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多文化の共存~オルハン・パムク

2009年01月10日 18時08分27秒 | 俺のそれ
読売新聞朝刊に「大波乱に立ち向かう」というシリーズがあって、その7回目に登場したのがオルハン・パムク氏だ。共感できる意見が非常に多いのだが、その一部を紹介したい。

(以下に引用)
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 EUがキリスト教ではなく、自由・平等・博愛の精神に基づく共同体であるならば、トルコの居場所はあると信じる。トルコは欧州とアジアの接点であり、西洋文化と東洋文化が反発しあうと同時に融合する地でもある。オスマン帝国時代に多民族・多文化社会を実現した経験を持っている。
 EU加盟は、トルコを真の民主主義国家に変えることにもなるだろう。近代トルコは建国以来、厳格な政教分離を国是としてきた。(イスラム風に)スカーフをかぶった女性が大学に通うこともできないのは、ご存知だと思う。私は、イスラムが政治に介入するのを嫌う世俗主義者だが、トルコの世俗主義は、軍の力に依拠し、その是非についての議論すら認めないという非民主性を持っている。教条的な世俗主義勢力とイスラム回帰を目指す人々との衝突が繰り返され、政治や社会の振り子がイスラム勢力優位に振れると、軍がクーデターを起こすという不幸な構図が続いてきた。この世俗主義はトルコ民族主義と結びつき、少数派の権利を認めなかったため、クルド人の分離独立運動やテロを招来することにもなった。
 トルコがEUに加盟するには、表現の自由や少数派の権利を認めるなど、いわゆるEU基準を達成しなければならない。現に、今の政権や前政権はそのための改革を実施しており、それは、我々作家だけではなく、クルド人の分離独立派にとっても好ましい変化になっている。 
 ただ、EUが文化のモデルだとは思っていない。西洋を文明化社会、それ以外の世界を非文明化社会と見たり、文化に優劣をつけたりすることを私は好まない。文化というものは多極的であるべきなのだ。
 私は16世紀末のイスタンブールを舞台にした小説『わたしの名は紅』で、西欧ルネサンス美術の発明である遠近法とイスラム世界の伝統的絵画技法との間で悩む絵師たちを描いた。遠近法は今や、世界標準となった感があるが、それとは異なる「世界の見方」が今もあると信じているし、それを今後も追求したい。
 作家には、声なき人の声を代弁する義務もある。トルコは階層分化の激しい社会で、貧しい人たちの声は為政者など上流階級に届くことはなかった。小説『雪』で、私は、世俗主義者とイスラム運動との対立に巻き込まれる主人公の目を通し、辺境の町の貧しい人々の悲しみをくみ取ろうとしたつもりだ。
 作家の仕事というものは、文明を比較することではなく、そこに生きる人を見つめることだと思っている。

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うーん、感動した。

トルコの歴史的背景を踏まえながら、イスラムの慣習を持ちつつも、多文化社会への寛容を目指したい、というパムク氏の考えは、よく理解できるものだ。世俗主義の立場を堅持しようとすると、「イスラム排除を厳格に行わねばならない」というような教条的態度が強まってしまう、ということでもある。こういう考えを推進しようとするエリートが、軍部や法の支配層に多いことが、かえって寛容性を狭めてしまう、というジレンマのようなものがあるのだ。

行き過ぎた「イスラムはダメだ」的態度(厳格な世俗主義)は、非民主的な社会を生み、軍が力を持ち、民族主義的傾向さえ強化してしまう、ということだ。少数民族への圧迫(例えばクルド人問題)が、テロや紛争を招いてしまう、と。だから、「~~は間違っている、絶対にダメだ」という主義主張がより強固になればなるほど、人々を押さえ込む力(=軍の力)を必要としてしまうのと、民族主義的指向と結びついて少数民族弾圧や非民主性をもたらすことになる、という諸刃の剣のようなものなのである。これを回避するには、認めようとする考え方や姿勢を持つことだろう。

「キリスト教という宗教があるのですね、そうですか」とか、「イスラム教という宗教があるのですね、そうですか」とか、簡単に言えばそうした態度ということだ。これは「キリスト教なんて絶対ダメだ」とか「イスラム教は禁止だ」とか、そういう一方に偏った主義にならないようにする、ということなのではないかと思う(何でも全部認めろではなく、歴史的・社会的に存在するもの(慣習も含めて)については、ということ。そうじゃないと、ヘンな新興宗教とか詐欺的集団とか、多文化で認めてくれってことになってしまう)。

トルコ改善のチャンスとなるのは、EU加盟だ。EU的価値観というのは、それだけ基本的部分が優れている、ということなのだと思う。長い歴史の中で洗練されてきた人類の最大の成果だと言ってもいいかもしれない。失敗部分もあったし悪を生み出してきたということが事実であるとしても(悲惨な戦争とか覇権争いとか)、人々が自由に意見を言える環境、生命を守る為の社会の仕組み、法を中心とする権力・暴力の枠組み、そういったものが作り上げられてきたことによって、大勢の人々が共に暮らせる環境を生んできた、ということだろう。それで紛争や摩擦がなくなったわけじゃないが、できるだけ小さくするような方向に機能してきたと思う。そういう基盤のない国や地域では、常に命に関わるような紛争が続くか無法地帯のようになっているとか、不安定で過酷な国家しか存在していないであろう。


パムク氏の「声なき人の声」を代弁し、「生きる人をみつめること」が作家の仕事だというのには、心の底から敬服した。そうなのだ。文学の力とは、そういうところにある。理屈や理論に裏付けられたものではないかもしれないけれど、あたかも「生きる人」の目を通して社会や問題や物事を見たり考えているかのように、自分自身(の心)を置くことができるのである。私はトルコ人にはなれないけれども、文学作品の中においてはトルコ人になったかのごとくに見たり考えたりできるようになるのである。


最後にパムク氏の冒頭での言葉を紹介しておこう。

『「無邪気すぎる」と言われるかもしれない。でも、私は、出自や人種、民族、信仰の異なる人々が共存できる社会が理想だと考えているし、その可能性を信じている。』

私もそうだ。信じている。

そして、それを実現している国が日本なのだ、と胸を張って言えるようになりたい。



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