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重農主義に学ぶ

2007年01月11日 21時29分43秒 | 俺のそれ
この前の記事の続きです。

ここを読まないと、よく判らないと思いますので、まず読んでみて下さい。

重農主義者たち Physiocrats

啓蒙主義経済 Enlightenment Economics


ケネーの『経済表』の基本的原理は、現在のマクロ経済の説明に驚くほどよく似ている(素人目だからなのかもしれないが、笑)。この時代にあった発想は今でも生きている、ということだと思う。古い時代の人々の業績を調べたり学んだりしながら、時代を超えて同じ対象について考えるということが行われるので、そのことに特別な意味があるのかもしれない。同じ情報に接するというのにも関わらず、解釈や意味付けなんかが異なる、ということなんだろう。


話が逸れたが、まず重農主義の一番オカシイ所は、一言で言えば、何かの宗教じみたところなのだろう。元々経済理論には違いないのであるが、それに留まらず、何かの思想かぶれというか、行き過ぎた自然信仰・「森羅万象の法則」的な神秘性を求めたことなのではないか。ケネーがそれを意図していたかどうかは別として(よく判らん)、少なくとも重農主義者たちには、ヘンな方向に行ってる傾向はあったようである。ニセ科学とか、「スピリチュアル何とかなんとか」とか、新興宗教とか、そういったものとの共通性があるかもしれない。例えば、「ロハス」みたいなのと近いような気がする。


ロハスの場合だと、重農主義で言う「自然」というよりも、「(自然)環境」「(自然な身体としての)健康」という意味だろうと思うけど、要するに「自然なもの」みたいなのに重要な価値を見出すという点で、同じ精神性を見る気がするのである。社会的に地位が高い、収入水準も、知識・教育水準も高い、そういう人たちが特にロハス支持者となっていることも、重農主義者たちとよく似ている。まあロハスのことは本題でないので別にいいのだが(勿論「ロハス」を批判したいわけではありません。例:牛肉ステーキを喰っていながら地球がどうとか健康云々もないだろ、アホか、みたいな)、重農主義の場合には、「自然の摂理」「宇宙の法則」「自然秩序」みたいな「真理的なもの」を根本原則に置いているということだ。それが最も美しい(望ましい)、と。ケネーのような外科医の人の発想だと、多分に「審美性」というのが判断に大きく影響していたのではないかと思っているが、どうだろうか?今までに、ケネーに関する研究で、そうした観点は述べられていたかどうかは分らない。


何故「Physiocracy」であったのか、ということへのヒントにはなるのではなかろうか?(もの凄く勝手な私的評価ですので、よろしくです)

参考までに、生理学というのは physiology と表される。語源的にはギリシャ語の「physis」ということで、自然とか起源を意味する。ラテン語でも同じく、自然や成長を意味する言葉である。そこからラテン語の「physiologia」すなわち、自然に対する知識や自然哲学、生理学を意味する用語が生まれた。元になったギリシャ語の「physis」を辿れば、ソクラテスの教えにまで遡ることになる。「economics」の語源となった「oikos」と「nomos」であるが、この「nomos」(法秩序)に対する考え方として「physis」(自然)があった。

重農主義者たちは「economistes」と呼ばれていたようであるが、考え方は真っ向から対立するものであったろう。それは「nomos」ではなく、「physis」に絶対性を求めていたからだ。それ故、「Physiocracy」と名づけたのは、当然のことのようでもある。その昔、ソフィストたちが盛んに主張していたノモスではなく、ソクラテス的な考え方を踏襲することを選んだのであろう。それをあたかも宗教のように、強く信じた人々がいたのではないかと思う。それは自然科学の進歩のせいでもあったかもしれない。自然界に密かに横たわる様々な法則は、余りにうまくできていると感じても不思議はない。まさしく神が、精妙な設計に基づいて構築したかのような「完璧な世界」であるとさえ感じるからだろう。もしも自然科学的な知識が全くなければ、自然界に対して「あまりに出来過ぎ」といった感覚は持たないかもしれない。


ケネー自身がこうしたある種の宗教的な、強い信じ方・態度をしていたかどうかは分らない(他の重農主義者たちは、あたかも入信者たちのように信じたのであろうが)。けれども、ケネーは外科医として「人体」についての「美しさ」を十分知ることになったであろうから、そこに「神の造形」的な神秘を感じていたかもしれない。私の個人的感覚であるが、大体の造形物には似た部分がある。それは、建築物であったり、工業デザインであったり、色々あるが、機能的に優れたものというのは、美しい形態・形状をしているものなのである。それは自然界に存在するものも同じで、人体の筋肉の走行とか、植物の花弁であるとか、昆虫の体の一部とか、色々とあるだろうが、どのような人工物よりも機能的に優れていて、特有の「美しさ」があるのだ。優れた外科医というのは多分「審美性」に対する鋭敏な感覚を持っていて、手術においても「美しさ」が重要なのであり、それは力量の証明でもあるだろう。ダメな手術というのは、基本的に美しくないものなのである。健康な人体というのは、必ず美しさを兼ね備えたものなのである。そうした感覚があるとすれば、「physis」を判断基準とするソクラテスの発想に共鳴するのは、ごく自然(笑)なのではなかろうか。『経済表』のように数字で示せるということも、「美しい説明」だろうと思う。数学者が、極めてシンプルな数式に美しさを感じるのと似ているのではないか。


「Physiocracy」という言葉であるが、「Democracy」や「Bureaucracy」のような語と成立としては同じではないだろうか。つまり、cracyの元々の意味は支配とか階級なんだけれども、「自然(法則)主義」というような意味ではなかろうか、と。なので、「重農主義」という訳語を与えた理由は分らないが、原語としての本来の意味は「physis」を根本基準に据えた主義とその支持一派ということなのではないかと思う。ここで言う「自然」という意味についても、「いい加減」「なりゆき」「ランダム」「無秩序」というような意図ではなく、むしろ「物理化学的法則」のような、自然科学のルールをイメージさせる。「自然の(中に隠れている)法則」というのは、決して無秩序な状態を指すのではなくて、「どのようなルール」なのか正確には記述できない(=今は判らない)が、人体のように、「何らかのルール、仕組み」によって「保たれている」「成長する」という意味だったのではないか。神秘性とか宗教性といった意図よりも、かなり科学的な方向性を指向していたのではないかと思うが、こんな解釈は大間違いである可能性が高いので要注意(笑)。きっとケネーの考えを聞いた人々の中から、所謂「狂信者」的な人々が登場してきたんじゃないかと思う。だって、あまりに画期的だったのでしょ?ケネーの説明が。


これと、現在辞書などに載っている「自然主義」と、どのような関係になっているか、というのは全く判らない。


「ノモス」への強い反発が、当時にはよくあったのかもしれない。人間の作った法や慣習というのは、きっと多くの間違いを含んでいる、だから「余計な手出しを、一切しない方がいい」と。これこそ、「レッセ・フェール」(laissez-faire)なのだ。しかも自然状態の達成とは、今で言う「均衡」のこととほぼ同じではないかと思うが、どうなのだろうか?商業と工業を合わせたクラスでは富の変化はないのであり、これも「費用と収益が一致する」ということと似ている。


「金利は価格であり、余計な規制はするな」というのも、よく似ていると思う。金利は需給の均衡で「自然に決まる」のであり、政府が人為的に作る「ルール」や「規制」はよくない、という主張と同じようなものなんじゃなかろうか。レッセ・フェールにも一理ある、と思うだろう、こう聞けば。レッセ・フェールが一番いいんだよ、と。


更に、「規制緩和」と似通った政策を求めたのも、重農主義の面白いところだ。

『かれらは国内取引と労働移動に関する規制廃止、賦役廃止、国営独占企業や交易特権の廃止、ギルド方式の解体などを訴えた。』と書かれているように、現代の日本でも共通する部分があるように思える。他にも政府主導の産業政策みたいなのについて、余計なことはせずに「放置しといてくれ」というのも、ドンピシャであろう。まるで、ケネーなどの重農主義者たちが、現代に生きていたかのようなことを言っているようだ。


「自然な状態が一番いい」という重農主義の価値観は、現代でも十分通用しているように思える。そして、形を変えて似たような主張をしている人たちが存在するのである。重農主義ほどの一貫性(?)はないかもしれないが。政府の政策がほぼ無駄(不必要)であるという時、財政政策や金融政策の必要性とか正当性は残されるのであろうか?経済というものは「レッセ・フェール」である時、最も望ましい状態(自然な状態=均衡?)が達成される、ということであるなら、本来的に「何もしない」ことがベストなのではないか?そうであるなら、金融・財政政策の存在意義とは何であろうか?という疑問はどうしても拭えない。


人体であれば、基本的にはホメオスタシスがあり、それを支える為の極めて複雑な組織・機能がある。維持装置関連の仕組み自体が、完全に記述できないくらい「複雑」なのである。では、経済活動はどうなのだろうか?そこまでの複雑性はあるだろうか?自然の状態で、人間ならば例えばオートレギュレーションの機構があったりするが、経済活動にはそれに類する機構は備わっているのであろうか?ビルトインスタビライザーは聞いたことがあるが、他にも色々とあるのだろうか?「何もしなくとも、自動的に均衡状態に至る」という機能があるのであれば、経済政策は必要ないかもしれない。それとも、現実世界の中では何かの影響があって、実際には均衡に向かえない何かの障壁が存在するのだろうか?ある部分にはレッセ・フェールが望ましい、としながら、他の部分には経済政策を必要とするのは何故なのだろう。それは経済というものが、人工物だからだろうか?部分も全体も、連続性がある(ように見える)のに?


何だかよく判らない。



自分の印象としては、ケネーとか重農主義者たちは、中々素晴らしいと思ったね。言ってることも、そんなに酷くないですよ。この程度ならば、現代のエコノミストであっても重農主義者以下、というレベルの人たちは普通に存在しているように思えるけど(笑)。




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