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“適塾”遺構見学

1ヶ月以上も前の話で恐縮だが、大阪御堂筋の本町の北で“省エネ法”に関連するセミナーに 聴講参加するために、その会場を地図検索していたところ、その会場の近くに適塾の遺構が示されているのに気が付いた。以前に、適塾での福沢諭吉の“お勉強”ぶりについて言及したこともあり、気懸かりになり 思い切って時間を盗んで見に行った。

私は大阪で生まれ育ち、“お勉強”時代も大阪で過ごしたのだが、これまでそれほどの興味が持てず、機会があれば見ることもあろうかと思っていた程度だった。私にとって適塾は、高校時代の日本史で初めて知り、それ以降ほんの少し気になる存在となり、テレビの歴史ドラマなどの場面になっていたが、実際には今までとうとう見ることもなかったのだ。そのことに、若干の後悔の念もあった。
その場所は 北浜とされるが 実は 地下鉄・淀屋橋駅から難波方面に向かって南下して2つ目の辻を左へ、つまり東進すると 右手に古風な二階屋が見えてくる。それが 目指す“適塾”であった。手前西側には隣接して 小さな公園が整備されており、そこに緒方洪庵の座像がある。(写真の背後が適塾。屋根の上の物干し場で塾生達は酒を飲んだと言われる。)



下の写真は 内部展示されていた適塾の 模型で 手前が道路 北側の入口となっている。
説明文によると 道路側の前構の1階は 教室に、後構は洪庵の居宅に使われており、2階は 塾生の “お勉強”の場所と^ して使われていたようだ。



奥の方 南側に入って行くと 中庭というか坪庭の緑が、目にさわやかに映った。こういうところが昔の家の落ち着いた雰囲気を醸し出している。ふすまでしきられた畳の部屋がいくつもある。最後に 坪庭より広い奥庭があり、それに向かって 戸が開け広げられていて思わぬ開放感がある。緒方洪庵と夫人の肖像も展示されている。
ここまで来て、さて2階にはどのようにして行くのだろうか。階段に行き当たらないというか、見当たらなかったので それに気付かなかった自分自身のうかつさに、少々苛立った。
そして、どうやら食事をした部屋らしいところで、何かの家具だと思ったのが、階段であることにようやく気が付いたのである。というのも、その階段は異様に急で、足を乗せる踏み板も非常に狭く、しかも一段の高さが およそ30センチ以上もありそうで、階段というより梯子に近いものであることに大いに驚いた。そのそばで見上げることで2階に通じているようなので、どうやら階段だとようやく了解したほどであった。これでは 物を持って2階に上がるのは至難のワザである。

2階に上がるとすぐ西側を向いた窓があり、隣接する公園が見える。あの洪庵の座像のある公園だ。さらに、そのすぐ向うには鉄筋コンクリートのビルが幾つも見え、その瞬間、フト意識が現代に舞い戻って行くという不思議な感覚に襲われる。
いよいよ この2階が 当時の塾生たちがたむろしていた場所、ということだ。2階の方が 世俗の風をあまり受けることなく お勉強に専念できるという工夫だったのだろうか。まさに♪栄華の巷下に見て!の感覚だ。
洪庵を含めて大坂に在住した学者達の学問の系譜というか師弟・交流を示すパネルもあった。これを見ると シーボルトにつながる長崎と大坂の人的関係も深いものがあったようだ。
ズーフ部屋という 辞書を書写した部屋がある。その向う 北側に一段下がってかなり広い部屋が 学生の寝起きした所のようである。ここで、諭吉が 夜と無く、昼と無く 一心にお勉強していたのであろうか。ここで、枕もないことに気付く間もなく お勉強していたのであろうか。
この部屋にもいくつもの展示物があったが、“学問のすすめ”も展示されていた。

2階から また別の急な階段で下に降りた。そこは玄関のそばの“教室”だった場所であり、見学は振出しに戻った格好になったが、まだ時間も有り、直ぐに 退出するのも何となく面白くない。離れ難い思いで キョロキョロしていると、古地図パネルが展示されているのに気が付いた。どうして 最初に気付かなかったのだろうと思ったくらいだ。
それは適塾開設当時の 関連施設のロケーションを示したパネルであった。これを見ると、中之島は現在の東部部分があまり無い印象で、適塾より東から 存在していないようである。となると、現在の公会堂の建っているあたりから東は 陸地があまりなかったのだろうか。私の感覚が違っているのか、或いは正確な縮尺でないのかも知れないと思ったりした。
赤い丸点で示された各施設の位置関係は、旧の阪大病院の敷地に 隣接するように 福沢の中津藩蔵屋敷があったということのようであり、洪庵の足守藩の蔵屋敷は さらに中之島の西端に存在した、ということのようだ。江戸時代の大阪の市街地が この辺りに集中していたとは言え、いずれも互に近い場所にあったということに、大いに興味を引いた。
諭吉が どういう経過で適塾に入塾したのかは あまりよく知らないが こんなに近い場所ならば チョット向学心がある者ならば 当然だろうと思う。まぁ 東大のそばに住んでいる秀才が 当然のごとく東大生になるようなものだったのだろう。

江戸時代の大坂が “天下の台所”であったと同時に、当時の日本の文化的中心都市であったというのは 現代ではあまり想像できないことだが、どうやらそれが真相のようだ。幕藩体制の封建時代にあって商業都市大坂には自由な気風があったのに違いなく、それが大勢の文人墨客を引き寄せたのかもしれない。そして、その文化は、どうやら実学や理科が中心であり、それが蘭法医学を中心とした蘭学に発展したのは興味深い。幕府のものではない私的な天文台があったという。堂島の米相場から 近代先物取引が始まり、ロウソク足の罫線チャートが 世界で始めて用いられた、というのも 知られざる事実である。
そして、実は近代日本になっても戦前までは 大大阪として 東京を凌ぐ都市であったということも 少しずつ了解し始めているところである。当時は 日本で始めてのモノが数多く大阪に存在したようである。東洋初や東洋一というものが多かったというのは正にそのことを示しているのではないか。実は 近代マスコミの中心たる今の大新聞も大阪が発祥の地であった。このように、かつては関東に対する関西というより、上方と言うにふさわしい大都市であったのだ。
今や日本にとって東京の一極集中を防ぐためにも 大阪の再生は必要なことだと思うし、大阪は日本の都市自治のあり方を示すバロメータになるものとも思うのだ。


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