いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

3月11日を迎えて

2012年03月11日 13時48分55秒 | 俺のそれ
筆舌に尽くし難いとしか言えない。さまざまな方々に困難と苦悩があったと思うが、それは私の想像をはるかに超えているとしか言いようがない。私にできることなど、微々たるものでしかない。

私たちは今、生きている。
これからも、生きていこう。それぞれが、精一杯、生き続けよう。
私にできる最大のことは、生きてゆくこと、それだけである。


日本という国は、大震災を経てでさえ、未だに変わっていない。
変わらないのが良い面であるならいいのだが、悪しき部分がそのまま温存されている。反省なき国家、学びなき国家、ということである。国家とは大勢の一般国民ということではなく、国家権力を司る権力サークルの連中である。
杜撰極まりない政策対応、大局観もなく戦略もない意思決定、矮小な個々の利益と保身を最大の目的とする愚かな指導者たちが、この日本という国を牛耳っているのである。


この国には、根本的な問題がある。
究極の無責任体制、無責任主義である。
主体、というものがない。責任所在はどこにあるか、決めるのは誰なのか、結果責任を負うべき人間は誰なのか、不明のままでなし崩し的に進もうとするシステムだ。まさしく「空気」によって支配されてしまうという、正体不明の「顔ナシ」である。「決めるのは私ではない、こっちじゃない、そっちだ、どうするんだ、誰がやるんだ」といったなすり合いが行われるだけで、「オレが責任を取るから、こうしろ」と決定できない、ということである。

その上、決定能力を有する人間に決定権限が与えられていない。考えることができる人間には権限がなく、何もできない無能な官僚主義者たちに権限があるのである。そのことがより一層、事態の悪化を招くのである。
結果の重大性を考えれば、己がバカで無能で役立たずであることが明らかとなったって、どうだっていいことなのである。できる人間にこそやってもらうべきなのだ。


原発問題について、個人的意見をこれまでにも述べてきたが、再び書いておく。
原発は、今の日本の体制では到底手に負える代物ではない。運用が変わっていないのに、安全になどなるはずもない。そういう人間には、持たせられないものである、ということだ。

日本のシステムを喩えると、運転能力の不十分な人間に車を運転させるようなものである。
何か重大な事が起こってから、急いで車の構造を調べ始める、みたいなものだ。「ブレーキペダルはどれですか」と、事故が発生してからようやく調べるという体制なのだ。このような日本の管理体制では、車を運転する資格がない、すなわち原発など「任せることはできない」ということだ。
おまけに、車の供給者であるところの東電は、車の速度や方向や位置情報などを正確に教えず、政府が「車はどうなっているのか」と尋ねようとも答えない、ということになっているのである。どうして東電が政府にこんなに逆らえるのかといえば、東電を支援している「権力サークル」体制が存在しているからであり、それは日本政府よりも強力な為である。そうであるが故に、東電の隠蔽体質は温存され続けてきた。福島の事故後であっても、それはなんら変わっていないのである。


日本には、「軍隊を動かす」というような、組織を運用する能力が決定的に欠如している。絶対的な誤り、重大な誤りは正されるべきである。それは周りの人間がサポートすべきだ。それ以外については、能力のある人間が全権を負い、命令が一直線上になっていなければならない。ご託は後にしろ、たった今こうしろ、という軍隊的指揮命令系統が、全く機能しない。ごく一部の現場レベルでは、そうした運用が行われたのかもしれないが、こと原発事故と対応に関しては、全く無力であった。
むしろ、できもしない連中が、能力を欠いたまま、管理する立場で漫然と過ぎてきた、というだけである。対処能力もなく、無知ゆえの間違いも間違いであるかどうかさえ判断できず、誰も気づかず、考え教えることもできず、事態をただただ悪化させていった、ということである。

こうした運用能力の欠如は、機械を変えても結局は同じ、である。他の機械になったからとて安全性が向上するわけでもなく、最終的には人間が運用する限り、同じようなミスを繰り返してしまうだけである。実際、東電というのがそうだった、ということを、今回は決定的に立証してくれた。過去のミスは、東電支援の権力サークルが政治力を発揮して誤魔化してこれたが、今度という今度はそう簡単にはいかなくなった。
それでも、これほどの失敗を犯しておきながら、相変わらず誤魔化し工作や東電の責任逃れを支援している権力サークルは、心底性根の腐った連中なのだということがよく分かるであろう。


運用システムの根幹が、事実・事態・状況・結果などといった、ある程度の客観的評価のあるものに基づいているのではなく、極小の権力構造(官僚機構やマスコミなども含む)内にいる人間の利害や栄達のような「取るに足らない下らないもの」が投射されたものに基づいてしまっているのである。だから、不利益な情報や失敗の存在が明らかとなる情報などは、全て隠蔽される。
「分からない、困っている」ということを隠さんが為に、正しい支援もアドバイスも受けることができなくなってしまう、ということだ。この簡単な「分からない、困っていると表明すること」を受け入れることができず、逆に知られるのを怖れてもっと酷い事態を招いてしまう、という、まさしくシステムの重大な欠陥を抱えたままなのである。

このような連中に、原発のような危険なものを委ねることはできない、と何度も言っているのである。託せるのは、その運用能力があると信ずるに足るようになった時、である。運転ができもしない人間が運転するバスに乗るほど、私は楽天家ではない。手術ができない主治医に手術をしてもいいと認めることなど、私には不可能である。バスの運転手も、執刀医も、信頼に足ると確信している時だけ、わが身を委ねることができるだけである。期待水準に到達しているであろうことが推測できる場合でなければ、託せると考えるはずがない、ということだ。


政府も東電も原発支持派たちも、そうした疑念の回答を一切行わない。能力の立証を努力している形跡もない。
「前のはほんのちょっとしくじっただけさ、今度は大丈夫、ブレーキペダルの位置を知ったから安心してよ、もうできるさ」
事故を起こし続けてきたバカ息子がそう言ったとして、車の運転を任せられると思うか?バカ息子の大丈夫という言葉を信ぜよ、と言う方が無理である。


そうではあっても、反省なき国家は、何らの解決を示さないまま、愚かな選択を続けようとしているのである。
運用システムの重大な欠陥は、残り続けるだろう。これほどの被害をもたらしたにも関わらず、である。





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