームを結成し、5年前から毎年大会に出ているのだ。その名も「チーム・グリーンラベル」。大好きなビールと、年々怪しくなってくる腹回りへの配慮を兼ねて名づけた。愛する同期・カワムラが「代打、オレ!」を言うためだけにプレイングマネージャーに就任、キャプテンには僕が指名された。若手の中から「どうしようもない人々」を選手として集めて騒ぐ、年に一度のお祭りである。
こう書いてしまうと、参加すること「だけ」に意義があり、負けてもヘラヘラしてそうに思われるかもしれない。しかし僕らはマジの本気で毎年優勝を狙っている。「ショート、守備位置もっと深めで!」「フライ上げんな、転がせよ!」と指示が飛び交うし、監督と僕は事前に打順・ポジションについて何度も意見交換している。

「じゃ今年は、5年目の記念大会すね」球場へ向かう車中、運転席のHAがぼそりと言った。エースとして主力として、ここ数年大車輪の活躍をしながら、共に苦杯を舐めてきた。物静かなくせにいざとなると燃える頼もしいこの男は、仕事も大変だろうに、今年も家の用事の都合をつけて参加してくれた。
「そうやなぁ。初参加の時、俺なんて25歳やってんぞ。明日で30歳やけど」「だははは!…参加2年目で初めて1勝したやないすか。あの時から僕が全試合投げてるんすよ」「そっかー。何か意外と歴史あって笑えるな」「…今年こそは優勝したいすね」「毎年言ってるけどな。そうやな…優勝やな」
毎年同じように、同じことを言ってる。ひとつの思い出で何度でも笑える。それって、案外すごいことじゃないのか?…20代最終日の朝、何だか神妙な気持ちになった。

今年の参加はわずか4チーム。暦の都合で、強豪チームが出場しない。だけど「優勝に価値があるのか」なんて、2位にすらなったことがない僕らは言ってられないのだ。「勝ちにいこうぜ」誰からともなく、そんな声が漏れる。
緒戦は相手があまり強くなく、チームも攻守に渡り好調で余裕の快勝。僕個人としても、身体がキレてる感覚がある。いける、今年こそは…!

ドラマは決勝戦で待っていた。


…ムダに後編に続きます。

30歳の地図

2009年11月23日 | Weblog
めでたく?ついに?本日、30歳になりました。
栄養取りすぎた母親が帝王切開の憂き目に遭いながら、4000グラム弱の赤ん坊を産み落として、ちょうど30年。
感慨深いような、笑っちゃうような、妙な感覚をおぼえています。

30歳はまるで「青春の終わり」のような言い方をされますが、決して強がりなんかではなく、僕はここからが楽しみでしょうがないなと感じています。

何度もここに書いているように、特に20代前半の僕はといえば何も知らない最低の男であり、そのリハビリも兼ねながら生きてきたような10年間だったと思うのです。人に与えたことよりも、人に教えられたことのほうが多いと断言できる、この情けなさ。だからといって「ここからは与えます」などと気が違った発言もできないので、せめて「損はさせませんよ」くらいにしておこうかななんて思ったりしているわけです。これでも十分傲慢でバカみたいですが、このくらい言い放っておいたほうが、自分にいいプレッシャーにもなるというもので。別に新しいものを生み出したり、すごいことやるわけじゃなくて、29年と364日生きてきた昨日の僕と同じスタンスで、それを日々鋭く磨き上げるような、もしくは深い味わいを加えていくような、そんなイメージで暮らしていこうかなと思っています。ずいぶんと漠然としててすんません。

30にもなって(笑)わけわからんこと書いてるなぁ。

結局いつも書いていることと大差ないのですが、いつも僕と一緒にバカやってくれてる皆さん、僕を大なり小なり支えてくれてる皆さん、笑って許してくれてる皆さん、本当にありがとうございます。
こんな何の取り柄もない男ですが、これからも末永くよろしくお願いいたします。

それでは、カツオの30代生活、はじまりはじまり。

まだまだいけるぜ

2009年11月06日 | Weblog
かなり前の話になるが、ある番組である芸人さんが
「う○こち○こって、みんなが好きなのに、もっともっとそれをバリバリ押し出してきゃいいんですよ!」
みたいなことを言っていた。周りはおいおいといった感じで彼を笑っていたのだが、テレビの向こう側で頭蓋骨が取れそうなほど激しく頷いていたのが、他でもない僕である。

まーその台詞を拡大解釈すると「みんな誰もがおとなしくなっちまってよう!もっとはしゃいで行こうぜ!」と理解することができる。事実、まったくそのとおりだと思う。
もちろん僕のその判断は、己の周囲という極めて限定的な範囲のみが基準となっているのだけど、何だか物足りなくなることが多い。みんなそれぞれが歳をとっていくからなのだろうか。
人間は慣れの動物と言われる。僕もこの10年で色んなことに慣れた。前は「ほ、ほげらぁーーっ!」とリアクションしていたことが、今では「おおマジですか」くらいになったかもしれない。ジイさんバアさんが滅多なことでは動じないのは、つまりそういうことだろうとも考えている。

それじゃいかんのだ、それでは。声を大にしたらアレなので、とりあえず中にしておくけど、そんなのじゃダメだ。
具体的に何がダメかと言われたら、詳しくは答えられない。だけど、それじゃダメなんだ。
「慣れ続けている自分」を初めて自覚した瞬間から、僕はいつもそう思い続けてきた。
したり顔をして「なるほどね、そういう考え方もあるね。フフッ」なんつって言うような大人にはなりたくない。

だから、年に最低一度は、地元のカラオケで全裸になる。美人の後輩からの電話でも全力でボケる。翌日の朝早くても好きなだけ酒を呑む。コンビニの店員を笑わせにかかる。メールに入れるギャグで思い悩む。カメラの前では普通のポーズなんてしない。

日常のほんの小さなことでも、バカさ加減や笑いがあるだけで、もっと楽しくなるはずだ。
そしてこんなことをクソ真面目に書いてる僕も、どうかしてる。
もし僕が社会人として成熟してこれているなら、それに反比例して規格の外へ外へ行きたい。
「お前んとこの課長、バカ丸出しだな」と部下が言われるその日まで、どうにかして走り続けたい。

ある友人と話す。「びわこタワーから京都タワーまで、徒歩でタワーハシゴツアーやろうぜ」
ある友人からメールが届く。「ち○こがドアに引っかかったので、少し遅刻します」
ある友人が僕に言う。「お前の葬式でポールダンス踊ってやるよ。遺言書いとけ」


まだまだいけるぜ。

例のコンビニ

2009年11月04日 | Weblog
どもっス!元気してますか!おならプー!
かなり更新をサボっていた反動で、つい暴言を吐いてしまいましたごめんなさい。
その反動ついでに、今回も得意なシケた話でもひとつごめんなさい。


先日、何年かぶりにそのコンビニに寄った。

その店は、ちょうどキツい坂を上りきったところにある。そして、大手チェーンの店舗ではない。品揃えはよくなく、客は少なく、店員にも総じて覇気がない。何というか「ある意味掘り出し物」のような店である。
その日、客は立ち読みしている若い男性が1人のみ。僕が商品を持っていっても、レジには人がいない。奥に向かって何度か呼びかけると、面倒そうに店長らしき人が出てきて、面倒そうに会計を済ませてくれた。この店は、何も変わっていなかった。

初めてそのコンビニに寄ったのは、ちょうど今から6年前のことだ。

当時僕は、実家の引越しにともなって両親に退去を命じられ、フラフラと家を探し、引越したばかりだった。
一人暮らしは初めてではなかったが、社会人になってからは実家から通勤していたので、何というか妙な緊張感があった。
引越し当日は、まだ付き合い始めて数ヶ月の彼女がわざわざ手伝いに来てくれた。近所の農家で借りた軽トラにいっぱい
荷物を積んで、ばたばたと一日で終わらせた。様子を見に来た両親が帰った後、真新しい新築の部屋を見渡しながら、
何をするでもなく僕らはしばらく黙り込み、それから肩をすくめて笑った。

その次の日だったか、初めて新しい家から通勤した。自転車で通える距離だが、坂がとんでもなく急なので、帰りは随分と
しんどい思いをして上った。そこそこ夜も遅く、家には何もないから、何か買わないとと思い、目に入ったコンビニにとっさに
飛び込んだ。それが、例の店だった。
よくわからないけど安くて量の多い弁当と、ビールを1本買った。客は少なく、店長は無愛想だった。

家に帰った。スーツを脱いで、地べたに買ってきたものを置いた。まだ机はなかった。
ビールをひと口呑んで、弁当を開けた時、ふと笑いがこみあげてきた。
部屋には大したものなど何もないのに、仕事はこれから地獄のように忙しくなるのに、僕は楽しくて仕方なかった。
これからすべてがうまくいくような、未来には幸福しかないように思えた。なぜか自分は無敵だと思った。
書いていて本当に恥ずかしい。
たぶんそんなことを思った具体的な理由なんてなくて、今より若くて、今よりバカだっただけだと思う。

その家も彼女も、もう今の僕の生活にはない。
今の僕は、無敵でもない。
きっと、そういうふうにできている。
よくわからないけど、そういうことになっている。


とりあえず、店長、愛想よくしたほうがいいよ。また買い物行くから。
寂しくなるのは嫌だから、店がつぶれたりしないようにね。

しあワシくんのこと

2009年10月23日 | Weblog
先日実家に帰省した際、母親と「僕の涙もろさ」について話す機会があった。母親も僕に負けじと涙腺がオープンな人間なので、「あんたの遺伝子にゃ勝てないよ」と言ったところ、彼女はしたり顔で「ほーっほっほ。それは私の教育の賜物なのよ」と言い出した。無論幼い僕に毎日目潰しを食らわせていたわけではなく、情緒豊かな人間になるようにと様々な工夫をこらして育児に励んでいたようだ。かつて母親が僕を叱っている時、机をドンと拳で叩いたところ、僕は「机さんが痛がるからやめてくれ」と真っ向から食ってかかったらしい。我ながら純粋だったのだなぁと思うが、まぁおかげさまでというか、僕は人間に限らずモノに対しても、必要以上に感情移入する男になってしまった。困ったものである。

そんな話をしていて、ふと思い出したことがある。

それは忘れもしない小学1年生の頃のことで、当時我が家にはコタローという産まれて数ヶ月のオスの柴犬がいた。兄弟のいない僕は、当然のことながらそいつに夢中になり、夕方の散歩には必ずついて行った。ところがコタローは幼いからか、「散歩」というものがいまいちよく理解できていなかった。そこで母親は、三度の飯よりボールが大好きなコタローの性格を利用し、ボールを投げてはそれを追いかけるという方法で一緒に散歩をしていた。よく考えると奇妙な光景だが、追う対象がないと走らないわけだから、うまい方法だったのかもしれない。

ある日のこと、いつものように母親と僕はコタローを連れて、家からすぐの河原に散歩に出かけた。季節はもう忘れてしまったが、薄日の射す穏やかな夕方だったように思う。母親が投げるボールが宙を舞っては、コタローと僕はそれを全力で追いかけた。
その時の黄色いボールには、キャップを被ったかわいい赤い鳥のマスコットが書いてあり、「しあワシくん」と名前が印字してあった。おそらく農協かどこかでもらったもので、「幸せ」と「ワシ」をかけたキャラクターだったのだろう。特にコタローが気に入っていたのだが、僕も密かにしあワシくんの愛くるしい姿のファンだった。

「あっ…」 絵に描いたような幸せな時間は、唐突に終わった。
母親が投げそこなったボールは、あらぬ方向に飛んで、チャプンと川に落ちた。誰もが言葉もなく、しばらく呆然としていたのだが、幼い僕は唐突に泣き出してしまった。ボールがというより、大好きなしあワシくんが流れていってしまったことが悲しくて、うろたえる母親を尻目にオイオイと声をあげて泣き続けた。
結局どうやって帰宅したかは覚えていないのだが、家についても僕は泣き止まず、母親は「ワシくんはお魚さんと遊べてうれしいんだよ」「鳥だからお空を飛んでるのかも」などと必死に慰めてくれた。しかし実は、それからしばらくの間、僕は投げそこねた母親のことをかなり恨んでいた。ろくに球技をしたことがなく、よかれと思ってボールを投げ続けた彼女を責めるなど酷な話だが、いかに僕がそのボールに執着していたかがわかる。
そしてその性質は、今もなお僕の中に深く根付いている。道に捨てられているのが不憫で、家に持ち帰ってしまった動物のグッズは、大人になるまでに10個近くにもなったはずだ。
本当に厄介な性格になってしまった。けど、これはこれで、きっといいのだとも思う。

しあワシくんのことは、思い返せばただの笑い話である。
だけど僕は、それを思い出す時、いつも色んなことが一緒についてくる。
今はもう見知らぬ人が住む、当時の実家のこと。
14年間も家族として暮らしてくれた、亡きコタローのこと。
それぞれの形で、僕と向き合い育ててくれた、若き日の両親のこと。
バカで調子乗りでワガママで、懸命に毎日を生きていた、幼い僕のこと。

しあワシくんは、今も僕に、幸せな気持ちを運んでくれる。


宮古島2009を書き終えて

2009年10月21日 | Weblog
いやぁ、書き終わった…。

本編だけで16本、全部で18本。よくもこれだけ書いたものだと、自分でもちょっと呆れてしまう。しかし、僕がこれまで書いてきた内容は、間違いなく今年の夏に宮古島で起きた真実である。「なぜ沖縄でこんなバカを…」という声はたくさんいただいたが、僕はそれをとても誇りに思っている。なぜなら、本気でバカをやろうとすることは、実はとても難しいことだからだ。

これまでの人生で、数多くの人と出会ってきた。
ちょっと面倒な話だが、その中で、人に裏切られたことも、人を裏切ったこともあった。こう見えて、人と付き合うのが嫌になったり怖かったりした時期も、また大げさではなく、死んじゃったほうがいいとさえ思ったこともあった。その経験は結果として僕を、興味のない人には必要以上に冷淡で、人との距離や関係について非常にナーバスな人間にした。だから僕は今でも、人に嫌われることを何よりも怖れ、始終ビクビクして生きている。

だけど結局、人に救われ助けられ、励まされ支えられて、どうにかここまでやってこれた。これは誇張でも謙遜でもなく、僕のようなダメ人間は、それなしでは生きてこれなかったと本当に思う。だから、人を助け力になり、信じ合い共に歩くことが幸せだと思えるようになった。僕のくだらないギャグや話で人が笑うなら、もし僕がそこにいることに少しでも意味があるのなら、それでいいと思えるようになった。

今回の滞在中、宿のテラスで一人ぼんやりしていると、意味もなく突然涙が溢れたことがあった。原因は今もはっきりとわからないが、おそらく「帰りたくない」と思ったのではなかったか。誤解のないように言うと「戻りたくない」ではなく「帰りたくない」である。僕はただのサラリーマンだし、京都でやることが山ほどあるから、「戻らない」という選択肢は存在しない。だけどただ、その瞬間だけ「帰るのを延ばして」もう少しここにいられないかな、そんなことを思ったはずだ。
もっと踏み込むなら、それは単に「宮古島にいたい」ではなく「君たちと一緒にいたい」。ここで出会った人たちと、離れたくなかった。毎日が大爆笑で楽しいから、などではない、もっと複雑に絡み合った「繋がり」のようなものを確かに感じていた。

本気でバカをやるのは難しい、と冒頭で書いたのは、誰の目も気にせずそんなことをするには、確かな信頼関係が必要だからだ。人の様子を伺いながら全力で笑うなんてのは到底不可能なことで、それは本気のバカではない。僕は幸いにも、毎日フルパワーでバカをやっていた。同時に「カツオ、帰るなよ」と本気とも冗談ともつかない言葉を言ってもらえた。本当に本当に、ありがたいことだ。どれだけ感謝しても足りるものではない。

長々と書いてしまった。僕は根がとても暗いので、どうも話が深刻になって困る。

綺麗な海も、美味いお酒も食べ物も、存分に堪能した。そしてずっと付き合っていける友達とも出会えた。こんなに幸せでいいのかと思うほど、幸せな旅だった。

この夏、宮古島で会えたすべての人に、「ありがとうございました」。
そして、いつかどこかで、「また必ず会いましょう」。


では、これにて筆を置きます。また。



あ、ブログは続きますんでね。引き続きのご愛顧をお願いします。

宮古島2009~その16 最後の日

2009年10月20日 | Weblog
遂に、その日の朝は来た。

寝ぼけながらシャワーを浴び、テラスで少しぼんやりとする。ここからもう何十回と空を眺めているのに、その景色が突然自分のものでなくなったような気分になる。「カツオちゃんおはよう」早番のクロが窓から顔を出した。どんな顔をしていいかわからず、とりあえず全力の笑顔で挨拶を返した。心なしか、クロの表情が歪んだ気がした。
ノロノロと朝食を作り、グダグダと食べる。そうだ、余ってる食材の引き取りをお願いしとかないと…目の前でヨーグルトにハチミツを混ぜるクロは、言葉少なでこちらをあまり見てくれない。

こんな時間にナリさんが起きてきた。「よかった。起きれた」沖縄に長く滞在し、何百回と別れを繰り返してきたはずの彼が、たったひと言つぶやいたその言葉で、涙腺のダムが崩壊した。「ダメだよ、ナリさん…我慢してたのに…」彼は黙って僕を見ていた。別れなど何とも思っていないような、言葉は野暮だと知っているようなたたずまいで、ただナリさんは僕を見ていた。テラスに逃げようとする僕に驚いて、宿に昨日来たばかりの子が声をかけてきた。うまく返事ができなかった。いつもいらない言葉はいくらでも出てくるのに、肝心な時に肝心なことをうまく言えない自分がいつも嫌になる。

宿には、宿泊者が思いを綴るノートがある。もう宿泊は5回目だし、そもそもうまく書けないからとそのままにしていた。それを視界の端に捉えた瞬間、昨夜のリプトンの言葉を思い出した。「みんなカツオのを読みたがるよ。だからできれば書いてほしいな」彼女には、旅の始まりからお世話になりっぱなしだった。誰が読むかも知れないノートに、それでも足跡を残すことで、何か応えられるなら…テラスに戻り、ペンを握る。出発まであまり時間がない。悲しくてやるせなくて何も思いつかない。当のリプトンが起きてきた。うつむいて、ほとんど何も言わずどこかへ行ってしまった。思うまま書きなぐる。時計を見た。出発まであと15分…たった15分しかない。起きてきたティンに声をかけられる。サバサバした彼女の対応は、こんな時は逆に救われる。頭に巻いていたタオルを取り、こっちでは用もなかったニット帽を被った。

カウンターの奥から王子があくびしながら現れ、完全に寝ぼけた顔でこっちを見ている。気の利いた台詞が飛んできても困るが、彼は基本的にそんなキャラではない。玄関のほうを向いた瞬間、肩を乱暴にバシバシ叩かれた。悔しいけれど、突然涙がボロボロ溢れてきた。「こういうのダメなんだよ、もらっちゃうよ」ティンのかすれた声が後ろから聞こえる。もうどうにもならない。

二度と会えないわけじゃない。沖縄で毎年こんな経験をしてきた。なのに、どうしてこんなに涙が出るのかわからなかった。こんな歳になってバカみたいだし、みっともない。だけど写真を撮ってもふざけてみても、何をしても涙が止まらなかった。
結局、コースケさんとリプトンが空港まで送ってくれることになった。見送ってくれるみんなが、見えなくなるまで手を振った。車の中では何を話せばいいかわからず、話せば泣いてしまいそうだった。運転席のリプトンの横顔を何気なく見る。ほんの少し前、空港で出迎えてくれた彼女に会ってから、素晴らしい日々が始まった。そう思うと、笑っちゃうくらい長い夢を見ていたような、とても不思議な気持ちになった。

でかいリュックを背負う。空港の入り口で、もう一度深く頭を下げる。歩き出す。
こんな時、僕はいつも振り返ってしまう。けど今回ばかりは、振り返ったらダメだ。歩きながらそのまま手を大きく振って、背後で自動ドアが閉まった。


ここで、僕の宮古島の旅は終わった。