映画のなかの人が芝居というよりも踊っているように感じたことは多々あっても、映画その全部がダンスに見えたことはあまり無かった。
彫刻、絵画、音楽、詩、それらにしばしば感じるダンス感覚。生き物ならずとも、火にも風にも土にさえ現実風景にはもっと感じるダンスの感覚。
それが何故か、あらゆる風景が記録され動くものが集約されているはずの映画というものに感じたことが、何故かあまり無かった。
だから、この映画にはかなり驚いている。
1965年に制作された、小林正樹監督の『怪談』という映画だ。
非常に奇妙な感動のしかたで、映画ならではの引き込まれ方はむしろ少なく、風景も声もどこか自然でなく、網膜とスクリーンのあいだに一枚の薄いガラス板が張られているような距離感さえある。なのに、あらゆる要素が緊迫感を生み出し合い、破裂しそうな気配を漂わせて、決して完結しない。次々と予感というか奇妙な胸騒ぎを起こしたままフッと消えてゆく。文楽を初めて見た時のショックにも似ている。虚実皮膜の危うさというか、、、。
凄いな、と思った踊りに共通する距離感の狂い、対象との関係性が生まれた途端に壊されまた生まれてしまう目眩のような速度感覚に、襲われた。
小林正樹監督の映画は大抵を観たが、この『怪談』というのだけ、観たことが無かった。
何か特別な感じがする。
彫刻、絵画、音楽、詩、それらにしばしば感じるダンス感覚。生き物ならずとも、火にも風にも土にさえ現実風景にはもっと感じるダンスの感覚。
それが何故か、あらゆる風景が記録され動くものが集約されているはずの映画というものに感じたことが、何故かあまり無かった。
だから、この映画にはかなり驚いている。
1965年に制作された、小林正樹監督の『怪談』という映画だ。
非常に奇妙な感動のしかたで、映画ならではの引き込まれ方はむしろ少なく、風景も声もどこか自然でなく、網膜とスクリーンのあいだに一枚の薄いガラス板が張られているような距離感さえある。なのに、あらゆる要素が緊迫感を生み出し合い、破裂しそうな気配を漂わせて、決して完結しない。次々と予感というか奇妙な胸騒ぎを起こしたままフッと消えてゆく。文楽を初めて見た時のショックにも似ている。虚実皮膜の危うさというか、、、。
凄いな、と思った踊りに共通する距離感の狂い、対象との関係性が生まれた途端に壊されまた生まれてしまう目眩のような速度感覚に、襲われた。
小林正樹監督の映画は大抵を観たが、この『怪談』というのだけ、観たことが無かった。
何か特別な感じがする。