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日本のエネルギー政策について考える~「Post Fukushima」の日本飛躍に向けて

2011年07月17日 13時41分41秒 | 政治って?
何度も出して恐縮だが、福島原発の事故以前から、拙ブログでの考え方はそう大きく変わりはない。
原子力を脱却しよう、というのは、何も事故があったから、というものではないということである。東電を叩きたいから、とか、原発推進派の自民党議員の中に憎い連中が多くいるから、とか、そういう理由ではない。


09年11月>日本のエネルギー政策ついて考える

(以下に一部再掲)

・原子力:

化石燃料に代わって期待されているようであるが、これに問題がないわけではない。日本国内にいくつもの原子力発電施設を持ちながら、稼働率が高いということにはなっていない。核廃棄物の処理問題も解決の道筋はあまり明確にはなっていない。端的に言えば、原子力発電は利用を絶対にダメとは言わないが、自分の町や村に持ってこられたり処理施設を持ってこられるのは御免被るという話は多いのではないだろうか。
例えば今後に発電所を増設してゆくとか、発電量の半分を賄うなどといった目標であると、調達面で外部依存度が高まる上に安全性や処理施設問題などの課題を多く抱えることになってしまうかもしれない。なので、目先のCO2削減ということだけ取り上げれば、化石燃料より「排出量は少ない」ということが事実であるとしても、長期的コストとかその他課題を考えると、決して望ましいものとも言えないのではないか。
(中略)

また、自然災害でよく被害を受けてしまい、復旧作業などが頻繁に必要となるのですし、そうなるとあんまりに高度で高機能、高額な送電網となってしまうと、維持コストがかさむんじゃないだろうか。アメリカとかみたいに、滅多に地震は起こりませんよ、というような地域であると安定的に維持できやすいかもしれないけど、日本でそれが果たして向いているのかということですね。

そうではなくて、もっとスタンド・アローンに近くして、余った電力は各家庭の蓄電池に入れるか、それでも余れば大きな温水器の熱量に変えるとか、巨大で高額な送電網を必要としない方法もあるのではないかな、と。売電よりも各家庭に蓄電池を設置した方がはるかに安上がりなのであれば、その方がいいだろう、ということ。余る発電量がどの程度になるかというのを調べるしかないでしょうけどね。
完全に各家庭が個別に分けられている必然性はないと思いますが、小規模の蓄電所みたいなもので済むなら、それはそれでもいいですし。マンションなんかだとそういう方向に行くでしょう。割と狭い範囲の数十戸~数百戸といった規模で、各家庭で溢れた分を蓄電所に「貯金みたいに」溜めておき、需要量が多くなれば後からその分は無料で使えるということでいいのでは。小グループに分かれているなら、自然災害時に被害を受けても影響は限定的になるんじゃないのかな、とか。



日本のエネルギー政策を振り返る~通産省の国家プロジェクト

(因みに、通産省のリンク先記事が消滅していた。ウチのブログからリンクされると色々と迷惑がられる、ということみたいです)


今年のものもあるが。
やっぱ、再生可能エネルギーが効果的かも



日本の電力・原子力行政の根本が、「やらせ」を基本としてきたようなもんじゃないですか?(笑)
目的の為には手段を選ばずにやってきて、それに政治や行政の権力を使ってきて、その支援としては司法が裁判で国側勝訴を連発してきた、という、まさしく一部特権サークル連中の思うがままにやってきたという歴史があるわけでしょう?
真実を言ってしまうと、反対する人の方が多くなってしまうから、それを封じ込めるには「賢い俺達」がポピュリズムを阻止して、理想の政策を実現させなければならない、ということで、やってきたわけでしょう?
残念なことに、「賢い俺達」と思ってやってきたら、事後的に見れば「存外賢くはなかった」ということが暴露されてしまった、ということなんじゃないですかね。その賢さの欠如が、管理能力のなさの裏返しということでは。もっと賢ければ、これほどの大失態を演じることはなかったし、むしろ危機対応能力とか素晴らしい信頼性と実績として評価されていたのではありませんかね?

いずれにせよ、そういう連中には「任せておけない」ということになったんじゃないですかね。まさに自業自得では。
しかも反省なき連中というのは、賢さが欠如しているものだから、放っておくとまた同じような失敗を積み重ねるということを招くわけですよ。反省しない連中は、そこにも頭が回らぬ程に、賢さが欠如しているわけです。だから、「危ない」んですね。


それと、よく無責任体質の無責任な人が「国が責任を持て」とか言うのを、ニュースなんかでも聞くわけです。
実際には、「国」という仮面を被った特定個人たちがやってきたことだから、誰も責任なんて持てないし取る気もないわけだよ。それを国という仮想体に押し付けているだけ。

自分が主体的に解決の努力をしよう、解決に向けて考えよう、何か行動に結びつけられないかやってみよう、というような方々は、安易に「○○が責任を持て」とか言わないんじゃないですかね。そういうことを平気て言うのは、自分には何らの責任もなく、やる意思も持たない人なじゃないのかな、というのが経験則ですね。

学校祭の準備とかで、クラスで「演劇をやりましょう」ということになって、途中で何かの問題が発生したら、クラスメートの一人が「○○さんがやろうって言い出したんだから、言った人が責任取って下さい、解決して下さい」みたいに言う人がいたりしませんでしたか?そういう人は、自分が方法を考えたりはしないんですよ。自分に責任がないと思ってるから。何にも悪くない、という立場を堅持してるから。そういう人からは、建設的な意見は期待できません。批判か反対意見しか言わない、みたいな人っていますよね?(笑)愚かな野党と同じ、ということなのです。

経済団体の偉い人とかでも、やっぱり「国が責任を持て、国の責任でやれ」みたいに連呼している方がいるみたいですが、そういうのは教育上よくないですね(笑)。政治家でもそうです。
役所の窓口なんかでも、「お前ら、役所なんだから、役所が責任持て」とか凄んでいる人と、何か違いがあるのかな、と思ったりもします。役所でもできることとできないことがあるし、係が違うとできないこともあるし、色々でしょうけど。


いずれにせよ、エネルギー政策の転換を図ってゆくことは、日本にとって必要であるし、経済成長の起爆剤としての効果もあるかもしれないし、新規産業分野の開拓に繋がる可能性もあるし、脱原発依存には悪いことばかりではないはずだ、というのが、拙ブログの立場である。




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