
【斑鳩サイクリング(2月10日(金))】
午前6時前に自宅を出立すると漆黒の西空にまさにお盆のような満月が耀いていた。突然かたわらを長大な車列の貨物列車が夜明け前の静けさを引き裂く轟音を立て駆け抜けた。映画「ドクトルジバコ」でストレイニコフの軍用列車が赤旗を靡かせてウクライナの森を疾走するシーンが突然浮かんできた。新幹線の車窓に朝日を浴びて照り輝く秀峰富士と一面白銀の世界と化した関ケ原を望みながら、京都から閑散な奈良線で法隆寺駅に着いたのは昼近くである。少し肌寒いが小春日和の斑鳩の地をレンタサイクルでまずは藤ノ木古墳に向かった。
住宅街を走らせ法隆寺参道の松林を左折し住宅が切れると目の前にこんもりした古墳が現れた(その1に掲示の写真)。綺麗に刈り上げた坊主頭の古墳だが、思いのほか小さく、これがあの「藤ノ木古墳」なのか。発掘調査前は藪に覆われて目立たない直径50Mの小型円墳だったため、盗掘されることなく1400年前のタイムカプセルになれたのだろう。コンクリート造りの石室開口部から恐る恐るガラス越しに真っ暗な石室内を覗くと、暗さに目が馴れて石室羨道の奥に「石棺」がぼんやり浮かんできた。朱色を帯びたあの石棺内に「竹田皇子」と「推古天皇」が眠っていたのだろうか。平和を希求する仏教文化の華開く飛鳥時代の陰で、血塗られた骨肉の争いに翻弄される推古天皇母子に思いを馳せていた。
古墳の周りに立つ案内板の中に興味深い記述を見付けた。一つは石室の開口方向に「磯城・磐余地域」が臨めると書かれてあった。その方角は飛鳥方面であり、被葬者の生まれ育った故郷だとすると、やはり被葬者は竹田皇子にちがいない。母推古天皇の住む飛鳥の宮を望みながら永遠の眠りについているのではないだろうか。もう一つは、この古墳周辺に古くから寺院があったと平安時代の文書に見られ、江戸時代の記録では法隆寺の末寺「宗源寺」が管理し「陵山王女院宝積寺」と呼ばれていたとあった。法隆寺の末寺そして陵山そして王女!思わず驚きの声をあげてしまった。やはり法隆寺がこの藤ノ木古墳の被葬者を弔っていたのか、そして藤ノ木古墳を守る寺院の名称が、この古墳が天皇陵であり王女だったと教えているではないか。これまで誰もこのことに気付かなかったのだろうか。やはり推古女帝の墓所だったのだ。現地に足を運び自分の眼で考えないと真実は知り得ないものである。自分の思い付きが実証された興奮にひとり鳥肌が立っていた。
藤ノ木古墳の近くにある「斑鳩文化財センター」の敷地内に、朱塗りの石棺のレプリカが展示されており、胸のときめきを抑えられなかった。係員が私一人だけなのに映像ホールでビデオ放映してくれた。数次に亘る発掘調査の模様、特にファイバースコープによる事前調査、石棺の開棺作業、棺内副葬物の出土状態など、臨場感溢れる映像にその現場に立ち会っている興奮を覚えた。視聴後に石室羨道を模した壁面の通路を展示室に入ると、石棺内の副葬品を発掘当時の状態で復元した石棺レプリカを係員がマンツウマンで丁寧に説明してくれた。庭先にあったレプリカの石棺は大きく感じたが、目の前の石棺内は被葬者二人が入るには狭ますぎないか。ぎゅうぎゅう詰めで埋葬された様子を目に浮かべていた。
朱塗の「石棺レプリカ」には、金銅製の王冠や靴、太刀、銅鏡、無数の歩揺と玉、そして2体の人骨の一部が、発掘当時の泥を被った状態で復元されており、石棺の蓋を開けた瞬間に立ち会っている錯覚を覚えて興奮していた。被葬者2体は本当に推古天皇母子なのだろうか。二人の両側に複数の太刀があり足下には大きな靴が2足分置かれ、しかも二人の上に馬飾りの歩揺がばら蒔かれている。身長が二人とも165センチ位あり、骨太な人骨から2体とも男性ではと考えられているらしい。しかし南側被葬者(性別不明)の頭近くに青い玉の首飾りと金色のイヤリングがあり、用途不明の金銅製筒形品も埴輪に事例がある頭飾りだとすれば、これらは女性用の副葬品ではないか。骨太で上背のある女性もいるはずだ。男性用副葬品である王冠と帯が1個だけなので被葬者の男性は一人で、やはりもう一体は女性であるとの持論に気を強くしたが、係員に被葬者が竹田皇子と推古天皇ではとする自説を披瀝する勇気はさすがに持てなかった。あっという間に時間が過ぎてしまい後ろ髪を引かれながらセンターを退出した。
次はいよいよ「法隆寺」である。南大門前に自転車を停め境内に入ると、壮大な中門の背後に五重塔の上層が聳えていた(掲示の写真)。梅原猛氏が聖徳太子一族の怨念を封じ込めていると語る「中門」は、確かに真ん中に柱が立って閂(かんぬき)を掛けていると思えば確かにそう見える。しかし巨大な門を支えるには4柱の3間よりは5柱の4間の方が安定するので、力学的に4間にしたのではと平静に中門に向きあっている自分が不思議だった。
中門の両側に広がる回廊の左端から境内に入ると目の前に古色蒼然とした「五重塔」が聳えていた。各層が上になるほど狭くなる安定感ある姿に、先程の中門の4間もやはり建造物の安定感志向の結果だとの意を強くした。塔の4面の扉が開いて「塑像の群像」を見る事が出来た。東面には文殊と維摩が問答するのを菩薩達が取り囲み、北面には釈迦の涅槃を前に号泣する弟子達が取り囲み、西面では釈迦の遺骨を大勢で分配しているところを、そして南面では弥勒が再生した浄土を表しているという。鍾乳洞のような洞窟を舞台にした不気味な世界と感じるのは、焼失前の五重塔内で聖徳太子一族25人が惨殺された悲劇を知っているからだろうか。
隣の「金堂」もどっしりした安定感を持つ建造物である。金堂内は薄暗いが3体の本尊を取り囲む焼失再現された壁画が極楽浄土を彷彿させる厳かな雰囲気を醸し出していた。金網越しに覗いた「釈迦如来」と「薬師如来」は、面長で人間的な表情をもつ飛鳥仏そのものだが、顔立ちも被服も手の仕草も全く同じで、どこが違うのだろう。薬師如来は釈迦如来の縮小版ではないか、なぜ同じ金堂内で一緒に本尊になっているのだろう。どこかの寺で本尊だった複製品を持ち込んだのではないだろうか。
回廊を出て裏手の「大宝蔵院」に入ると目の前に3メートルはあろう「百済観音像」が現れた。面長で頭でっかちな六頭身の飛鳥仏とは別次元の八頭身とも思える流麗なスタイルの女神像で、艶っぽい姿態と慈悲深く微笑んでいる表情にしばし見惚れてしまった。あまりに場違いな圧倒的存在感に、あなたはどこからここに来たのと、思わず声がけしたい衝動に駆られていた。
金堂と塔を囲む回廊の外に出て、現法隆寺の前身である「斑鳩寺:若草伽藍」の跡を探してみたが、それらしき痕跡を見付け出す事はできず、どうも南大門から中門に向かう右側の塀に囲まれた一角にあるようだが、中に入ることができず断念した。それにしても670年に広大な若草伽藍が落雷で全焼したとはどうしても信じられない。1棟だけならまだしも、金堂と五重塔までがひとつの落雷だけで焼け落ちるものだろうか。そんな突然の災害なら重量ある多数の仏像を速やかに持ち出せるはずもない。事前に予知できる焼き討ちの類だったのではないだろうか。
前年の669年に時の権力者藤原鎌足が病死し、670年に法隆寺が全焼、翌671年には天智天皇が崩御、その翌672年に壬申の乱が起こり天武天皇が近江大津から明日香に都を遷す、まさに様々な事件が連続した激動の最中である。天智と天武兄弟の骨肉の争いが、百済系と新羅系の政争ともいわれ、その混乱の中で百済方式の若草伽藍が焼失し、後に新羅形式の法隆寺西院伽藍が再建されたことと関連があるように思えてならない。落雷による全焼が信じられず、悶々とした思いのまま、法隆寺の探訪を時間に追われるように切り上げて、次なる目的地である二つの三重塔に向かった。
法隆寺の西院伽藍と夢殿のある東院伽藍の間を走りぬけ、住宅街が切れて大きな池が広がり、斑鳩神社の先を右折するとかなり急な上り坂になり自転車を降りてしまった。明日のマラソンコースの白線が引かれており、明日はかなり厳しい走りになりそうである。登り切った坂を一気に走りおりてまもなく前方に「法輪寺」の三重塔が見えてきた。聖徳太子の病気平癒を祈願して子山背大兄王が創建したと伝えられ、当時は法隆寺西伽藍の3分の2の規模だったという。三重塔は1944年に落雷で焼失したが1975年に再建され、静かな斑鳩の山里に佇む孤塔の美しさに、しばし旅の疲れを癒した。
次の法起寺に向かう両側に小山が多く、古墳ではと思っていると当たりだった。右手の丘陵は聖徳太子の子山背大兄王の墓所と伝えられ宮内庁の「富郷陵墓参考地」になっているという。案内板には、法輪寺と法起寺を建てた山背大兄王は、聖徳太子の後継者として皇位継承をめぐり田村皇子(後の舒明天皇)と争い、643年に斑鳩宮が蘇我入鹿の軍勢に攻められて太子一族は滅んだ、大化の改新の2年前の出来事であると書かれていた。
やがて「法起寺」の三重塔が通りの奥に見えてきた。重厚な三層の屋根は法隆寺西院の五重塔に酷似しており、聖徳太子が法華経を講読した岡本宮を太子の遺言で山背大兄皇子が寺に改めたと伝えられ、現存する日本最古の三重塔で世界文化遺産の指定を受けているとのこと。法隆寺から自転車で約10分の距離にあるが当時は山麓に広がる法輪寺と法起寺を擁した一大仏教文化圏だったにちがいない。既に午後4時近くになっていたがやはり仏塚古墳探索を欠かすわけにはいかない。
法輪寺前を戻り先程の急坂を越えて山間部の田畑に入り込んでまもなく小さな「仏塚古墳」が見えてきた。案内板には一辺23Mの方形墳と書かれ、鉄格子越しに石室を覗くと藤ノ木古墳に劣らない緻密な石積みである。副葬品は盗掘されてしまったが名前から仏像など仏教に関わる遺物が出土したのだろう、開口部が法隆寺や藤ノ木古墳のある南西方向を向いており、藤ノ木古墳と同じ6世紀後半の築造とすれば、やはり聖徳太子の弟で新羅征討作戦中(603年)に没した来目皇子の墓所かもしれない。
時計はレンタサイクル返却時間近くになっていた。かくして斑鳩の里マラソン前日のサイクリング探訪は無事終えたが、かなりのアップダウンであり「斑鳩の里」というよりも「斑鳩の丘」である。明日はまずは完走を目標にしよう。
【いかるがの里・法隆寺マラソン(2月11日(土))】
昨夜はさすがに斑鳩の里サイクリングで疲れたのか、奈良駅前ホテルの天然温泉風呂に入るとすぐ就寝してしまった。起床が7時半、今日のマラソンはスタートが正午とのんびり日程で、久しぶりにホテルの朝食をゆっくり摂ったが、連休初日とあって奈良観光客で満席のレストランに、私のようなスポーツウエア姿はどこにもいない。
9時半にホテルをチェックアウト、快晴の空を仰ぎ小春日和の陽射しが心地よく、昨年は降雪で中止になったそうだが、今日はまことにマラソン日和である。法隆寺駅に着いたのが10時過ぎ、シャトルバスで大会会場に着くと午前の部の「斑鳩三塔健康走ろう会」のランナーが次々にゴールしていた。体育館で受付を済ませ、隣で身体の汗を拭いている同年輩の男性に「お疲れさま、アッブダウンがキツかったでしよ」と声掛けすると、彼は走りすぎて膝を壊したが以前はフルを3時間半、サロマ湖ウルトラマラソン100キロも走る猛者だったという。昨年から漸く走れるようになったと健康のありがたみを語っていたが全く同感である。
今日のウエアは「1000人の祈りプロジェクト」の東日本大震災支援チャリティーシャツである。青地のTシャツに白字で1000と書かれ、1の字が太い蝋燭で描かれオレンジの炎が戦争のない世界を希求する素敵なデザインである。多くの仲間と歌った「祈り」の願いをぜひ奈良の皆さんにもお伝えしたい。
グランドを走る仲間に混じり軽くジョグするとなかなか軽快である。体育館に戻り履紐を結び直していると隣に座った女性の真っ赤なマラソンシューズと長いスカートが視野に入った。仮装ランナーと気付き「お孫さんの制服ですか」と尋ねると「いやだ、娘が高校を卒業したので借り(貰っ)てきたの」そして奈良の有名私立高校のスクールバックを背負って走るというのである。あえて走り辛い服装で大会を盛り上げる仮装ランナーにはかねて敬意を表していたので、仮装ランナーの醍醐味などに話は弾んだが、最後尾からスタートするという彼女に追い抜かれないよう頑張らねばと互いに健闘を誓い合って別れた。
約1500人のハーフのカウントダウンが終わると一斉に拍手と歓声が沸き起こった。この瞬間はいつものことながら何物にも替え難い感動である。黄色のスタートゲートをくぐり街に出ると、狭い住宅街を走るため接触しそうで緊張の連続である。緩い上り坂も苦にならず軽快な走りに安堵した。昨日立ち寄った「斑鳩文化財センター」前を法隆寺方向に向かった。参道の松並木を南大門に向けて左折すると正面に法隆寺の「五重塔」の尖塔が見えてきた。この景色が本大会の目玉だ、ついに法隆寺マラソンを走っているぞと叫んでいた。最初の1キロが5分30秒は渋滞を考えればいい感じである。
広大な法隆寺の外壁を周回し、隣接する「中宮寺」の落ち着いた佇まいを左手に、いよいよ昨日サイクリングした「斑鳩の丘」である。天満池を半周して「仏塚古墳」を右手に見ながら緩やかな勾配を登りつめた3キロ地点で16分30秒はキロ5分30秒ペースである。ここからの緩やかな下りから昨日の自転車を降りざるを得なかった急坂に変わったが、意外にも快調に走れているではないか。登りつめて法輪寺までの下り坂こそタイムを稼ぐチャンスとばかりにピッチを上げた。この1キロはなんと5分を切っていた。
斑鳩ののどかな田園風景の中に現れた美しい「法輪寺」三重塔の姿に魅せられながら、ゴルフ場に向かって再び上りである。さすがにキロ5分50秒に落ちたが、この5キロを27分18秒は山岳コースにしては好調である。斑鳩溜池を半周した後の下りの直線でキロ5分5秒と再び貯金できた。斑鳩の丘から市街地に戻り中宮寺を外周して、美しい古い町並みを抜け再び法隆寺の南大門前を横切り、藤ノ木古墳方面に向かった。
街中の声援も賑やかで私服でボランティアされている係員も温かい声を掛けてくれた。まだまだ余裕の走りである。「藤ノ木古墳」に集まる観光客の声援を受けながら、古墳を見下ろす位置に上がると、昨日感じたより雄大な古墳ではないか。スタート地点の斑鳩町役場まで戻っての10キロで54分丁度は、前回の伊勢マラソンを上回るタイムである。
住宅街に入ると街角を次から次に曲ったり、挙句の果てには民家の軒下路地を走りぬけたりと、これまで体験したことのないコース取りに驚かされたが、これも地方大会の面白さなのかもしれない。沿道の声援や子供達のハイタッチに応じながら、キロ5分30秒のペースで順調にきたが、15キロを過ぎたところで前半の山岳のアップダウンが利いてきたようで、徐々に筋肉疲労が感じられ、少し脹脛が攣り始めた。少し調整しながら様子をみたがなんとか行けそうである。
あと5キロの標識に、よし皇居1周だ、頑張れ。あと3キロでは、半蔵門まで来たぞ、頑張れ。最後の給水所で小休止したためキロ6分45秒に落ちてしまったが、この時が最悪な時だったかもしれない。あと2キロの標識では、桜田門からの皇居前広場の直線コースだ。あと1キロでは、大手町本社ビルが見えるぞ、ゴールすればもう走らなくていいんだ、今がんばらなくてどうする、頑張れ。ラスト2キロをキロ5分40秒で走り、ついに黄色のアーチ型ゴールゲートを走りぬけた。時計は1時間56分40秒で伊勢マラソンの記録を12秒上回っていた。ラストは苦しかったが、爽やかなゴールだった。女子中校生にいただいたドリンクを一気に飲み干した。ありがとう。
このところ外反母趾や踵痛といった足の故障に悩まされていたので、無事完走できたことが何より嬉しかった。しかもハーフ2時間切りの目標も達成できたし、そのうえ憧れだった斑鳩の里を2日間も満喫できたのだからこれ以上の喜びはない。着替えを済ませると時計は3時近くになっていた。これから6時間近い帰路があるので、早々にシャトルバスに乗り込んだ。
午前6時前に自宅を出立すると漆黒の西空にまさにお盆のような満月が耀いていた。突然かたわらを長大な車列の貨物列車が夜明け前の静けさを引き裂く轟音を立て駆け抜けた。映画「ドクトルジバコ」でストレイニコフの軍用列車が赤旗を靡かせてウクライナの森を疾走するシーンが突然浮かんできた。新幹線の車窓に朝日を浴びて照り輝く秀峰富士と一面白銀の世界と化した関ケ原を望みながら、京都から閑散な奈良線で法隆寺駅に着いたのは昼近くである。少し肌寒いが小春日和の斑鳩の地をレンタサイクルでまずは藤ノ木古墳に向かった。
住宅街を走らせ法隆寺参道の松林を左折し住宅が切れると目の前にこんもりした古墳が現れた(その1に掲示の写真)。綺麗に刈り上げた坊主頭の古墳だが、思いのほか小さく、これがあの「藤ノ木古墳」なのか。発掘調査前は藪に覆われて目立たない直径50Mの小型円墳だったため、盗掘されることなく1400年前のタイムカプセルになれたのだろう。コンクリート造りの石室開口部から恐る恐るガラス越しに真っ暗な石室内を覗くと、暗さに目が馴れて石室羨道の奥に「石棺」がぼんやり浮かんできた。朱色を帯びたあの石棺内に「竹田皇子」と「推古天皇」が眠っていたのだろうか。平和を希求する仏教文化の華開く飛鳥時代の陰で、血塗られた骨肉の争いに翻弄される推古天皇母子に思いを馳せていた。
古墳の周りに立つ案内板の中に興味深い記述を見付けた。一つは石室の開口方向に「磯城・磐余地域」が臨めると書かれてあった。その方角は飛鳥方面であり、被葬者の生まれ育った故郷だとすると、やはり被葬者は竹田皇子にちがいない。母推古天皇の住む飛鳥の宮を望みながら永遠の眠りについているのではないだろうか。もう一つは、この古墳周辺に古くから寺院があったと平安時代の文書に見られ、江戸時代の記録では法隆寺の末寺「宗源寺」が管理し「陵山王女院宝積寺」と呼ばれていたとあった。法隆寺の末寺そして陵山そして王女!思わず驚きの声をあげてしまった。やはり法隆寺がこの藤ノ木古墳の被葬者を弔っていたのか、そして藤ノ木古墳を守る寺院の名称が、この古墳が天皇陵であり王女だったと教えているではないか。これまで誰もこのことに気付かなかったのだろうか。やはり推古女帝の墓所だったのだ。現地に足を運び自分の眼で考えないと真実は知り得ないものである。自分の思い付きが実証された興奮にひとり鳥肌が立っていた。
藤ノ木古墳の近くにある「斑鳩文化財センター」の敷地内に、朱塗りの石棺のレプリカが展示されており、胸のときめきを抑えられなかった。係員が私一人だけなのに映像ホールでビデオ放映してくれた。数次に亘る発掘調査の模様、特にファイバースコープによる事前調査、石棺の開棺作業、棺内副葬物の出土状態など、臨場感溢れる映像にその現場に立ち会っている興奮を覚えた。視聴後に石室羨道を模した壁面の通路を展示室に入ると、石棺内の副葬品を発掘当時の状態で復元した石棺レプリカを係員がマンツウマンで丁寧に説明してくれた。庭先にあったレプリカの石棺は大きく感じたが、目の前の石棺内は被葬者二人が入るには狭ますぎないか。ぎゅうぎゅう詰めで埋葬された様子を目に浮かべていた。
朱塗の「石棺レプリカ」には、金銅製の王冠や靴、太刀、銅鏡、無数の歩揺と玉、そして2体の人骨の一部が、発掘当時の泥を被った状態で復元されており、石棺の蓋を開けた瞬間に立ち会っている錯覚を覚えて興奮していた。被葬者2体は本当に推古天皇母子なのだろうか。二人の両側に複数の太刀があり足下には大きな靴が2足分置かれ、しかも二人の上に馬飾りの歩揺がばら蒔かれている。身長が二人とも165センチ位あり、骨太な人骨から2体とも男性ではと考えられているらしい。しかし南側被葬者(性別不明)の頭近くに青い玉の首飾りと金色のイヤリングがあり、用途不明の金銅製筒形品も埴輪に事例がある頭飾りだとすれば、これらは女性用の副葬品ではないか。骨太で上背のある女性もいるはずだ。男性用副葬品である王冠と帯が1個だけなので被葬者の男性は一人で、やはりもう一体は女性であるとの持論に気を強くしたが、係員に被葬者が竹田皇子と推古天皇ではとする自説を披瀝する勇気はさすがに持てなかった。あっという間に時間が過ぎてしまい後ろ髪を引かれながらセンターを退出した。
次はいよいよ「法隆寺」である。南大門前に自転車を停め境内に入ると、壮大な中門の背後に五重塔の上層が聳えていた(掲示の写真)。梅原猛氏が聖徳太子一族の怨念を封じ込めていると語る「中門」は、確かに真ん中に柱が立って閂(かんぬき)を掛けていると思えば確かにそう見える。しかし巨大な門を支えるには4柱の3間よりは5柱の4間の方が安定するので、力学的に4間にしたのではと平静に中門に向きあっている自分が不思議だった。
中門の両側に広がる回廊の左端から境内に入ると目の前に古色蒼然とした「五重塔」が聳えていた。各層が上になるほど狭くなる安定感ある姿に、先程の中門の4間もやはり建造物の安定感志向の結果だとの意を強くした。塔の4面の扉が開いて「塑像の群像」を見る事が出来た。東面には文殊と維摩が問答するのを菩薩達が取り囲み、北面には釈迦の涅槃を前に号泣する弟子達が取り囲み、西面では釈迦の遺骨を大勢で分配しているところを、そして南面では弥勒が再生した浄土を表しているという。鍾乳洞のような洞窟を舞台にした不気味な世界と感じるのは、焼失前の五重塔内で聖徳太子一族25人が惨殺された悲劇を知っているからだろうか。
隣の「金堂」もどっしりした安定感を持つ建造物である。金堂内は薄暗いが3体の本尊を取り囲む焼失再現された壁画が極楽浄土を彷彿させる厳かな雰囲気を醸し出していた。金網越しに覗いた「釈迦如来」と「薬師如来」は、面長で人間的な表情をもつ飛鳥仏そのものだが、顔立ちも被服も手の仕草も全く同じで、どこが違うのだろう。薬師如来は釈迦如来の縮小版ではないか、なぜ同じ金堂内で一緒に本尊になっているのだろう。どこかの寺で本尊だった複製品を持ち込んだのではないだろうか。
回廊を出て裏手の「大宝蔵院」に入ると目の前に3メートルはあろう「百済観音像」が現れた。面長で頭でっかちな六頭身の飛鳥仏とは別次元の八頭身とも思える流麗なスタイルの女神像で、艶っぽい姿態と慈悲深く微笑んでいる表情にしばし見惚れてしまった。あまりに場違いな圧倒的存在感に、あなたはどこからここに来たのと、思わず声がけしたい衝動に駆られていた。
金堂と塔を囲む回廊の外に出て、現法隆寺の前身である「斑鳩寺:若草伽藍」の跡を探してみたが、それらしき痕跡を見付け出す事はできず、どうも南大門から中門に向かう右側の塀に囲まれた一角にあるようだが、中に入ることができず断念した。それにしても670年に広大な若草伽藍が落雷で全焼したとはどうしても信じられない。1棟だけならまだしも、金堂と五重塔までがひとつの落雷だけで焼け落ちるものだろうか。そんな突然の災害なら重量ある多数の仏像を速やかに持ち出せるはずもない。事前に予知できる焼き討ちの類だったのではないだろうか。
前年の669年に時の権力者藤原鎌足が病死し、670年に法隆寺が全焼、翌671年には天智天皇が崩御、その翌672年に壬申の乱が起こり天武天皇が近江大津から明日香に都を遷す、まさに様々な事件が連続した激動の最中である。天智と天武兄弟の骨肉の争いが、百済系と新羅系の政争ともいわれ、その混乱の中で百済方式の若草伽藍が焼失し、後に新羅形式の法隆寺西院伽藍が再建されたことと関連があるように思えてならない。落雷による全焼が信じられず、悶々とした思いのまま、法隆寺の探訪を時間に追われるように切り上げて、次なる目的地である二つの三重塔に向かった。
法隆寺の西院伽藍と夢殿のある東院伽藍の間を走りぬけ、住宅街が切れて大きな池が広がり、斑鳩神社の先を右折するとかなり急な上り坂になり自転車を降りてしまった。明日のマラソンコースの白線が引かれており、明日はかなり厳しい走りになりそうである。登り切った坂を一気に走りおりてまもなく前方に「法輪寺」の三重塔が見えてきた。聖徳太子の病気平癒を祈願して子山背大兄王が創建したと伝えられ、当時は法隆寺西伽藍の3分の2の規模だったという。三重塔は1944年に落雷で焼失したが1975年に再建され、静かな斑鳩の山里に佇む孤塔の美しさに、しばし旅の疲れを癒した。
次の法起寺に向かう両側に小山が多く、古墳ではと思っていると当たりだった。右手の丘陵は聖徳太子の子山背大兄王の墓所と伝えられ宮内庁の「富郷陵墓参考地」になっているという。案内板には、法輪寺と法起寺を建てた山背大兄王は、聖徳太子の後継者として皇位継承をめぐり田村皇子(後の舒明天皇)と争い、643年に斑鳩宮が蘇我入鹿の軍勢に攻められて太子一族は滅んだ、大化の改新の2年前の出来事であると書かれていた。
やがて「法起寺」の三重塔が通りの奥に見えてきた。重厚な三層の屋根は法隆寺西院の五重塔に酷似しており、聖徳太子が法華経を講読した岡本宮を太子の遺言で山背大兄皇子が寺に改めたと伝えられ、現存する日本最古の三重塔で世界文化遺産の指定を受けているとのこと。法隆寺から自転車で約10分の距離にあるが当時は山麓に広がる法輪寺と法起寺を擁した一大仏教文化圏だったにちがいない。既に午後4時近くになっていたがやはり仏塚古墳探索を欠かすわけにはいかない。
法輪寺前を戻り先程の急坂を越えて山間部の田畑に入り込んでまもなく小さな「仏塚古墳」が見えてきた。案内板には一辺23Mの方形墳と書かれ、鉄格子越しに石室を覗くと藤ノ木古墳に劣らない緻密な石積みである。副葬品は盗掘されてしまったが名前から仏像など仏教に関わる遺物が出土したのだろう、開口部が法隆寺や藤ノ木古墳のある南西方向を向いており、藤ノ木古墳と同じ6世紀後半の築造とすれば、やはり聖徳太子の弟で新羅征討作戦中(603年)に没した来目皇子の墓所かもしれない。
時計はレンタサイクル返却時間近くになっていた。かくして斑鳩の里マラソン前日のサイクリング探訪は無事終えたが、かなりのアップダウンであり「斑鳩の里」というよりも「斑鳩の丘」である。明日はまずは完走を目標にしよう。
【いかるがの里・法隆寺マラソン(2月11日(土))】
昨夜はさすがに斑鳩の里サイクリングで疲れたのか、奈良駅前ホテルの天然温泉風呂に入るとすぐ就寝してしまった。起床が7時半、今日のマラソンはスタートが正午とのんびり日程で、久しぶりにホテルの朝食をゆっくり摂ったが、連休初日とあって奈良観光客で満席のレストランに、私のようなスポーツウエア姿はどこにもいない。
9時半にホテルをチェックアウト、快晴の空を仰ぎ小春日和の陽射しが心地よく、昨年は降雪で中止になったそうだが、今日はまことにマラソン日和である。法隆寺駅に着いたのが10時過ぎ、シャトルバスで大会会場に着くと午前の部の「斑鳩三塔健康走ろう会」のランナーが次々にゴールしていた。体育館で受付を済ませ、隣で身体の汗を拭いている同年輩の男性に「お疲れさま、アッブダウンがキツかったでしよ」と声掛けすると、彼は走りすぎて膝を壊したが以前はフルを3時間半、サロマ湖ウルトラマラソン100キロも走る猛者だったという。昨年から漸く走れるようになったと健康のありがたみを語っていたが全く同感である。
今日のウエアは「1000人の祈りプロジェクト」の東日本大震災支援チャリティーシャツである。青地のTシャツに白字で1000と書かれ、1の字が太い蝋燭で描かれオレンジの炎が戦争のない世界を希求する素敵なデザインである。多くの仲間と歌った「祈り」の願いをぜひ奈良の皆さんにもお伝えしたい。
グランドを走る仲間に混じり軽くジョグするとなかなか軽快である。体育館に戻り履紐を結び直していると隣に座った女性の真っ赤なマラソンシューズと長いスカートが視野に入った。仮装ランナーと気付き「お孫さんの制服ですか」と尋ねると「いやだ、娘が高校を卒業したので借り(貰っ)てきたの」そして奈良の有名私立高校のスクールバックを背負って走るというのである。あえて走り辛い服装で大会を盛り上げる仮装ランナーにはかねて敬意を表していたので、仮装ランナーの醍醐味などに話は弾んだが、最後尾からスタートするという彼女に追い抜かれないよう頑張らねばと互いに健闘を誓い合って別れた。
約1500人のハーフのカウントダウンが終わると一斉に拍手と歓声が沸き起こった。この瞬間はいつものことながら何物にも替え難い感動である。黄色のスタートゲートをくぐり街に出ると、狭い住宅街を走るため接触しそうで緊張の連続である。緩い上り坂も苦にならず軽快な走りに安堵した。昨日立ち寄った「斑鳩文化財センター」前を法隆寺方向に向かった。参道の松並木を南大門に向けて左折すると正面に法隆寺の「五重塔」の尖塔が見えてきた。この景色が本大会の目玉だ、ついに法隆寺マラソンを走っているぞと叫んでいた。最初の1キロが5分30秒は渋滞を考えればいい感じである。
広大な法隆寺の外壁を周回し、隣接する「中宮寺」の落ち着いた佇まいを左手に、いよいよ昨日サイクリングした「斑鳩の丘」である。天満池を半周して「仏塚古墳」を右手に見ながら緩やかな勾配を登りつめた3キロ地点で16分30秒はキロ5分30秒ペースである。ここからの緩やかな下りから昨日の自転車を降りざるを得なかった急坂に変わったが、意外にも快調に走れているではないか。登りつめて法輪寺までの下り坂こそタイムを稼ぐチャンスとばかりにピッチを上げた。この1キロはなんと5分を切っていた。
斑鳩ののどかな田園風景の中に現れた美しい「法輪寺」三重塔の姿に魅せられながら、ゴルフ場に向かって再び上りである。さすがにキロ5分50秒に落ちたが、この5キロを27分18秒は山岳コースにしては好調である。斑鳩溜池を半周した後の下りの直線でキロ5分5秒と再び貯金できた。斑鳩の丘から市街地に戻り中宮寺を外周して、美しい古い町並みを抜け再び法隆寺の南大門前を横切り、藤ノ木古墳方面に向かった。
街中の声援も賑やかで私服でボランティアされている係員も温かい声を掛けてくれた。まだまだ余裕の走りである。「藤ノ木古墳」に集まる観光客の声援を受けながら、古墳を見下ろす位置に上がると、昨日感じたより雄大な古墳ではないか。スタート地点の斑鳩町役場まで戻っての10キロで54分丁度は、前回の伊勢マラソンを上回るタイムである。
住宅街に入ると街角を次から次に曲ったり、挙句の果てには民家の軒下路地を走りぬけたりと、これまで体験したことのないコース取りに驚かされたが、これも地方大会の面白さなのかもしれない。沿道の声援や子供達のハイタッチに応じながら、キロ5分30秒のペースで順調にきたが、15キロを過ぎたところで前半の山岳のアップダウンが利いてきたようで、徐々に筋肉疲労が感じられ、少し脹脛が攣り始めた。少し調整しながら様子をみたがなんとか行けそうである。
あと5キロの標識に、よし皇居1周だ、頑張れ。あと3キロでは、半蔵門まで来たぞ、頑張れ。最後の給水所で小休止したためキロ6分45秒に落ちてしまったが、この時が最悪な時だったかもしれない。あと2キロの標識では、桜田門からの皇居前広場の直線コースだ。あと1キロでは、大手町本社ビルが見えるぞ、ゴールすればもう走らなくていいんだ、今がんばらなくてどうする、頑張れ。ラスト2キロをキロ5分40秒で走り、ついに黄色のアーチ型ゴールゲートを走りぬけた。時計は1時間56分40秒で伊勢マラソンの記録を12秒上回っていた。ラストは苦しかったが、爽やかなゴールだった。女子中校生にいただいたドリンクを一気に飲み干した。ありがとう。
このところ外反母趾や踵痛といった足の故障に悩まされていたので、無事完走できたことが何より嬉しかった。しかもハーフ2時間切りの目標も達成できたし、そのうえ憧れだった斑鳩の里を2日間も満喫できたのだからこれ以上の喜びはない。着替えを済ませると時計は3時近くになっていた。これから6時間近い帰路があるので、早々にシャトルバスに乗り込んだ。










最後の皇居イメージは私もよくやりますが(勿論田舎の)とっても気持ちが楽になります。
法隆寺は去年行ってきたのですが、ボランティアの方の2時間にものぼる説明に感激しました。
今年は長谷寺、唐招提寺、薬師寺を見て回りました。
今は忘れてしまった天平の甍をごそごそ読んでます。
奈良は京都に比べてもの静かで皆さん優しい気がします。歴史も古いし機会ががあればゆっくり回ろうってはなしてます。
去年は丁度法隆寺マラソンの前日でした。
来年はなんて言ってて忘れてました。
カーテンコールさんのブログ見てお勉強です。
でも、すぐに忘れてしまう!
やっぱり若い時の勉強ですね。
たぶん給水のタイムロスを気にして脱水症状になっていたのかもしれません。
いつもハーフの後半に苦しくなるので、フルを走れているのに、なんだこの程度のことで、がんばれるはずじゃないか、どうしたんだ、頑張れ、と叱咤しながら走っています。
いつになったら楽しみながらフィニッシュできるのでしょうね。でもこの苦しさを乗り越え、走り終えた時の達成感と充実感と爽快感を味わえることが、麻薬みたいになっているのかもしれません。
昨年の法隆寺マラソンは降雪で中止になりましたが、j&jさんはその前日に行かれたのですか、雪に遭われませんでしたか。雪の法隆寺も絵になるでしょうね。
今年は記録的な豪雪ですが、東京は1日だけで今日も暖かな日和です。愛知の方はどうなのでしょうか。
いよいよ東京マラソンですね。応援に行きたいですが、同日に開催される琵琶湖レイクサイドマラソンに参加します。そして幻の近江大津京を探訪してきます。お互い楽しく走りましょうね。