Dance and Art by Sakurai Ikuya:CROSS SECTION*BLOG

ダンスアートユニット《櫻井郁也/十字舎房》発。コンテンポラリーダンスとオイリュトミーのレッスン、ステージ、エッセイなど。

断片:12/24

2016-12-24 | ダンスノート(からだ、くらし)
「舞台」を全力でやればやるほど、次へと渇く。

幕がはねて観客が帰ったとたん、劇場は急にとても暗く広い穴になるのだが、そこにスッカラカンになった身体が残されたまま、底知れない穴のなかで、ここで終わりには出来ない、という気が強烈に湧く。

やれるだけやり尽くす現場にともに皆さまがいられて、その人人人ひとり一人ひとりの中で「終わるわけがない何か」が「始まって」いるか、と思うとき、幕は切れる。

その瞬間に感じた何かを如何に大切にしてゆくか、そこは明らかに「次」の発火点となる。

目覚めよ、という落雷のように、演者の脳の細胞は、拍手や完全暗転に再び叩き起こされて幕切れるのかもしれない。

一つの舞台で出会い得た視線は、踊り手にとって直後の稽古に生きたまま続いてゆく。

劇場で交わった肉体と視線が、内部でそのまま絡み続けて次の踊りを産もうとする。

(ダンスは関係から始まる)

僕はソロダンサーだから踊る相手/関係者としての「客」を強く意識せざるを得ないのかもしれないが、舞台を続けていて実感として、ある。

原点に戻る、という表現があるが、舞台のたびに新しい関係が生まれるのだから、原点もまた舞台のたびに新しく発生する。

(ダンスの身体は「再受肉」を繰り返す身体だ)

演者も観客も生きているあいだにしか「ともにある」ということは出来ないが、生きている限り何度でも「出会い続け」ることができる。

ともに、今を、呼吸し合い、刺激し合う、ということが舞踊には出来る。
今、とは結論のない深呼吸だ。言葉なんかに成り得ないまま、何かが明滅し始めたなら、だから、スグ次を始めるしかない。ピンぼけのまま熱をともに走りたい。

(切断と結合、連続と非連続は、互いに助け合う)

「舞台」は一回一回が猛スピードで終わるが、「踊り」そのものは決して終わらないのだろう。
生きて在るかぎり「まだ始まってさえいないもの」が山ほどあるからだ。

いつも未だ生まれていない「新しいカラダ・空気・時」というものが必ずあるはずで、それを出産してゆく責任というものがダンサーにはあるように、やたら思う。

「からだ」はダンスにとって、すでに在るもの、であると同時に、未だ誕生していないもの、である。

そのうえで、おどる。
「いま湧き、いま躍る、なにか」に、全て委ねて、ゆく。ゆこう。

まもなく新しい年が来る。

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