私はキリスト教の牧師でもあるのですが、あまり宗教熱心ではありません。牧師が熱心になると宗教行為に一生懸命になり、教会員にはあまり良い影響をもたらさないと考えているからです。
イエス様の教える聖書の意味合いや神の御心は、私たちが幸せになり、被造物としての喜びを体験して神に栄光を帰することであります。そのためには、人格的成長は欠かせませんが、それに限定すると障害者や子供は不足するということになります。弟子としては、十字架を負い(人々の苦労を自分の身に引き受けて)、神に委ねて生きることが必要になってきます。私は自分自身は献身者として労苦を覚悟していますが、他の人や家族には同じ意識を要求することも期待することも、正しくないと考えています。
イエス様は、幼子を説教の場から遠ざけてはいけない、彼らこそ神の国にふさわしい、と弟子たちを戒めました。子供では説教の意味がわからないので邪魔になると考えた一般的信仰者の考えを覆すものです。これは、障害者にも適用されることです。
キリスト教だけでなく、宗教が繁栄するためには、熱心な信者を確保し、それを奨励することが必要です。しかし、そうしていると宗教に熱心になればなるほど、平安で喜びのある生活や、家族を愛してそのままを受け入れる考え方からは遠くなります。
現代日本は、ストレスの多い社会です。失敗や弱さは責められ攻撃されます。私たち夫婦は、要求の強い人々からは何をしても攻撃されます。医療・福祉・サービス業の人々は、少しの落ち度を痛烈に責められます。そんなことが続くと、ミスがないように生きようとしてストレスが溜まるばかりで、挫折するか、心のゆとりをなくすか、攻撃的な人になるか、あるいは一生懸命働き続けるか、ろくなことがありません。
キリスト教の牧師は、日本では殆ど報われることはありません。経済的にはひっ迫し、信者からは質実・清貧・謙遜であることが要求され、信者の世話や伝道で休む暇もありません。性格の良い優しい牧師ほど、教会が大きくなることは難しいようです。
私は牧師28年ですが、10年目に過労で心臓を悪くし、牧師としての成功や教会の成長をすっぱりと諦めました。教会員に要求することも、信仰者はこうあるべきなどといった教えも止めました。楽しく生き、夫婦仲良く、自分たちのできることをやろう、と悟りました。決して、人の要求に応じようとは思わず、自分の主義主張は貫きながら、嫌な人とは無理に付き合わない、全ての人に好かれようとは思わない、と決めたのです。
すごく楽になりました。私の教会も、自分の自慢話をする人や、宗教熱心な人はお断りです。一生懸命神に仕えて、教会活動を第一にする人は、他の教会に行ったほうが喜ばれるでしょう。千葉福音キリスト教会は、自らの奉仕を人に見せることなく、自ら進んで人に捧げ、奉仕をする人が、たまたま集ってくだされば、それで牧師としては感謝です。そんな教会も、どういうわけか、人が集まり、勝手に成長するようになりました。会堂も拡張し、十字架塔も建ちました。健康であれば自然に成長すると思いますが、あまりそれを期待すると、不健全になります。まあ、ぼちぼち、やっていきましょう。