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善通寺散策(1)―善通寺での昼食

先月末、このところの毎年の恒例によってEMS審査で高松に赴いた。主審査員として2年目なので、後わずかに1年を残すだけとなった。昨年は屋島観光したが、今年は西に行くことにして空海の生誕地である善通寺に赴き散策してみることにしていた。というのも、昨年までは見習い的立場で副審査員としても毎年来ていたのだ。初回は2日間審査で観光の余地は無かったが、その後の確認審査ではスケジュール上前泊とせざるを得ず早目に現地入りすれば、付近を観光する時間的余裕は生まれる。と言う訳で、その後は先ず栗林公園と高松(玉藻)城、金毘羅さん、屋島・四国村と見て廻って来た。

今夏の高校野球甲子園大会に香川県代表で尽誠学園が出場し、その際テレビで所在地の郷土PRをしていた。そこでは、善通寺の紹介もさることながら、陸上自衛隊の駐屯地であり昔のままの煉瓦兵器庫が今も現役で使用されているとのことだった。そういえばここは、あの乃木大将がかつて師団長として勤務していたという、旧陸軍四国管区部隊の伝統の地であることを思い出した。ネットで調べてみると、案の定、乃木館という旧陸軍第11師団司令部の建物が観光対象になっていることが分かった。そこで、早目に高松に到着し、“うどん”と“善通寺”、“煉瓦兵器庫・乃木館”を目指して善通寺市街を散策することにした。

神戸より高速バスで高松に11時頃に到着。予約していたJR高松駅前のホテルに荷物を預けるつもりが、好都合にもチェックインもついでに済ませて、バスの中で準備したサブバックを手に11時過ぎの観音寺方面行きのJRの列車に乗込む。正午目前だったが、三々五々結構乗客は居た。
多度津で予讃線から土讃線へ乗り換え。この駅の雰囲気には、どことなく昔の国鉄の懐かしさが漂う。何がそうさせるのかは直ちには分からない。写真を撮る。ヒョッとして蒸機用の給水タンクが残っているからだろうか。通過する駅のほとんど無人なので、改札も担当する車掌さんは停車毎に走り回って大変だ。

多度津から2駅目、確か12時過ぎに善通寺に到着。ここを通り過ぎると、金毘羅さんにたどり着いてしまう。
12時過ぎているので昼食となるが、この駅から真っ直ぐ西に向かう道路上に目指すうどん屋さん・こがね製麺所がある。前もってGoogleで付近の映像を見ているので、戸惑うことなく看板を見つけ入る。既に店内に行列が出来ていて、店の人気は高そうだった。“乃木うどん”があると“食べログ”にあったので何かのイベント時期のものかと思っていたが、現地メニュー・ポスターにもあったので、頼んでみた。店の若いお兄さんは戸惑った表情を見せたので、普通の人は頼まないのかと不安に思ったが、“少々時間がかかるので”ということで、そのまま注文。親子丼ならぬ“親子うどん”に餅が入った熱々のうどんだった。これが、何故“乃木将軍”の名を冠するのかはネットでも分からず、未だに私は知らない。乃木将軍が当時の栄養不足の若い兵士に工夫して食べさせようとしたレシピだったのだろうか。野菜のおかずが欲しかったので、蓮根の天ぷらを追加。未だ残暑が残る時期だったこともあるが、どうも“讃岐感”乏しく、作り込んだ印象無しで、その不運に残念。これならば、普通のぶっかけでも食べればよかったが、後の祭り。何の因果か、せっかくの香川でうどんを食べる機会はこれきりだった。



寺門である赤門は意外に小ぶり。その向こう左手に立派な五重塔が見える。これはさすがの古刹だ。後で分かったが、この赤門は二次的な入口で五重塔の南側にある南大門が正規の門のようだ。こちらの門は古刹にふさわしく大きい。
伽藍配置の図を見て分かるが、善通寺は東院と西院に分かれている。この説明は寺側のHPに次のようにある。
“東院は、お大師さまが自ら建立された、もともとの「善通寺」だ。大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日、斧始めをなして、尾背山より木材を運び、諸堂の建立が始まり、弘仁4年(813)善通寺伽藍諸堂が落慶した。この時建立された堂塔は、金堂、大塔、講堂、法花堂などの15宇でありまして、お大師さまが密教を学んだ、唐の長安・青龍寺の伽藍を模して建立されたと伝えられている。 しかしながら、永禄元年(1558)の兵火によって、その時までの約750年現存していた創建当初の伽藍諸堂は全焼してしまった。 その後、戦国時代が終わり、生駒家、京極家といった讃岐の大名をはじめとした、朝野にわたる援助により再建が進み、現代に至る。”
“西院には、もともと、お大師さまの出自の佐伯家の邸宅があった。東院の「善通寺」創建の時には、父君善通公も母君玉寄御前も佐伯家の方々は、この邸宅にお住まいになっていた。その後、善通公の一族は京都に住まわれることになり、後の世において、その跡地に御影堂を中心とした「誕生院」が整備された。御影堂奥殿のある場所は、その佐伯家邸宅のありし時は母君のお部屋のあった場所と伝わっており、まさしく今奥殿の建つこの場所こそが、お大師さま御誕生の聖地なのである。”



実は、この東院と西院の間に食べログで注目の菓子店がある。西院の仁王門入る前の南北の通り北側右手にその店は直ぐに分かった。古いまるで戦前のままの菓子店の風情だ。炭水化物は健康上避けたいので、そんなに沢山は買えず、木造りのショウ・ケースを覗き込んでいると奥からおばさんが現われる。残念ながら愛想はあまり良くない。少なくとも石パンは買おうと思っていたが、これは最低100gでしか売らない、という。100gも買うと、私には思いの外多量になる。仕方なく石パンだけ100g買った。昔風の紙袋に入れて、衛生と風味の持続を考慮してか透明ビニール袋に入れてくれる。
この石パン後で食べてみたが、形、大きさは不ぞろい、そこに返って手作り感がある。硬いのは覚悟していたが、歯に自信のない私でも結構食べれて、良かった。嚙んでしまうと、直ぐに溶けてなくなってしまうので楽しくなる。後味が甘いので歯の欠ける恐れを抱きながらも次へと食べたくなる。戦前を知っている親父がよく言っていた硬い乾麺麭(カンメンポつまり乾パン)は、このパンの不味い版なのだろう。だからこの店の看板には“本家かたいパン”とあるのだろう。



駐車場を眺めても仕方ないので、西院の広場へ戻って一周する。すると誰かが鐘を突いた。すばらしく長い余韻があり、いかにも名鐘であることが分かる。御影堂の前から御影池に出る。そこの蓮の花を見て、気が付けば、境内の外にいた。そのまま東へ進むと、東院の南大門の前に出る。もう一度、境内を覗き込んで、龍王社を観ていないことに気付いたのでその周囲の池をしばらく廻った。空海大師が産湯に使った井戸があるとのことだったように思い、どこかに明示されているだろうとやって来たのだが、さっぱり分からないままだった。御影池がそれに当たるのだろうか。西院で寺の誰かに尋ねればよかったのかも知れない。

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