五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

愛を信じていたら「時は来る」

2012年05月07日 | 第2章 五感と体感
人の湧き出す感情には意味があります。

行動にも意味があります。

でも、自分の湧き出してくる感情や行動、考え方に「これには意味があるのだ」と、常に冷静に受容することができたら、人は怒ったり泣いたりしないはずです。

或る人に対して、その人と関わる他者の解釈の思い込みが強いあまり、余計な神経をつかって、他者否定することも、案外自分の考え方と湧き出す感情の傾向に、何らかの防衛機制があるから余計にストレスを溜めているということもあり得るようです。

物凄い怒りの感情が湧き出してきたとき、自分の日常のストレスと今の感情がどのように関連しているかをほんの少し意識化してみると、沸騰しているこの感情が、沸騰するまで沸き立たせる必要が自分にとってあるか、吟味することができると、多少の落ち着きが自分に訪れるかもしれません。

自分自身が愛を信じていれば、必ず良い方向へ変化していくようです。
ただ、幼い頃から愛し愛されながら自分のアイデンティティを統合していくことをしてこなかった人との関わりは、難しいかもしれませんが、大抵の人は愛を体感の中に持ち備え、普遍的な愛を自分なりに解釈しているはずです。

他者との関わりから自分の心に起こる異変は、他者を変えようとするのではなく、まずは揺らいでいる自分をどうするかという視点に立った方が、手っ取り早いはずです。

相手を無理やり変える事はできません。
でも、何かに気付いた自分であれば、自分自身概念を再構成することはできます。

自分の概念が変容してくると、あら不思議、相手も何か変わってくるのです。

自分を卑下することなく、反省しすぎることなく、自分のせいだと思う事無く、「私は私」で、堂々と歩んでいきたいものです。

普遍的な愛を信じていると、「時は必ずやってくる」と私は信じています。

それと、自分が何か(誰か)と戦う時、戦いに勝ち目があるか、相手にされないか、それとも負けるか、或る程度予測ができるのであれば、闇雲に戦うのではなく、自分が予想する結果を冷静にイメージした上で、戦い方を吟味することも必要かもしれません。

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新緑の久良岐能舞台

2012年05月06日 | 第2章 五感と体感

photo:久良岐能舞台

雨上がりの朝、久良岐能舞台の山門をくぐると、水を含んだ土と草木から蒸気が立ち、青々しい新緑の香りに迎えられました。

ありがたいことに年に数回、能舞台に立つ機会を持たせていただいています。このような機会を惜しげもなく与えてくださる師匠に恵まれ、本当に私は出会いに恵まれているなぁと、しみじみと思います。

舞台に立たせていただくごとに、色々な実感が湧いてくるのですが、出来はまだまだとしても敦盛クセを舞うのが3月に続き二回目とあって、謡いの曲想と自分の所作が繋がることを意識出来たように思い、舞い終わった途端、「次へ」の情動が不思議と湧いてきたのです。あやふやな所作がクローズアップされてきたことで、ギリギリまで練習したのですが、あやふやなことがあやふやであることを気づくことができたのも、私にとっての進展かもしれません。
能を始めて5年目の春。ようやく一歩歩んだ心地になりました。

能の出合いは、中学生の頃、毎週日曜日の早朝にNHKで放映していた能楽です。日曜日、家族が誰も起きてこない早朝にリビングで一人能を観る事が恒例でした。自分でチケットを購入できるようになった学生の頃から能舞台に足を運ぶようになりました。美術を学びつつ、自分の興味は西洋よりも東洋に向き、曼荼羅を追い求めてインドやネパールを旅する中、その頃から、仏教講座を一般に開講する所が出始め、私なりの学びをしてきました。
段々と能の装束や日本の和室文化のしつらえが、私の身体に沁み込んでいることを改めて気付くこととなり、掛け軸や屏風を作り自分の作品をはめることで、自己表現を行ってきました。いつしか、表具の美しさの虜になってしまうわけですが(笑)

謡曲を謡いたいという気持は、20代の頃からありましたが、友人が習い始め「一緒にどう?」という言葉を掛けられたのは、それからとうに20年以上過ぎた時でした。その友人は、足を突っ込む前に止めてしまい、結局私の方が入門。何かに出合うというのは、こういくことかもしれません。

「自分のやりたいことを選んでいくこと」も「やらざる得ないこと」も、どちらにしても成りたい自分を自分が作り上げているようです。

「人は成りたい人に成る。」
という言葉に真実味を感じるようになったのも、人生五十年ゆえの我が感情なのだと思うわけです。

お金があろうと無かろうと
環境に恵まれていようといまいと、

やっぱり、「人は成りたい人に人は成る」ことは嘘ではなさそうです。

あれが欲しい、これが欲しい、
これがやりたい、あれがやりたい、、、

生きていればこそ、です。

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鯉のぼりに思う

2012年05月04日 | 第2章 五感と体感
五月五日は子供の日。

我が家も小さいながら鯉のぼりを毎年はためかせていました。
子供が小学生くらいまでの話です。

先日の東北旅行では、庭に大きな鯉のぼりが泳いでいる風景をあちらこちらで目にしました。

連休中、糸の切れた凧のように動き回る息子を垣間見ながら、昨日だけは夜家に居るのを狙って、菖蒲の葉を湯船に入れました。
菖蒲湯は毎年欠かさず、行います。何となく、毎年続けている風習を怠ると悔いが残るように思い、続けているわけです。

昔から伝わる伝統行事は、いつしか歳時の顔となり、巡る季節の象徴となり、それぞれの家庭の暮らしの中に根付いていきます。

さすがに子供も成長し、ここ十年は鯉のぼりを出していませんが、路を歩き、鯉のぼりがはためく様子を眺めると、その家のお子様の健康や行く末を自ずと祈る気持ちが湧き出してきます。

この国の行方を祈ることと同じかもしれません。

子供の将来を考えてこそ、この国の行方が明るくなるように思うのです。

子供の日。好き一日でありますように^^/

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まっすぐ見る

2012年05月04日 | 第2章 五感と体感
人と話す時、相手と向き合い、目を見つめます。

大抵、信頼関係が結ばれていると、互いに目を見合いながら会話が進んでいきます。

人と話すと時、目を見合うのが当たり前のことだと思っていたのですが、いつものように目を見て話をしようとすると視線を避ける人もいれば、まっすぐ相手の目を見れば見るほど相手の心の中に防衛機制が広がってゆくのを感じる事もあります。

まっすぐ見ること
まっすぐ見られること

確かに、私自身も自分の中に何らかの防衛機制が働いていると、相手の目を見ることができない時があります。

傾聴する際、相手の目を見つめながら、湧き出る防衛機制を利用することもあります。そうすると、感情転移的な現象に遭遇したり、言い訳になったり、子供時代のことを話し出したり、話題を変えられたりすることがあります。その人が話したいと思った内容やや湧き出した感情には、必ず意味があるのです。

それらを否定もせず肯定もせず、下手なコメントは一切言わず、ただただ聴いていきます。

そのような状態が少し続いていくと、いつしか目を見て話をしてくださるようになっていきます。

数分でまっすぐ見てくださる方もいらっしゃれば、数か月かかる方もいらっしゃいます。
でも、まっすぐ見られることに何らかの防衛機制が働き続けていると、いつしか私から離れていきます。

「この人と話したい」という情動が湧いてくると、自然と目と目が合うのです。

人との出会いは一期一会だと思っています。出会った方々と交わす言葉は尊いものです。

だからこそ、まっすぐ見る…という行為は、基本中の基本だと思っています。

他者との関わりの中で、自分が吐き出す言葉には、何らかの傾向があります。自分の傾向は、一体どんな防衛機制と繋がっているのか、そのことをある程度自覚しながら、目と目を合わせていきたいものです。

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子供が口を噤む

2012年05月03日 | 第2章 五感と体感
親子関係において、子供が言う事へのコメントが手厳しかったり、いちいち否定したり、社会の批判を事あるごとに子供にぶつけたりしていると、段々子供は親に話をしなくなるようです。

私自身がそうでした。
平素、親が子供に発する言葉は、できれば、自己肯定他者肯定でありたいものです。

親が毎日不平不満だらけの言葉の連鎖で生活していると、何かが起こった時に、子供は親の言葉に耳を貸そうとしません。「どうせ…」という気持ちが先立ち、愛されていない自分だと自分自身を卑下していくのです。

自分を批判されるだけでなく、社会の事まで批判されると、聞いている子供はたまったものではありません。

言う前に口を噤んでしまうと、言いたい事が上手く言えなくなり、そのうち黙っているほうが楽になります。
黙ることで楽が続けば良いのでしょうが、そんなことはありません。他者に自分のことを聞いてほしくても、そのまま受容されないことへの不安感が高まり、ますます口を噤んでいきます。

私自身、親に対しては大人になっても自分の気持ちを素直に伝える事が未だに苦痛を感じます。或る程度言いたい事が言えるようになったのは最近です。よくよく考えてみると、言いたい事が言えるようになるまで、両親が生きていてくれていることは、有難いことなのです。

親子とはそういうものだ…、と諦める前に、なぜ我が子が自分に対して口を噤むのか、親である自分の対応や平素言葉の傾向を振り返ってみることも、何らかの気付きをもたらすかもしれません。

なんでもかんでも親に話す子供よりも、口を噤む戦術で親からのストレスを交わす子供のほうが、生き延びる力を蓄えているかもしれませんが、それは、人それぞれの解釈次第です。

思春期の子供達との関係性において、自己肯定、他者肯定で居られる大人の存在は、子供にとって自分を見ていく鏡の役割となっていくようです。

連休が終わり、中学高校と、新しい環境に慣れてくる反面、疲れも出てきます。
「最近のお母さん、やたらと優しい、、、文句ばっかりじゃなくて、ちゃんとうんうんといって自分のことを聞いてくれる…」と、子供が思うくらいの気持ちがあって欲しいものです。
気を許して何かを言いだした子供の梯子を外さないことは、もっと大事なことだということを忘れずにお願いいたします。

そのためには、「自分自身の湧き出す感情の傾向」と「自分自身が口に出す言葉の傾向」を静かに見定めてみる余裕を持つことのほうが先にやらなくてはならない作業かもしれません。

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東北の旅・松島

2012年05月02日 | 第2章 五感と体感
出会った人々との会話が印象深い今回の東北旅行でしたが、強く心を突いたのは、津波や原発事故のことでした。

平泉の中尊寺で、膝を庇いながら階段を下りる母に声を掛けてくださった親子三代のご家族は、磐梯山でお寿司屋さんを経営されていらっしゃるそうです。原発事故以来、観光客が少なくなり大変だし、陸前高田に住む親戚が津波で亡くなり、今日は法事の帰りなのだと説明してくださいました。確かに東北道のサービスエリアでは、喪服姿の方々が目につきました。

松島のホテルで夕食を共にした親戚も名取市の単身赴任で住んでいる家は大丈夫でしたが、経営する会社を移転せざる得なくなり便利な青葉区に昨年秋に引っ越し。
名取市の津波被害の様子を聞き、復興のために色々な活動をしていることに希望を感じました。

旅の最終日は、観光を復活させた松島を巡りました。観光船もこの連休ですべてのルートが再開したようです。
松島沿岸は、津波の被害には遭いましたが、他の地域に比べると、屋並みも以前の姿が残っていて、瑞巌寺の参道の杉木立ちもほぼ海水に浸かったそうです。でも枯れた杉は見当たらず、荘厳な風情がそのままの形で守られています。
お店は、一カ月ほど前に再開したところが多いようです。泥をかき出す作業から始まった復興の話を聞かせていただき、観光客は、その話を聞かなければ、何事も無かったかのように思うくらい元に戻っていると言っても良いと思います。

初めて松島を訪れた私は、説明されない限り美しい風景がそのまま残っているように見えました。島々が沿岸を守ったのでしょう。三陸海岸の沿岸を走り、一月に訪れた山元町を考えると、奇跡のように思います。

旅の締めくくりは、松島の五大堂でした。沿岸から赤い橋を二つ渡ると小さな島に御堂が建っています。坂上田村麻呂が建立した御堂です。「よくぞ無事だった!」と称え、しみじみと海を見渡す観光客の姿を見ながら、観光地の醍醐味がこれなのだ、と同じく観光客の私も人の戻った観光地にエールを送りたくなりました。
五大堂で海を眺めながら美味しそうにアイスクリームを食べている真新しい制服を着た中学一年生の男子に「どこから来たの?」と尋ねると、「南相馬から!」と嬉しそうに答えてくれました。どこにでもいる悪ふざけの生徒がケラケラと笑いながら歓談している姿に、私達でなく周りの観光客も「そうか…」と、言葉を詰まらせていたことも、旅の思い出となりました。

陸奥を守ろうとする坂上田村麻呂が、蝦夷征伐の魂の安らぎを祈って清水寺を建立したと聞いています。
東北の地を守り、復興していく若い命に五大堂で出会う事ができたのも何かの縁だと解釈しています。
南相馬の中学生君達、満願の笑顔と楽しくてしょうがない笑い声に、私はとても元気を頂きました。
ありがとう!

ゴールデンウィーク後半にも多くの観光客を期待している東北の観光地。行って、観て、聞いて、話して、感じたことをこうやって伝える人が一人でも多く居るよう願いつつ、私も小さな砂の一粒の呟きとして、何かに繋げていくことができればいいなと思います。

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東北の旅・三陸の入り江

2012年04月30日 | 第2章 五感と体感
遠野から松島までは180キロくらいの道のりです。
「岩手は大きい」ということを解っちゃいるけど、解っていないのがよそ者の甘さです。遠野を発ち、松島のホテルまで4時間の走行。
遠野から陸前高田に出て、そこから気仙沼、南三陸、石巻を経て松島へ。
沿岸の道路は、復興のための要であることをひしひしと感じさせていただきました。

父がダムや河川の設計者だったことで(いや、本人はまだ現役のつもりでいる??)、この東北の地は父にとっては故郷と同じくらいの思いがあり、故郷の東京よりも長く住んでいるので、父にとっては故郷かもしれません。今回の旅は変わり果てた風景を見るのが辛かったようで、母の喜寿を祝うための旅だと言っても、「私は行かない」ときっぱり断られました。
そのようなことを胸に秘め、テレビに映る主要の市町を本当に自分の目で目の当たりにした時、胸の奥から哀しみの体感が湧き出しました。仙台空港から山元町のあたりのまっすぐな沿岸の光景とは、また違うものです。道路を走り、山を越え、次の入り江に差し掛かるときの虚しさは、言葉で表せるものではありません。根こそぎ失われたものの以前の風景を知らない私は、父が思う愛する土地であるからゆえ行くことのできない怖さが、理解することができました。

陸前高田の一本松は、山側から海に降りていく勾配から見えてきます。遠くから見ると、枝の削げたひょろひょろとした幹が、自分の身体をくねらせ、一所懸命に生きている姿のように感じます。「ほんとうにほんとうによく耐えたね、」とそれぞれに呟き、車で走る中から自ずと手を合わせる私達は、段々と無口になり、ただただ入り江の村や町を眼の中に入れました。

現場を見て、身体で感じることは、見ないで想像していることとは有るか無いかの違いくらい違うことを改めて思い、生活を営み暮らしている人々が諸々を再構築していくにあたり、きっとその土地の風土が人々を深く助けていくのであろうという思いも湧いてきました。

見たことは、今後の私のありようにも影響していくことは確かなようです。

そして、大震災の被害で会社を移転した親戚と宴を開き、この一年の慰労と今後の成功を祈って、松島の夜は更けたのでありました。

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東北の旅・遠野

2012年04月29日 | 第2章 五感と体感
数十年前から行きたいと思っていた場所にようやく念願叶った今回の東北の旅です。
平泉を巡り、二日目はいよいよ遠野へ。

東北自動車道を北に上り花巻から右に入り、一時間くらい走ると山に囲まれた大きな盆地に出ます。柳田国男の「遠野物語」は、私が心理療法を学ぶにあたり、教科書のような存在なのです。

遠野の言葉で語る言い伝えの話は、現在生きている人が、人生の先輩から聞き伝えられ、さらに後世に伝える「伝承の宝庫」と言っても過言ではないでしょう。
その伝承をそのまま聞き取り本にしたのが遠野物語です。

カウンセリングも常にその場に居合わせ、ありのままを傾聴することから始まります。そして、ありのままを傾聴することで終わります。
傾聴している私達は、何もしていないように見えますが、実はその作業の中には宇宙のように広い心模様と歴史と文化が裏打ちされている「壮大な一人の人」と向き合う事を意識します。そのためには、人を指導する勉強ではなく、私自身に柔軟性と包容力を養わせなくてはなりません。一方の思い込みで他者の話を聞くことがカウンセリングではないからです。

「神話(言い伝え)を大切にしない民族は滅びる」という言葉は、宗教心理学の学びの中から得た私の大きな矛先でもありますが、ほんとうにそうだと思います。

見たもの
聞いたもの
体感したもの
そしてその土地に宿る宗教感、風習
それらを、そのまま身体で感じることが、私の修行であると考えています。

そして、そのまま身体で感じたことに対して自分に湧き上がる感情と思考が、私自身の学びを進める道具となります。

遠野に立ち早池峰を拝みたかったのですが、あいにくの霧雨で白い雲に覆われ残念でしたが、河童淵の小川で釣竿を持ち、ガソリンスタンドではキツネに出会い(本当のキツネではなく道を間違えて教えてくれた女性の定員さんは実はキツネだったと思い込んでおります(笑))、朽ちかけた早池峰神社の鳥居に立ち、農道から見渡す田畑と民家に温かな人の営みを感じ、兎にも角にも、空気を吸う事ができたことに、大きな満足感を得ることができました。

遠野の伝承園の古民家で民芸品を作り販売している大正13年生まれのおばあちゃんの足腰の強さと細かい手仕事の正確さに感心しつつ、生涯現役の強さと誇りにあやかりたく、座り込んでお話を聞かせて頂きました。

次回は早池峰神楽を目当てに、そして次こそは早池峰の山を望むことができますように…。

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たまプラーザの勉強会

2012年04月28日 | 第2章 五感と体感
昨日は、東急セミナーBEたまプラーザの「生き甲斐の心理学」を学ぶための第一回勉強会でした。

先日の雪谷教室でもそうでしたが、「生き甲斐の心理学」の「生き甲斐」という言葉に興味を持たれて参加される方が多くいらっしゃり、大変嬉しく思いました。

私達NPOの趣旨は「一般の方々にカウンセリングの理論を教育普及すること」です。まさに、カルチャーセンターは、その役割を担うための条件に合っている場所であると思っています。

公共施設を安価で借りて、安い料金で勉強会を開くことも大切なことですが、営利を追求しないNPOが商業施設と共存し、互いの長所を補い合っていくことは、NPOを設立した時からの私の夢でもありました。
特に東急セミナーBEさんは、東急沿線の駅に隣接し、沿線に住まう方々の文化・芸術の発信地としてのメセナ的役割を目的の一つとしています。スタッフの方々もとても爽やかで素敵な方々が揃っています。

勉強をしたい方々の選択肢も広がることは、それぞれの方々の生活範囲を精神的に満たすことになり、需要と供給の関係性が親密になることにも繋がっていきます。

これからの時代、このような工夫がとても大切になっていくように思います。

メセナと資本主義とNPOの経済効果及び経済のありようの図式を語り出すと「生き甲斐の心理学」から話題がずれてしまうので、このへんにしておきます(笑)

話題は戻り、昨日の勉強会は、自己紹介の中で、どのような思いでこの勉強会に参加しようと思われたかを皆様と和やかに聴かせていただきました。暮らしの中で生かしていくカウンセリングがいかに自分自身の生き甲斐に繋がっていくかは解って頂けたと思います。

自分の事を皆様に伝える際、誰からも否定も肯定もされず、暖かい眼差しで黙って聞いてもらえたとき、話をした自分はどんな感情が湧き出すか…。そのことをひっそりと体感していただきたく世話人としては努力させていただきました。

自分の生育史は宝物です。その宝物と共に私達は生きています。自分自身の湧き出す感情や考え方を素材に、それぞれの方々が個々にカウンセリングの理論と繋げていくことで、学びを身体と心で感じていただけると幸いです。

次回の勉強会も和気あいあいと楽しく時を過ごさせていただきたいと思います。

皆様との出会いに感謝しております。
たまプラーザのスタッフの皆様との出会いにも感謝しております。これからよろしくお願いいたします。

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義経との縁

2012年04月27日 | 第2章 五感と体感
ここ7年ほど、思っていることがあります。
それは、私が思う思わざるに関わらず、何故か義経がいつも近くに居るのです。

兄頼朝に鎌倉入りを拒まれた腰越・万福寺と義経を祀る藤沢の白幡神社に仕事場としての縁が生まれ、定期的に通っています。
特に白幡神社は、私の気合の場所でもあり、仕事前には必ず白幡神社と向き合うCaféで珈琲を頂き、心身を整えます。

今回の平泉の旅は、何となく御縁が繋がった義経に対しての思いも強く、平泉という場所の風土を身体で感じたかったことも訪問の理由の一つです。

何年か前に鞍馬寺を訪れた時は、木の根っこが張った山道を登りながら身軽な九郎義経が飛ぶように山を駆け巡ったであろうことを想像し、奥の院でしみじみと祀られた石を礼拝しました。

鞍馬寺から鎌倉腰越、藤沢、そして、平泉訪問は私の心の中では義経への思いの結願といっても相応しいかもしれません。

中尊寺と毛越寺を訪れた翌日の小雨降る中、いよいよ高館義経堂(たかだちよしつねどう)に。

狭い階段を上り、山の尾根に添った道に立つと、目の下に北上川が柔らかな「くの字」で滔々と流れているのが見えます。川の向こうには程好い高さの山が聳え、夏は大文字が焼かれるそうです。

数年前に義経を愛する方々が藤沢の白幡神社から、この義経堂まで歩いて来られたことを聞きました。

兄を慕いながらも、それが叶わなかった義経の不憫さが、この北上川に義経の魂と共に記憶されているようにも感じ、京都や鎌倉で命を奪われる最期よりも義経は恵まれていたかもしれない、という思いが私に湧き出てきました。
藤沢から平泉まで歩かれた方々も、きっと何度もそのことを思ったに違いありません。

藤原三代から芭蕉が旅する時代と今現在は、多分高速道路が出来たくらいの違いで、地形的にはほぼ変わらないことを思うと、芭蕉がこの高館で詠んだ「夏草や兵どもも夢の跡」の句が、ジワジワと体感として伝わってくることに深い深い喜びを感じました。

歴史の出来事の地層のような重なりを知ることが、現代を生きる私達の醍醐味であろうし、日本人の持つ「もののあわれ」の原型に触れることが私達のアイデンティティをより強くしていくようにも思います。

私自身、義経に触れる環境はまだまだ続きますが、義経を追って、方々を旅出来たことに達成感を得ることができました。
まさしく、私にとっての義経詣の結願です。

北上川のあの風景を観たことは、生涯の宝物になりそうです。

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東北の旅・平泉

2012年04月26日 | 第2章 五感と体感
念願叶い平泉を詣でて参りました。

桜咲き始めの平泉。
ゴールデンウィークを控え、それほどの混雑も無く悠々と境内を散策してきました。

中尊寺には17の寺があり、毎年3回、その寺の僧侶が集まり中尊寺内の白山神社の能舞台にて能(喜多)を奉納します。
(奉納能日日程:5月4日5日,8月14日,11月4日)

囃子方、地謡に至るまで、すべてを賄うそうです。
藤原三代の風格と東北の地で生き抜く人々のチームワークと結束の知恵と言うべきでしょうか。現代に至るまで守られいる風習から、850年に慈覚大師円仁が開山した以来の文化の層の厚みを感じます。

世界遺産に制定される前に世田谷美術館にて大きな展覧会がありました。そこで東北の人々の持つ技術と心の繊細さに改めて感嘆し、一度は行かなくちゃ人生もったいない。。。と、思い続けてきました。

細やかな手先の器用さは、東北の気候風土を象徴しているように思います。大きな伽藍に宇宙のスケール感を求めるものとは違い、コンパクトな出来上がりの中に凝縮した思いを入れ籠める手法と精神は見事なものです。杉木立の中尊寺の寺社を歩きながら深く思い至りました。

「和」という言葉の中に秘められた唖吽の呼吸のようなものが、根付いているといっても言い過ぎではないかもしれません。

毛越寺(もうつうじ)の境内は、4時過ぎに入館したお陰で人もまばらで、山から引かれている鑓水から注がれる池に平安の都が憧憬として映り、天国浄土を歩いているような心地になると同時に、学び舎の址に佇むと多くの学僧がこの地で豊かに学問に集中できたのであろうと羨ましくもなり、何となく東大寺の学び舎址と同じような思いが湧いてきました。石礎の上に両足を乗せていつまでもそこに居たい情動が起こったのは、奈良の都と平安の都が両方混じり合ったような感覚がきっと身体の中に宿る記憶が懐かしさを呼び起こしてくれたことに違いありません。

西の都より少し早い夕暮れ時に、白い鹿に合いそうな予感を含みながら境内を後にしました。
足元に白い毛でも落ちていないか、見渡しながら^^…(慈覚大師が落ちていた白い毛に気付き、出会った白鹿がもうつう寺の名の由来だそうです)

明日は義経のお話^^を書きます。

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「生き甲斐」につられて…

2012年04月21日 | 第2章 五感と体感


昨日は、東急セミナーBE雪谷での「生き甲斐の心理学」講座でした。
4月なので、初めて参加される方々もいらっしゃり、色々な「ことのは」に触れ、楽しい時間を過ごさせていただきました。
昨年の10月に開講してから半年が過ぎ、今回は7回目となりました。

NPOの活動とカルチャーセンターは、とても仲良しな関係といえます。雪谷の東急セミナーBEは、駅の真上にありますが、住宅地の広がる雪谷大塚は、電車に乗らず通われる方々が多く、地域密着型として近隣の方々を大切にしています。
このようなコンセプトが、一般市民を対象としたNPO活動と息が合うのは当然のことでしょう。

地元中心にちらしを配るそうですが、駅に行けば自然と東急セミナーの入口が目に入り、何となく「どんなことをしてるのかなぁ〜」と講座のカリキュラムを読んでみると「ちょっと覗いてみようかな〜」という気持ちが芽生えてくるようです。

今回は「生き甲斐の心理学」の「いきがい」の文字につられて体験された方が数人いらっしゃいました。

ありがたいことです。

暮らしの中に役立つ心理学講座は、背伸びすることなく、参加者の方々と自分の経験を大切にしながら自分をみていく勉強会です。「自分をみる」ことは他者との関係性に深く関連しています。

皆様と楽しく、朗らかに笑いながら、次回も講座を開きたいと思います。

来週金曜日は、いよいよ「東急セミナーBEたまプラーザ」の講座が始まります。

たまプラーザは雪谷とは違い、最近リニュアルした大きな駅です。
こちらも駅の真上にありますので、雨に濡れる事はありません。お店も充実していますので講座帰りに色々と寄ることもできそうです。
新たな出会いと繋がりを今から楽しみにしています。

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質問に答える時の傾向から

2012年04月20日 | 第2章 五感と体感
「〇さんは、今、△の事に関してどう感じていらっしゃいますか?」

と、質問したとします。

△の事に関して感じていることだけの「答え」を求めているわけですが、話しているうちに△の事よりも遠い将来の事、社会の様子に関しての話題へと移ってしまったり、ついついいつも気に掛けている事の思いが表出されたり…

たいてい、的確に答えを話してくださる方は少ないように思います。

でも、それが、傾聴の一つのポイントであるように思います。

常に気に掛けている事が、一見関係の無いような質問で言語化されていくからです。

〇さんの中に既に持っているなんらかの答えがあるはずなのに、見えてこない時は、或る程度衛星のようにグルグルと回る同じような話題を聴き取っていく必要があるようです。

グルグルと回っている中から、一つ、二つ、質問する内容は、倫理道徳に縛られない本質的な事のほうが良さそうです。

☆何のために生きているのか?

☆生き甲斐とは何か?

☆自分の心と身体と魂を大切にしているか?

信頼関係が生まれ、暫く話を聞き続ける行程の中で、このような質問をしていくと、はたと、同じことの繰り返し言葉が止まる場面に出合ったりします。

私達の心の中には大きな宇宙が広がっているのですから、自由に羽ばたきたいものです。

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「語る」を聞く

2012年04月19日 | 第2章 五感と体感


ケルトの吟遊詩人にしても平家物語を語る琵琶法師にしても共通するのは「語り」です。
物語を語ること、言い伝えのある昔話を語ること、見た事聞いた事を語ることも人の口から発生する声を聞き、聞き手は自分の五感や体感を駆使して想像の世界でそれなりの映像を観ていきます。

他者から聞く言葉の抑揚や旋律は、自分の目で見たことや聞いたことよりもリアルであったりします。情感にも訴えます。

体で感じて、五感で感じて想像することは、現実社会を生きている私達に生きる力を与えてくれるのです。
他者から聞く語りが自分で体験していることよりも、リアルに感じるということは、他者という媒体が自分の現実吟味力を高めてくれるからかもしれません。

人の語りを聞くこと。
人の話を聞くこと。

言葉は「ことだま」です。

自らが受け手になり、「語ること」を静かに聞く時間は、自らの不安感を咀嚼する好い機会かもしれません。

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感情と体感

2012年04月18日 | 第2章 五感と体感
「自分の感情に持て余し、どうして良いのか解らない」という経験をする人は、表現者に多いかもしれません。
だからこそ表現者になったのかもしれないし、それは解りませんが。

自分の感情を言語で上手に操ることが出来たら、感性豊かな小説家になることができるかもしれません。

情動と感情がぴたりとくっついた時、悔いの無い満足な行動となる場合もあれば、「あー、やっちまったぁ〜」と言う事になる場合もあります。

感情ばかりが高ぶり、行動できないジレンマに陥ることだってあります。

日本人は、四季折々移ろう豊かな自然の中に暮らしています。
自分の表情を変えなくても、四季が変わってくれます。

季節がグラテーションのように移ることは、どこか意識の下で変わっていくことに期待する自分もいるようです。
時がくれば、いつしか好き方向に向かうであろうと思い行程に身を置く自分が居たりします。

感情と体感は、自分の住まってきた身近な風情や風習、つまり環境によって育てられていくようです。
もともと持った素養も大事でしょうが、当たり前だと思っている自分の習慣に目を止めてみると、「自分の個性」に美しさを見い出すことができるかもしれません。

昨日の四ツ谷勉強会では、そんなことを想いながら楽しい学びの時を過ごしました。

昨日お話した「チベットの死者の書」は、「80の自性の分別」の事です。
話は変わりますが、六本木ヒルズの森美術館にて、「エジプトの死者の書」の貴重なパピルス画が一挙に展示されるそうです。物凄く楽しみです。

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