
【第1回大阪マラソンの開催】
ついに大阪も2007年から開催している東京マラソンに対抗した大規模な市民参加型マラソン大会の開催を決めた。橋下大阪府知事の石原都知事への対抗意識からかもしれないが、我々市民マラソンランナーにとって大阪城を仰ぎながら走れる本企画は大いに歓迎である。第1回の記念すべきマラソン大会に出走して東京マラソンで得たあの感動をもう一度味わいたいと、今年2月に参加を申し込んだが、定員3万人のところ約6倍の17万人がエントリーしたとのこと、予想以上の高倍率に内心諦めかけていたところ、4月25日に抽選結果(当選)のメールが送られ、あまりの強運にすっかり舞い上がってしまった。
今年から西日本各県マラソン大会への参加を新たな目標に掲げており、大阪を皮切りにして名古屋と続く西日本の大都市マラソンに挑戦していきたい、そして東北人として育った私にとって異郷の感がある今回の大阪では、かねて念願だった大阪城と難波宮の夢の跡を訪ねてみたいと胸ときめかせている。
【大阪城の再建秘話】
今年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」は、今まさに佳境に入っており、豊臣滅亡に繋がるクライマックスの「大阪冬の陣」が、偶然にも大阪マラソン当日のテレビ放映である。豊臣秀吉が築造した難攻不落の大阪城に籠城する豊臣方10万と大阪城を包囲攻撃する徳川方20万の日本史上最大の戦となった「大阪の冬陣・夏の陣」の舞台の大阪城をこの機会にじっくり探訪してきたい。
壮大な石垣に聳える天守閣の近世城郭は、織田信長の安土城に始まるといわれ、夢半ばで憤死した信長の後を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉は、主君信長の建てた安土城を凌ぐ壮大な大阪城を石山本願寺跡に築いたのだが、秀吉の死後、関が原の戦いで天下を制した徳川家康に「大坂夏の陣」で豊臣家は滅亡し、壮大な豊臣大阪城は落城し焼失してしまう。まさに秀吉の辞世の句≪浪速のことは夢のまた夢≫である。
その後、徳川二代将軍秀忠が徳川幕府の威信を誇示すべく、全国の諸大名を総動員した天下普請で、豊臣大坂城を凌駕する巨城を築造するが、この2代目になる徳川大坂城も39年後に落雷で天守閣が焼失し、以降天守閣を欠いた大坂城が昭和の時代まで続く。昭和6年に大坂市民の寄付金で昭和大坂城が再建され、太平洋戦争の米軍爆撃を生き抜いて今われわれの前にその威容を現わしている。
3代目となる昭和大阪城は、福岡藩主黒田長政が夏の陣の落城直前の天守を描かせた「大坂夏の陣図屏風(重文)」をモデルに再建されたといわれる。すなわち昭和の大阪城は、徳川の大阪城ではなく豊臣の大阪城を模して建てられたのである。大坂人にとってやはり太閤秀吉の人気は今なお絶大なのだろう。その後、昭和35年に京都大工頭の中井家で発見された豊臣大阪城の「本丸図」から、豊臣の天守閣が現在の天守閣(徳川大阪城と同じ位置)の北東側にあったことが判明、さらに大阪城遺構の発掘調査で、地下7Mに野面積みの豊臣時代の石垣が発見され、豊臣時代の城郭がすべて破壊され埋め立てられその上に盛土して徳川大阪城が建てられていたことが明らかになった。徳川大阪城の天守台の上に、豊臣大阪城の外観を模した昭和大阪城が建てられたとは、なんと時空を越えたロマンではないか。
ところで、なぜ徳川の天守閣は、「大阪夏の陣」で焼け落ちた豊臣大阪城の天守台の上ではなく、少し離れた別の場所に建てられたのであろうか。徳川将軍家は大阪に根強い太閤人気の痕跡を悉く抹殺するため天守台もろとも破壊してしまいたかったのか、秀吉の威光を凌駕する徳川の権勢を誇示するため、豊臣大阪城より高い天守閣を建てるには、豊臣の天守台の基礎が脆弱で狭過ぎたため、本丸内に新たな天守台を造成したのだろうか。しかし、私は、秀吉が大阪城の各階に納めた財宝の山を来訪者に誇示して驚嘆させたという逸話から、大阪夏の陣で勝者となった徳川方が隠された豊臣の膨大な財宝を探し求めて、焼け落ちた天守台の跡を徹底的に掘削し破壊尽くしたため、新築する天守台の用には立たなかったのではないかと推測する。(大阪城落城後に金銀50万両が徳川幕府に没収されたと伝えられる。)
【難波宮の夢物語】
大阪というと城下町と商人の町というイメージだが、今から1370年前に短命ながら「難波宮」という都があったことはあまり知られていない。最近の発掘調査で大阪城の周辺にあったことが判明したという。大阪に在住する会社の先輩N氏がOB会報に投稿された「古代に遊ぶ〜難波宮を中心に〜」を読ませていただき、いつの日か難波宮の夢を辿りたいと願っていたので、大阪城に出向く際にぜひ難波宮跡にも立ち寄ってみたいと楽しみである。
ところでなぜ飛鳥時代に大阪難波に都が遷されたのだろうか。その背景を少し長くなるが触れてみたい。推古女帝の次の舒明天皇が641年に皇嗣を定めぬまま没すると、皇位継承者に古人大兄皇子と中大兄皇子(いずれも舒明天皇の子)と山背大兄皇子(聖徳太子の子)が三者鼎立していたため、皇嗣決定までの中継ぎとして舒明天皇の皇后が即位して皇極天皇となった。翌年に蘇我入鹿が山背大兄皇子を斑鳩宮に襲って妻子共々自殺に追い込み、645年に中大兄皇子と中臣鎌足が板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺する(あの大化の改新である)。
この事件で皇極天皇は譲位を決意し後継に中大兄皇子を指名するが、中大兄皇子は異母兄の古人大兄皇子(蘇我馬子の孫)ではなく皇極天皇の弟を推挙して孝徳天皇が即位する。古人大兄皇子は出家し吉野に入るが、謀反の疑いで惨殺されてしまう。わずか5年の間の、皇位をめぐる皇子たちの悲劇である。
この悲劇の末に即位した孝徳天皇が飛鳥から難波に都を遷すのである。難波遷都の理由について日本書紀は触れていないが、陰険で血生臭い皇位継承争いに汚れた飛鳥宮から逃げ出したかったのだろうか。
孝徳天皇は難波に遷都して壮大な宮殿を完成させ、大化の改新と呼ばれる公地公民制の中央集権的行政機構を構築し租庸調の税制を定めた革新的政治を推し進め、難波津と呼ばれた港から遣唐使を派遣するなど海外に向け開放的な外交を展開する。しかし宮殿完成の翌年に皇太子(中大兄皇子)が都を大和に還そうと申し入れて、先帝(皇極)・皇后・皇族・官僚を引き連れ飛鳥に帰ってしまう。不承知の孝徳天皇は難波に残り、翌年に一人寂しく難波宮で崩じた。かくして難波宮は僅か9年という短命な都で終わった。≪難波のことも夢のまた夢≫である。
ついでながら、孝徳天皇の崩御により先の皇極女帝が重祚して斉明天皇となり、孝徳天皇の皇子の有間皇子は中大兄皇子に謀反の疑いで捕らえられ絞首されてしまう。万葉集に有間皇子が訊問のため護送される途中で詠ったという歌がある。≪磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば また還り見む≫“磐代(和歌山県南部町)の浜で松の枝を結び合わせ自分の無事を祈るが、もし幸運にも命あって帰路に通ることがあれば、また見られるだろうなあ” 死罪になるかどうか不安な中にも、無実だからと生への僅かな望みを持とうとする悲壮な歌である。皇位継承の渦に巻き込まれた皇子たちの悲劇はまだ続くのである。
【大阪なにわの夢の跡を訪ねて(10月29日(土))】
午前10時前に埼玉の自宅を出立すると爽やかな秋風と晴れ渡る秋空に大阪の曇天予報も大丈夫そうである。新幹線の車窓から初冠雪の消えた富士山の雄姿を仰ぎながら、応援同伴の妻と35年前になる冨士市での社宅生活を懐かしんだ。新大阪駅の乗換えでエスカレータの右側に並ぶ列に驚かされた。東京は左側なのに。東京への大阪人の反骨精神の表れなのだろうか。
大阪城公園駅に降りると、周囲の森は色付き始めて、数本のイチョウが既に黄葉しており、明日のマラソンでは黄色一色になった銀杏並木の御堂筋大通りを走れるかもしれない。小春日和の陽気に誘われて公園内の十月桜が可愛い八重の花びらを広げていた。野球場を通り抜けると広大なお濠の向こうに、高い石垣に聳える五層の天守が現れた。大阪城とは2度目の対面だが、10年前の初対面では大阪出張帰りに立ち寄り慌ただしく記念写真を撮っただけ、改めて対峙すると、あたりを睥睨する巨大な城郭の威容と黄金に輝く鯱や大屋根の装飾の煌びやかさに、すっかり圧倒されてしまった。まさに太閤秀吉の城である。内濠を半周して西北のポイントから巨大な石垣群に聳える天守の景観にカメラを向けた(掲示の写真)。私のランニングザックに「大阪マラソンを走られるのですか」と声を掛けられた。富山から来られたという二人と明日の健闘を誓い合った。
大阪城天守閣は、昭和6年に大阪市民の寄付金150万円により鉄骨鉄筋コンクリート造りで竣工し、今年で復興80周年を迎えて、内部は格調高い近代ホテルの美術博物館のようである。エレベーターを利用して最上階から大阪市内を俯瞰すると、近代的高層建築に勝るとも劣らない眺望である。外人宣教師や敵対する諸大名を案内しながら己の威光を誇示し得意満面の秀吉の猿面が浮かんでくる。
各階の展示物の中に、秀吉が肥前名護屋城から妻北政所ねねに「能十番覚え申し候」と演目を列挙した書状があったが、「文禄の役」で朝鮮出兵する最前線の肥前名護屋城に側室淀殿を連れて来て、しかも淀殿はそこで秀頼を懐妊したのだから、大阪に残した妻ねねのご機嫌を取ろうとする秀吉の心根が実に可愛らしい。そして最大の収穫は「大坂夏の陣図屏風」の本物に出会えたことである。福岡藩主黒田長政が夏の陣の落城直前の天守を描かせた6曲1双の屏風で、右隻には徳川・豊臣両軍の陣構えと激戦の様相が、左隻には落城に逃げ惑う人々の悲劇的な様相が描かれていた。右隻の左端に描かれた大阪城天守が昭和大阪城の再建モデルになったといわれるが、落城寸前の天守の窓から泣きながら外を窺う女たちの表情が細微に描かれているという。絵師の熱い思いを感じながらしばし見入ってしまった。
天守閣の北東に当たる豊臣大阪城天守閣跡と思われる場所に足を向けたが、全くその痕跡はない。天守台とその城壁までも破壊尽くされたのでは立て札の立てようもないのだろう。その北側の山里曲輪跡に、炎上する天守から逃げ出した淀殿と秀朝が自刃した場所だという案内板があり、秀吉が城内に山里の景観地を作り千利休らを招いて茶会を催したという安寧の場所で愛妾と愛息が自刃することになるとは、秀吉は思いもしなかったろう。まさに「浪速のことは夢のまた夢」である。
大阪城を後にして南側に位置する「難波宮跡」に向かった。それらしき広大な空き地に踏み込むと、若い警備員が寄って来て「どんなご用ですか」「難波宮跡を探しているのですが」「ここは私有地です。退出して下さい」。え、難波宮跡地が私有地になってしまったの? 妻が、もうひとつ通り向こうじゃないの、に大通りを渡ると、確かに難波宮史跡公園の看板があり笙の音が聴こえて来た。200M四方の広大な芝生公園に造営されて、ここであの大化の改新が施行されたのだろうか。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記され、言葉では言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿だったという。中央に高さ2M程の基壇があり大極殿を復元したものらしい。上ってみると40M四方の真ん中で若者が4人、麻雀卓を囲んでいた。あまりの不敬さに言葉を失ったが、これが許されるのが大阪なのかもしれないと一人合点しながら、この宮殿に立ち目の前の港から遣唐使船を送り出す孝徳天皇の遠大な構想に夢を馳せた。あまりの革新さに皇太子や皇后たちが飛鳥に去ってしまい、一人寂しく難波宮に残された孝徳帝の無念さはいかばかりだったろう。まさに≪難波のことは夢のまた夢≫である。
時計はすでに午後5時近くになっていた。谷町4丁目から大阪市営中央線でコスモスクエアに向かった。大阪マラソンのランナー受付は、国際展示場のインテックス大阪である。東京マラソンの東京ビックサイトに匹敵する超モダンな会場は、明日のランナー仲間で大いに盛り上がっていた。明日のフィニッシュ会場でもあり、ゴール後の流れを確認してから宿泊ホテルの梅田に着いたのは午後7時を過ぎていた。フルマラソンの前日なのに、いつもの欲張りな歴史探訪で歩き過ぎたようだが、こんなマラソン旅行があってもいいだろう。
ついに大阪も2007年から開催している東京マラソンに対抗した大規模な市民参加型マラソン大会の開催を決めた。橋下大阪府知事の石原都知事への対抗意識からかもしれないが、我々市民マラソンランナーにとって大阪城を仰ぎながら走れる本企画は大いに歓迎である。第1回の記念すべきマラソン大会に出走して東京マラソンで得たあの感動をもう一度味わいたいと、今年2月に参加を申し込んだが、定員3万人のところ約6倍の17万人がエントリーしたとのこと、予想以上の高倍率に内心諦めかけていたところ、4月25日に抽選結果(当選)のメールが送られ、あまりの強運にすっかり舞い上がってしまった。
今年から西日本各県マラソン大会への参加を新たな目標に掲げており、大阪を皮切りにして名古屋と続く西日本の大都市マラソンに挑戦していきたい、そして東北人として育った私にとって異郷の感がある今回の大阪では、かねて念願だった大阪城と難波宮の夢の跡を訪ねてみたいと胸ときめかせている。
【大阪城の再建秘話】
今年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」は、今まさに佳境に入っており、豊臣滅亡に繋がるクライマックスの「大阪冬の陣」が、偶然にも大阪マラソン当日のテレビ放映である。豊臣秀吉が築造した難攻不落の大阪城に籠城する豊臣方10万と大阪城を包囲攻撃する徳川方20万の日本史上最大の戦となった「大阪の冬陣・夏の陣」の舞台の大阪城をこの機会にじっくり探訪してきたい。
壮大な石垣に聳える天守閣の近世城郭は、織田信長の安土城に始まるといわれ、夢半ばで憤死した信長の後を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉は、主君信長の建てた安土城を凌ぐ壮大な大阪城を石山本願寺跡に築いたのだが、秀吉の死後、関が原の戦いで天下を制した徳川家康に「大坂夏の陣」で豊臣家は滅亡し、壮大な豊臣大阪城は落城し焼失してしまう。まさに秀吉の辞世の句≪浪速のことは夢のまた夢≫である。
その後、徳川二代将軍秀忠が徳川幕府の威信を誇示すべく、全国の諸大名を総動員した天下普請で、豊臣大坂城を凌駕する巨城を築造するが、この2代目になる徳川大坂城も39年後に落雷で天守閣が焼失し、以降天守閣を欠いた大坂城が昭和の時代まで続く。昭和6年に大坂市民の寄付金で昭和大坂城が再建され、太平洋戦争の米軍爆撃を生き抜いて今われわれの前にその威容を現わしている。
3代目となる昭和大阪城は、福岡藩主黒田長政が夏の陣の落城直前の天守を描かせた「大坂夏の陣図屏風(重文)」をモデルに再建されたといわれる。すなわち昭和の大阪城は、徳川の大阪城ではなく豊臣の大阪城を模して建てられたのである。大坂人にとってやはり太閤秀吉の人気は今なお絶大なのだろう。その後、昭和35年に京都大工頭の中井家で発見された豊臣大阪城の「本丸図」から、豊臣の天守閣が現在の天守閣(徳川大阪城と同じ位置)の北東側にあったことが判明、さらに大阪城遺構の発掘調査で、地下7Mに野面積みの豊臣時代の石垣が発見され、豊臣時代の城郭がすべて破壊され埋め立てられその上に盛土して徳川大阪城が建てられていたことが明らかになった。徳川大阪城の天守台の上に、豊臣大阪城の外観を模した昭和大阪城が建てられたとは、なんと時空を越えたロマンではないか。
ところで、なぜ徳川の天守閣は、「大阪夏の陣」で焼け落ちた豊臣大阪城の天守台の上ではなく、少し離れた別の場所に建てられたのであろうか。徳川将軍家は大阪に根強い太閤人気の痕跡を悉く抹殺するため天守台もろとも破壊してしまいたかったのか、秀吉の威光を凌駕する徳川の権勢を誇示するため、豊臣大阪城より高い天守閣を建てるには、豊臣の天守台の基礎が脆弱で狭過ぎたため、本丸内に新たな天守台を造成したのだろうか。しかし、私は、秀吉が大阪城の各階に納めた財宝の山を来訪者に誇示して驚嘆させたという逸話から、大阪夏の陣で勝者となった徳川方が隠された豊臣の膨大な財宝を探し求めて、焼け落ちた天守台の跡を徹底的に掘削し破壊尽くしたため、新築する天守台の用には立たなかったのではないかと推測する。(大阪城落城後に金銀50万両が徳川幕府に没収されたと伝えられる。)
【難波宮の夢物語】
大阪というと城下町と商人の町というイメージだが、今から1370年前に短命ながら「難波宮」という都があったことはあまり知られていない。最近の発掘調査で大阪城の周辺にあったことが判明したという。大阪に在住する会社の先輩N氏がOB会報に投稿された「古代に遊ぶ〜難波宮を中心に〜」を読ませていただき、いつの日か難波宮の夢を辿りたいと願っていたので、大阪城に出向く際にぜひ難波宮跡にも立ち寄ってみたいと楽しみである。
ところでなぜ飛鳥時代に大阪難波に都が遷されたのだろうか。その背景を少し長くなるが触れてみたい。推古女帝の次の舒明天皇が641年に皇嗣を定めぬまま没すると、皇位継承者に古人大兄皇子と中大兄皇子(いずれも舒明天皇の子)と山背大兄皇子(聖徳太子の子)が三者鼎立していたため、皇嗣決定までの中継ぎとして舒明天皇の皇后が即位して皇極天皇となった。翌年に蘇我入鹿が山背大兄皇子を斑鳩宮に襲って妻子共々自殺に追い込み、645年に中大兄皇子と中臣鎌足が板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺する(あの大化の改新である)。
この事件で皇極天皇は譲位を決意し後継に中大兄皇子を指名するが、中大兄皇子は異母兄の古人大兄皇子(蘇我馬子の孫)ではなく皇極天皇の弟を推挙して孝徳天皇が即位する。古人大兄皇子は出家し吉野に入るが、謀反の疑いで惨殺されてしまう。わずか5年の間の、皇位をめぐる皇子たちの悲劇である。
この悲劇の末に即位した孝徳天皇が飛鳥から難波に都を遷すのである。難波遷都の理由について日本書紀は触れていないが、陰険で血生臭い皇位継承争いに汚れた飛鳥宮から逃げ出したかったのだろうか。
孝徳天皇は難波に遷都して壮大な宮殿を完成させ、大化の改新と呼ばれる公地公民制の中央集権的行政機構を構築し租庸調の税制を定めた革新的政治を推し進め、難波津と呼ばれた港から遣唐使を派遣するなど海外に向け開放的な外交を展開する。しかし宮殿完成の翌年に皇太子(中大兄皇子)が都を大和に還そうと申し入れて、先帝(皇極)・皇后・皇族・官僚を引き連れ飛鳥に帰ってしまう。不承知の孝徳天皇は難波に残り、翌年に一人寂しく難波宮で崩じた。かくして難波宮は僅か9年という短命な都で終わった。≪難波のことも夢のまた夢≫である。
ついでながら、孝徳天皇の崩御により先の皇極女帝が重祚して斉明天皇となり、孝徳天皇の皇子の有間皇子は中大兄皇子に謀反の疑いで捕らえられ絞首されてしまう。万葉集に有間皇子が訊問のため護送される途中で詠ったという歌がある。≪磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば また還り見む≫“磐代(和歌山県南部町)の浜で松の枝を結び合わせ自分の無事を祈るが、もし幸運にも命あって帰路に通ることがあれば、また見られるだろうなあ” 死罪になるかどうか不安な中にも、無実だからと生への僅かな望みを持とうとする悲壮な歌である。皇位継承の渦に巻き込まれた皇子たちの悲劇はまだ続くのである。
【大阪なにわの夢の跡を訪ねて(10月29日(土))】
午前10時前に埼玉の自宅を出立すると爽やかな秋風と晴れ渡る秋空に大阪の曇天予報も大丈夫そうである。新幹線の車窓から初冠雪の消えた富士山の雄姿を仰ぎながら、応援同伴の妻と35年前になる冨士市での社宅生活を懐かしんだ。新大阪駅の乗換えでエスカレータの右側に並ぶ列に驚かされた。東京は左側なのに。東京への大阪人の反骨精神の表れなのだろうか。
大阪城公園駅に降りると、周囲の森は色付き始めて、数本のイチョウが既に黄葉しており、明日のマラソンでは黄色一色になった銀杏並木の御堂筋大通りを走れるかもしれない。小春日和の陽気に誘われて公園内の十月桜が可愛い八重の花びらを広げていた。野球場を通り抜けると広大なお濠の向こうに、高い石垣に聳える五層の天守が現れた。大阪城とは2度目の対面だが、10年前の初対面では大阪出張帰りに立ち寄り慌ただしく記念写真を撮っただけ、改めて対峙すると、あたりを睥睨する巨大な城郭の威容と黄金に輝く鯱や大屋根の装飾の煌びやかさに、すっかり圧倒されてしまった。まさに太閤秀吉の城である。内濠を半周して西北のポイントから巨大な石垣群に聳える天守の景観にカメラを向けた(掲示の写真)。私のランニングザックに「大阪マラソンを走られるのですか」と声を掛けられた。富山から来られたという二人と明日の健闘を誓い合った。
大阪城天守閣は、昭和6年に大阪市民の寄付金150万円により鉄骨鉄筋コンクリート造りで竣工し、今年で復興80周年を迎えて、内部は格調高い近代ホテルの美術博物館のようである。エレベーターを利用して最上階から大阪市内を俯瞰すると、近代的高層建築に勝るとも劣らない眺望である。外人宣教師や敵対する諸大名を案内しながら己の威光を誇示し得意満面の秀吉の猿面が浮かんでくる。
各階の展示物の中に、秀吉が肥前名護屋城から妻北政所ねねに「能十番覚え申し候」と演目を列挙した書状があったが、「文禄の役」で朝鮮出兵する最前線の肥前名護屋城に側室淀殿を連れて来て、しかも淀殿はそこで秀頼を懐妊したのだから、大阪に残した妻ねねのご機嫌を取ろうとする秀吉の心根が実に可愛らしい。そして最大の収穫は「大坂夏の陣図屏風」の本物に出会えたことである。福岡藩主黒田長政が夏の陣の落城直前の天守を描かせた6曲1双の屏風で、右隻には徳川・豊臣両軍の陣構えと激戦の様相が、左隻には落城に逃げ惑う人々の悲劇的な様相が描かれていた。右隻の左端に描かれた大阪城天守が昭和大阪城の再建モデルになったといわれるが、落城寸前の天守の窓から泣きながら外を窺う女たちの表情が細微に描かれているという。絵師の熱い思いを感じながらしばし見入ってしまった。
天守閣の北東に当たる豊臣大阪城天守閣跡と思われる場所に足を向けたが、全くその痕跡はない。天守台とその城壁までも破壊尽くされたのでは立て札の立てようもないのだろう。その北側の山里曲輪跡に、炎上する天守から逃げ出した淀殿と秀朝が自刃した場所だという案内板があり、秀吉が城内に山里の景観地を作り千利休らを招いて茶会を催したという安寧の場所で愛妾と愛息が自刃することになるとは、秀吉は思いもしなかったろう。まさに「浪速のことは夢のまた夢」である。
大阪城を後にして南側に位置する「難波宮跡」に向かった。それらしき広大な空き地に踏み込むと、若い警備員が寄って来て「どんなご用ですか」「難波宮跡を探しているのですが」「ここは私有地です。退出して下さい」。え、難波宮跡地が私有地になってしまったの? 妻が、もうひとつ通り向こうじゃないの、に大通りを渡ると、確かに難波宮史跡公園の看板があり笙の音が聴こえて来た。200M四方の広大な芝生公園に造営されて、ここであの大化の改新が施行されたのだろうか。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記され、言葉では言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿だったという。中央に高さ2M程の基壇があり大極殿を復元したものらしい。上ってみると40M四方の真ん中で若者が4人、麻雀卓を囲んでいた。あまりの不敬さに言葉を失ったが、これが許されるのが大阪なのかもしれないと一人合点しながら、この宮殿に立ち目の前の港から遣唐使船を送り出す孝徳天皇の遠大な構想に夢を馳せた。あまりの革新さに皇太子や皇后たちが飛鳥に去ってしまい、一人寂しく難波宮に残された孝徳帝の無念さはいかばかりだったろう。まさに≪難波のことは夢のまた夢≫である。
時計はすでに午後5時近くになっていた。谷町4丁目から大阪市営中央線でコスモスクエアに向かった。大阪マラソンのランナー受付は、国際展示場のインテックス大阪である。東京マラソンの東京ビックサイトに匹敵する超モダンな会場は、明日のランナー仲間で大いに盛り上がっていた。明日のフィニッシュ会場でもあり、ゴール後の流れを確認してから宿泊ホテルの梅田に着いたのは午後7時を過ぎていた。フルマラソンの前日なのに、いつもの欲張りな歴史探訪で歩き過ぎたようだが、こんなマラソン旅行があってもいいだろう。










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真田幸村の真田丸がここなんだよ……と夫が楽しげに話してくれました。
確か、こんなところまで大阪夏の陣の被害があったのかとそんな案内も観たような記憶があります。
資料館か何かで見たのかもしれませんが……
大阪城落城は、淀殿と秀頼の悲劇と共に、戦国の一つの華ですよね。
もう一つ、難波宮のお話。
ちょっとずれてしまいますが、四天王寺、聖徳太子建立のお寺です。
実は、私は、聖徳太子を主人公にした、山岸涼子のマンガ「日出る処の天子」のファンでして……
蘇我入鹿の父蝦夷と太子の若かりし頃の交流を大胆に扱っています♪
大化の改新以後になると額田王が絡んできたり、有馬皇子の悲劇があったりと、これもまた歴史好きにはたまりませんよね。
万葉集の歌とと共に、少女の頃に夢中になりました。
今日の大阪城の広大なお濠が、秀吉の作ったものとばかり思っていましたので、秀吉びいきの私はショックを受けてしまいました。
釉さんは少女時代に飛鳥ロマンを極めておられたようですが、国語大嫌いだった私は、古希近くになって、万葉の世界に魅せられています。